熊野若王子神社

祭神として、国常立神(くにとこたちのみこと)、伊佐那岐神(いざなぎのみこと)、伊佐那美神(いざなみのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。 当社は、永暦元年(1160)後白河法皇が、熊野権を勧請して建立した若王子の鎮守社で、社名は天照大神の別称「若一王子」に因んでこのように名付けられた。 以後、室町幕府及び武家の信仰を集めると共に、花見の名所としても知られ、寛正6年(1465)3月には、足利義政により花見の宴が催された。 その後、応仁の乱により社殿は荒廃したが、豊臣秀吉により再興され、社殿及び境内が整備された。 現在の社殿は、昭和54年(1979)に一社相殿に改築されたもので、以前は、本宮、新宮、那智、若宮の四棟からなっていた。 また、境内には、末社として恵比須神社及び三解社が祀られ、背後の若王子山頂には、同志社英学校(同志社大学の前身)の創立者である新島襄の墓がある。

天得院(桔梗の寺)

万松山(ばんしょうざん)と号し、臨済宗東福寺派に属する。 南北朝時代の正平年間(1346~70)東福寺第30世住持無夢一清(むむいっせい)禅師が開創した。 その後、年と共に寺は荒廃していったが、大機慧雄(だいきえゆう)禅師により再興され、慶長19年(1614)文英清韓(ぶんえいせいかん)長老が住持となった。 清韓は、豊臣秀吉、秀頼の学僧として寵遇され、秀頼の請に応じ方広寺の鐘名を撰文したが、銘文中の「国家安康、君臣豊楽」の文字が、徳川家を呪詛(じゅそ)するものとして徳川家康の怒りを招き、ついに、寺は取り毀されたといわれている。 現在の堂宇は、その後の天明9年(1789)に再建されたもので、明治元年(1868)には、山内の塔頭本成寺を合併して今日に至っている。 庭園は、美しい苔に覆われた枯山水庭園で、桃山時代の作庭とも伝えられている。  また、境内には、歌人の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)の句碑が建っている。

若宮八幡宮

当社はもと六条醒ヶ井(さめがい)にあり、源頼義(よりよし)(八幡太郎義家の父)が八幡の若宮として祀ったものと伝えられている。 当初は六條(ろくじょう)八幡、左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれ、源氏一族や多くの武士からの信仰厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めた。 しかし、応仁の乱により社殿は荒廃し、以後社地も転々とし、慶長10年(1605)この地に移った。 現在の社殿は承応3年(1654)に再建されたもので、本殿には仲哀(ちゅうあい)天皇、応神(おうじん)天皇及び神功(じんぐう)皇后を祀り、相殿(あいどの)には仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀っている。 毎年8月7日から10日までの間には若宮祭とその協賛行事として陶器祭が行われる。 陶器祭は後に合祀された陶祖椎根津彦命(しいねつねひこのみこと)の祭礼で、氏子の陶磁器業者が中心となり、五条坂一帯で盛大な陶器市が開かれる。

長楽寺

805年(延暦24)最澄(伝教大師)が創建、天台宗に属したが室町初期に国阿上人が時宗に改宗。 建礼門院が平家滅亡後、この寺で落飾した。 安徳天皇の御衣で作った仏幡などの寺宝を展示(現物は春季特別展(4/1~5/10)のみ展観)。 頼山陽・頼三樹三郎親子の墓がある。 円山公園の奥。 時宗の祖師一遍上人像他6体の重要文化財の肖像彫刻がある。 相阿弥作庭園。 徳川慶喜ゆかりの「尊攘苑」(水戸烈士墓所)。 市内一望絶景地。

大雲院

東山区祇園町南側。浄土宗の単立寺院。 天正年間(1573-92)織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、父子の知遇を得ていた貞安上人が、信忠の法名をもって二条烏丸に創建。 のち寺町四条に移転したが、天明・元治の大火で焼失。 明治初期に復興、1973年(昭和48)現在地に移転した。 本堂の背後に山鉾を模した祇園閣がそびえる。 信長父子供養塔がある。 ◆祇園閣 1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部である。 屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったためである。 祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。 1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。

退耕庵

臨済宗東福寺の塔頭寺院である。 貞和2年(1346)東福寺第43世住持性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建され、応仁の乱の災火により一時荒廃したが、慶長4年(1599)安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興された。 茶室作夢軒(さくむけん)は、再興寺に恵瓊によって建てられたもので、豊臣秀吉の没後、ここで、恵瓊、石田三成、宇喜多秀家らが、関が原の戦いの謀議を行ったと伝えられている。 庭園は、書院をはさんで南北2庭からなり、南庭は美しい杉苔に覆われた枯山水庭園で、北庭は池泉式庭園となっている。 地蔵堂に安置する高さ約2メートルの地蔵菩薩像は、胎内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていたことから「玉章(たまずさ)地蔵」の名で知られている。 なお、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの際には、東福寺に長州藩の陣が置かれていたことから、当庵はその戦いの殉難者の菩提所となっている。

毘沙門堂 勝林寺

東福寺の塔頭で、天文十九年(一五五〇)に第二百五世住持・高岳令松によって創建された。 仏法と北方を守護する毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。 もと、海蔵院という寺の鬼門に当たった事からその鎮守とされ、やがて東福寺一山の鎮守として祀られるに至った。 本堂は大壇那であった近衛家の大玄関を移して建立され、境内には一切経を埋めた石塔が建てられている。 毘沙門堂に安置する毘沙門天立像は、高さ百四十五・七センチメートルの等身大に近い一木造の像で、左手に宝塔、右手に三叉戟をもった憤怒相、作は平安時代十世紀後半頃に遡ると言われている。 長く東福寺仏殿の天井裏にひそかに安置されていたが、江戸時代に開山・高岳令松の霊告により発見され、勝林寺の本尊として祀られたという。 脇侍の吉祥天像、善膩師童子像はともに江戸時代の作で、衣の色彩も鮮やかに残っている。

龍吟庵

臨済宗東福寺塔頭。 1291年(正応4)東福寺三世大明国師無関普門(南禅寺開山)の住房跡で、多くの文化財を有する。 本尊宝冠釈迦如来。国宝方丈・庭園(重森三玲作庭)・特別公開時のみ。 開山堂に、寄木造、玉眼入り、彩色の等身大で、曲ろくに座す大明国師像(重文)を安置する。 庫裏・表門とも重文、方丈は、現存する最古の方丈建築(国宝)。

清水寺 成就院

清水寺成就院の庭園は、烏帽子石、籬島(まがきじま)石などの奇石を配した借景式・池泉鑑賞式庭園。 蜻蛉(かげろう)燈籠、手毬(てまり)燈籠、誰ヶ袖(たがそで)手水鉢など、他では見られない石造の珍品も。 江戸時代初期の作庭で、心字池に映る月影が見事で、「月の庭」といわれてきた。 向かいの山腹は石燈篭を置き、遠近感を出す工夫が面白い。 国の名勝に指定されている。