北山と号する臨済宗相国寺派の別格本山で、足利義満が応永4年(1397)に営んだ山荘・北山殿を、その死後、禅寺に改め、義満の法号をとって鹿苑寺と名付けたものである。 金閣(舎利殿)は、宝形造り(ほうぎょうづくり)こけら葺きの山荘楼閣で、初層は藤原時代の寝殿造り風、第二層は鎌倉時代武家造りの仏間風、第三層は禅宗仏殿風の様式をとり、二層、三層とも漆塗の上に金箔を押してある。 昭和25年(1950)に焼失し、昭和30年(1955)に再建され、さらに昭和62年(1987)に金箔張替修理が行なわれた。 壮大な池泉回遊式庭園は、特別名勝に指定され、池の北方には、萩の違い棚と南天床柱で名高い茶室・夕佳亭(せっかてい)がある。
今出川・北大路・北野
北野天満宮(天神さん)
菅原道真公を祀り、一般に「北野の天神さん」と呼ばれ、学問の神として崇められている。 天暦元年(947)の創建と伝え、天徳3年(959)藤原師輔(もろすけ)によって社殿が整備され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉が、付近一帯の松原で北野大茶会を催した。 本殿(国宝)は、豊臣秀頼が、慶長12年(1607)に造営したもので、権現造(ごんげんづくり)の代表的遺構である。また、中門は三光門と呼ばれ、後西天皇筆の勅額「天満宮」を掲げている。 宝物としては、紙本著色北野天神縁起絵巻(国宝)などの貴重な文化財を蔵している。 毎年2月25日には梅花祭、10月14日には瑞饋祭(ずいきまつり)が催されるほか、毎月25日の道真公の命日には多くの参拝者で賑う。 ◆由緒 菅公御歌「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」 北野天満宮は学問の神様として親しまれている菅原道真公を御祭神とじてお祀りした神社で、今を去ること千有余年前、村上天皇の御代天暦元年(947年)に御神託により王城鎮護の神として創建され、以来「天神様」として人々の篤い信仰を集めている。 「東風吹かば・・・」の御歌や神社の神紋(梅鉢紋)にも代表されるように梅と天神様の関係は大変深く、北野天満宮の境内・梅苑一円には約50種類、2000本もの梅の木があり、紅梅白梅の美しい花弁を一重・八重と咲き誇る風情は独特の趣があり、古くより都随一の梅の名勝としてその名を馳せている。 梅苑西側には、天正19年、豊太閣が京都の整備事業の一環で築いた史跡「御土居」の一部が残存しており、秋には紅葉の美しい景勝の地としても大変魅力的である。 その横を流れる紙屋川は往古、紙漉きの川として利用したことでその名を残している。 冬から春にかけての観梅が終わると、梅の木は豊かに実を膨らませるが北野天満宮では、この梅の実を新年御祝「大福梅」(初茶用)として調整し、参拝者に授与している。 梅苑の公開は例年2月初旬より3月下旬まで予定している。
京都御所
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
上古この付近一帯に繁栄した賀茂氏が創祀した京都最古の神社である。ご祭神として賀茂 別雷神を祀る。賀茂伝説によれば賀茂氏の祖神建角身命の女玉依姫命(たまよりひめ)( ともに下鴨神社に奉祀)が瀬見の小川(賀茂川)を流れ下る丹塗の矢に感じて、別雷神( わけいかづちのかみ・大自然を支配する神)が出現したと伝える。 平安奠都(てんと)(794)とともに賀茂別雷神に対する信仰は高まり、特に五穀豊穣 の神の雷神を祭ることから農民の信仰を集め、全国雷神の中心となった。謡曲「賀茂」は この縁起を叙べて、五穀豊穣国土守護の神徳を讃えた曲である。皇室でも嵯峨天皇の弘仁元年(810)以来、内親王が斎王として奉仕される慣わしとなり、山城国一ノ宮とよばれて伊勢神宮と並ぶ崇敬を捧げられた。 