光雲寺

霊芝山(れいしざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する。 南禅寺北ノ坊とも呼ばれる。 もと摂津(大阪府)にあったが、寛文年間(1661年頃)後水尾天皇及び中宮東福門院(徳川家康の孫娘和子)が南禅寺の英中禅師に深く帰依され、当寺をこの地に移して再興された。 本尊には、東福門院(とうふくもんいん)の釈迦如来と観音菩薩を賜って安置した。 歴代皇室の尊崇あつく、元久邇(くにの)宮家の菩提所となっている。 もと境内は広大であったが、火災に遭い、また明治の初めの変革により縮小された。 本堂には、本尊のほか左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者東福門院の坐像を安置する。 書院南の庭園は、昭和の初め造園家小川治兵衛が作庭した。 疏水の水を引き、背景の山を借景とした池泉廻遊式の名園となった。 朝鮮伝来の碼碯(めのう)の手洗鉢が庭の東北隅にあって有名である。 寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。

友禅苑(知恩院内)

知恩院友禅苑は、友禅染の祖、宮崎友禅斎誕生300年を記念して、昭和29年に改修造園されました。 東山の涌き水を配した「染糸の滝」を有する池泉式庭園と、枯山水の鹿野苑で構成され、補陀落池の中央には、高村光雲作の観音像が水面に映えるその姿は深い趣を感じさせます。 また、苑内には、裏千家ゆかりの茶室「華麓庵」と、知恩院第86世中村康隆猊下白寿の記念に移築された茶室「白寿庵」があります。 友禅染を生み出した友禅斎ゆかりの庭園と呼ばれるのにふさわしい、華やかな昭和の名園です。

安養寺

円山(えんざん)と号し、時宗に属する。 延暦年間(782~806)最澄(伝教大師)が開創したと伝え、法然・親鸞両上人念仏発祥の地・吉水(よしみず)草庵として有名である。 のち、建久年間(1190~1199)に至って慈鎮(じちん)(慈円・関白九条兼実の弟)が中興し、安養寺と称した。 その後、次第に衰微したが、至徳年間(1384~1387)には国阿(こくあ)上人によって再興され、以後、時宗に改まった。 境内には、もと六阿弥坊があって、いずれも林泉の美と眺望に富む楼閣を構え、遊客に席を供して風流行楽の域となった。 しかし、明治維新の際に六坊は廃寺され、また火災にあうなど次第に衰微し、今は門内境内に阿弥陀堂・書院を、飛地の境内(ここから約50メートル南へ下る)には弁天堂、慈鎮和尚多宝塔を残すだけである。 弁天堂は、慈鎮が叡山から勧請(かんじょう)したものといい、技芸上達の祈願の信仰が厚い。 弁天堂の東北隅にある慈鎮和尚多宝塔は、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏が並座する鎌倉時代初期の逸品である。

雙林寺

唐から持ち帰った天台密教疏500巻などを献上した最澄のために桓武天皇が左大史尾張定鑑に命じ伽藍を建立させたのが始まり。 1384年(至徳1)時宗国阿上人が再興。国阿派の本山となったが、明治初年、天台宗に復した。 本尊薬師如来(重文)は平安初期の作。