社殿は21年毎に造営される慣例であったが中世以来中絶した。本殿(国宝)は流造神殿 の典型で権殿(国宝)とともに三間社流造、桧皮葺で文久3年(1863)の建築である。 この外社域にある中門、幣殿など40棟の建物の多くは寛永5年(1628)の造替で重 要文化財に指定されている。 毎年5月15日の賀茂祭は三大勅祭の第一で俗に葵祭の名で親しまれており、当日は平安 朝の古式ゆかしい行列も都大路に繰りひろげられる。さらに5月5日の競馬会(くらべう
晴明神社
当神社は平安時代に活躍された天文博士安倍晴明公を祭る神社で創建は社伝によれば、晴明公没後 二年の寛弘四年 (1007年)です。 安倍晴明公は、古代豪族安倍氏の出で、伝説(葛之葉子別れ伝説)では、父安倍保名が和泉の信太 明神(聖神社)に参詣の折、助けた白狐(葛之葉姫)と結ばれて当地阿倍野で生誕されたと伝えます。 幼名は安倍童子で、資性英明学問を好み、京都に上り陰陽家の賀茂忠行と子息保憲に師事し、陰陽 推算の術を修め、天文博士、大膳大夫、播磨守を歴任し、従四位上に叙されました。占いは百占奇 中神の如しと称され、花山天皇の退位を予知し大江山の鬼退治を指導した事は有名で、又職神(精霊)を自在に駆使したと伝えます。
平野神社
源光庵
鷹峰山(ようほうざん)と号する曹洞宗の寺である。 当寺は、貞和2年(1346)大徳寺の徹翁義享(てつとうぎこう)によって創建され、当初臨済宗に属していたが、元禄7年(1694)加賀国(石川県)大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)が再興し、曹洞宗に改められた。道白は、当時の曹洞宗の改革に努め、自ら復古道人と称した。 本堂には、本尊釈迦牟尼仏及び霊芝観世音像を祀る。廊下の天井は、鳥居元忠が自刃した時の伏見城の遺構と伝え、俗に「血天井」と呼ばれている。また、内部の丸窓は「悟りの窓」、角窓は「迷いの窓」と呼ばれ、いずれも仏教の真理を表わしている。 境内の「稚児井戸」は、創建の頃、水に窮した徹翁が、童子に教えられて得たもので、いかなる旱にも涸れたことがないといわれ、現在も清水が湧き出ている。 ◆由緒 鷹峯山宝樹林源光庵と号し、今より六百五十余年前の貞和2年(1346)、臨済宗大本山大徳寺二代徹翁国師の開創によるものであるが、元禄7年(1694)加賀国大乗寺二十七代曹洞宗復古道人卍山(まんじさん)道白禅師が当寺に住持せられ、これより曹洞宗に改まったのである。 現在の本堂は元禄7年の創建で、間口11間半(21m)奥行7間(13m)加賀の住人静家居士の建立による。 本尊は釈迦牟尼仏、脇立迦葉尊者、阿難尊者を祀る。復古堂には開山卍山禅師の木像を安置し、その下に舎利を収む。 卍山禅師は学徳兼備の高僧で、曹洞宗道元禅師の正伝の仏法に復古された。 発願より42星霜の歳月を経て成就されたのである。 黄檗山鉄眼禅師の大蔵経刻版、東大寺公慶上人の大仏殿建立と共に、その事業の功績は三者並び称せらる。 本堂西安置の霊芝観世音は、開山禅師が天和元年(1681)の春、洛南補陀落山に於いて御感得の霊芝自然の観音像であり、百十一代後西天皇は殊の外尊崇篤く、宮中で御供養遊ばされたもので、世に広く信仰され、開運霊芝観世音と唱う。 境内には、宗統復古碑があり、又、道元禅師ご真筆の書画及び卍山廣録・宗統復古志・鷹峰聯邦系譜等の木版を保存している。 本堂内の血天井は伏見桃山城の遺物であり、慶長5年(1600)、徳川家康の忠臣鳥居彦右衛門元忠一党1800人が石田三成軍勢と交戦したが、武運拙く討死し、残る380人が自刃して相果てたときの恨跡である。 また、本堂には悟りの窓と名付けられた丸窓と、迷いの窓という角窓がある。 悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表し、角窓は人間の一生を象徴して「生老病死四苦八苦」を表している。 西の谷の稚児井は六百五十余年前よりの伝説あり。多くの人々を水飢饉より救ったと伝えられる。 ◆伏見桃山城遺構血天井 豊臣秀吉(慶長3年没)の死後、徳川家康は既に所領250万石、家康は天下の権を握ったも同様であった。慶長4年3月13日、家康は伏見桃山城に入った。ところが陸奥、会津若松にあって150万石をうけていた五大老の一人である上杉景勝が叛すとの情報が入り注進をうけた家康は慶長5年(1600)6月16日伏見城を出て会津へ向かった。このとき伏見城本丸に鳥居彦右衛門元忠、二ノ丸松平主殿頭家忠、松ノ丸に内藤弥次右衛門家長を留守居とした。 家康は元忠に、「わずかばかりの兵を残して行くが、伏見は要衝であるから頼むぞ」と云えば、元忠は「会津はなかなかの強敵です、一人でも多くの兵を行かれた方がよろしいと思います。伏見は私一人で結構です。もし伏見で変があっても誰も助けてはくれますまい。たとえ何万の兵を残されても結局は同じことです。」と云い「もし会津出兵中に変事がなければまたお顔を拝することが出来ましょう。しかし、事あればこれが永遠のお別れです。」この言葉が事実となってあらわれたのは、家康が江戸へ入り軍勢を整えていたときであった。 7月18日、伏見城守護の元忠のもとへ石田三成、増田長盛らが使者を立て、「伏見の城は太閤が築かれたもので徳川のものではない。早く城を出て大阪の秀頼へ忠をつくされては如何」と申し入れてきた。家康が江戸へ入ったのを見届けると三成は罪状十三ヶ条(家康は太閤の遺言にそむき秀頼をみすて政務を独裁している)を並べ諸方に奮起をうながしていた。集まる兵力9万3700余、家康をむかえうつ拠点として血祭りに伏見開城を迫ったのである。 元忠は「主君家康公は、会津へ出発の折り、固く城を守るべしと言い残しておかれた。どうして主君の命にそむけよう、かくなる上は城を枕に討ち死にする以外にない。」と拒絶した。これを聞くや翌19日夕刻、三成に加担する兵4万がひしひしと伏見城を包囲した。城兵わずかに1800人を数えるのみであった。 伏見城の攻略は10日余り続いた。7月末の夜ついに忍びの甲賀の者、内通し松ノ丸に火を放った。これに勢いを得た寄手(よせて)がどっと乱入。内藤家長55歳をもって戦死。松平家忠も45歳を一期に散り、部下将卆すべて切腹した。鳥居元忠戦い疲れて本丸玄関に腰をかけ息つぐところへ雑賀孫市(秀吉直属の鉄砲頭)が死体をふみ超え肉薄。これをみた元忠は「われは総大将鳥居彦右衛門なり、首を取って功名にせよ。」と叫び自ら腹をかき切った。ときに元忠62歳、ともに討ち死にした部下380人と云われる。 なお鳥居元忠の首は、大阪京橋口にさらされたが、元忠と交わりのあった京の呉服商佐野四郎右衛門が「さらし首とはあまりにむごい」と夜半に盗み出し智恩寺の墓に葬ったと云われる。 現在血の染まった天井は討ち死にした兵士の残せるもので床板を天井としたものである。その血板は本堂全域の天井にわたるが数と処に於て鮮明な足型、手型等の血跡があり、当時の悲惨さを物語っている。 当寺は開山卍山禅師と徳川家との密接な関係により、当寺本堂再建の際、伏見桃山城の床板の一部を移したもので、これら諸兵の菩提を弔って居り、現在文化財として維持している。
原谷苑
今宮神社
平安期以前から疫病鎮めに疫神を祀った社があったといわれる。 994年(正暦5)都の悪疫退散を祈り、御輿を造営し紫野御霊会を営んだのが今宮神社の起りである。現在の社殿は1902年(明治35)の再建。 「阿呆賢さん」と呼ばれる神占石は叩くと怒るともいわれ、撫でて軽くなれば願いが叶うとされる。四面仏石(現在は京都国立博物館に寄託)などが有名。 4月第2日曜のやすらい祭は京の三大奇祭の一つ。 徳川五代将軍網吉の生母 桂昌院の氏神社として、良縁開運「玉の輿」のご利益を願う人で賑う。 ◆由緒 大国主命・事代主命・奇稲田姫命の三柱をまつる神社で正暦5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、疫病の神として信仰が厚い。一条天皇は疫病除のために御霊会を修せられ長保3年(1001)に初めてこの三柱を現地に勧請せられた。 本殿は明治35年(1902)の再建で、その西にある疫神社は本社が鎮座される以前からあったといわれ、素盞鳴命を祀る。 今宮の名は、この古い疫神社に対し、新しい宮を意味する名称である。 なお、4月の第2日曜日に当社で行う「安良居祭」は桜の開花の頃に行う病鎮めの祭事であり、京都の奇祭の一つとして知られている。
相国寺
臨済宗相国寺派大本山。足利義満が創建を発願、1392年(明徳3)に完成、夢窓国師を開山とした。 山内に禅宗寺院を統制管理する僧録司を置き、禅宗行政の中心的存在であったが、失火で炎上、5年後に七層の宝塔を建立したが落雷で焼失するなど衰退、再建を繰り返した。 法堂(重文)は豊臣秀頼の寄進。天井に狩野光信筆の蟠龍図が描かれ‘鳴き龍’で知られる。 寺宝は、無学祖元墨蹟(国宝)をはじめ、文化財は多く、1984年(昭和59)、一山の美術品を一堂に集めた承天閣美術館ができた。 ◆由緒 足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命をうけ、約十年の歳月を費やして明徳3年(1392)に完成した一大禅苑で、夢窓国師を勧請開山とし、五山の上位に列せられる。その後応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したが、度重なる災禍にもかかわらず当山は禅宗行政の中心地として多くの高僧を輩出し、室町時代の禅文化の興隆に貢献した。 後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の法堂を建立し、慶長14年には徳川家康も三門を寄進した。他の堂塔も再建したが天明8年(1788)の大火で法堂・浴室・塔頭九院のほかは焼失。 文化4年(1807)に至って、桃園天皇皇后恭礼門院旧殿の下賜を受けて開山塔として建立され、方丈・庫裏も完備されて漸く壮大な旧観を復するに至った。 現在は金閣・銀閣両寺をはじめ九十余カ寺を数える末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。 法堂(重文)は桃山時代の遺構でわが国最古の法堂、一重裳階付入母屋造りの唐様建築で本尊釈迦如来および脇侍は運慶作。天丼の蟠龍図は狩野光信(永徳嫡子)筆。 法堂北の方丈は勝れた襖絵を有し、裏庭は京都市指定名勝となっている。開山塔内には開山夢窓国師を安置。開山塔庭園は山水の庭と枯山水平庭が連繁する独特の作庭である。 ◆法堂(重要文化財) 「無畏堂」と称し、仏殿を兼ねている。豊臣秀頼によって再建されたもので、法堂の中では最古のものある。 天井には狩野光信によって描かれた蟠龍図が見事で、鳴き龍として有名である。 ◆庫裡 庫裡は香積院と称し、大きい破風や壁面が特に印象的である。 ◆専門道場・坐禅堂 当寺の修行道場「専門道場」は、塔頭の一つ大通院があてられている。坐禅堂は「選仏場」といわれ、日夜雲水(修行僧)が坐禅修行にはげんでいる。 ◆方丈 方丈は法堂の北側に建つ大建築で、東は庫裡に続いている。文化4年(1807)に再建のものである。 ◆承天閣美術館 相国寺や金閣寺・銀閣寺等の国宝、重文をはじめとする多数の什宝を展示公開している。