三時知恩寺 (旧入江御所)

浄土宗の尼門跡寺院である。 14世紀半ば、後光厳天皇皇女見子内親王の創立に始まる。内親王は深く仏教に帰依し、宮中に安置された唐より招来の善導大師像をたまわり、当寺の本尊とされた。 崇光院帝の旧御所を当寺にたまわり、よって入江御所と称された。称光天皇皇女了山尼公も入寺された。 後柏原天皇は厚く浄土教に帰依され、昼夜六時の勤行のうち、昼の三時(みとき)はこの寺にて勤修するようとの勅命によって寺号を三時知恩寺という。 以来、皇女が相次ぎ入室され明治維新に及ぶ。天明8年(1788)の大火に堂宇は焼失し、現在の堂宇は桃園天皇皇女御恭礼門院の旧殿をたまわり再建されたものである。

大光明寺

大光明寺は、臨済宗大本山相国寺の塔頭寺院。 伏見宮家歴代の菩提寺で、暦応2年(1339年)、後伏見天皇女御の広義門院西園寺寧子が夫の第93代後伏見天皇の菩提を弔うために創建された。 また、京都十三仏霊場の第四番、普賢菩薩の寺でもある。

上善寺

千松山遍照院(せんしょうざんへんしょういん)と号する浄土宗の寺院である。 寺伝によれば、貞観5年(863)に、僧円仁により、天台密教の道場として、千本今出川(上京区)に創建されたと伝えられている。その後、文明年間(1469~87)に、春谷盛信(しゅんこくせいしん)によって再興され、後柏原天皇の勅願寺として栄え、文禄3年(1594)、寺域を現在の地に移し、浄土宗に改められた。 地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、俗に、「深泥池地蔵」、又は、「鞍馬口地蔵」とも呼ばれている。 この地蔵は、当初、小幡の里に祀られていたが、保元年間(1156~59)に、洛北の御菩薩池(深泥池)の畔に祀られ、さらに当寺に移されたものといわれている。 毎年8月の22・23日の両日の京都六地蔵巡りには、多くの参拝者で賑う。 由緒 浄土宗。千松山遍照院と号す。貞観5年(863)円仁が天台密教の道場として創建したと伝え、文明年間(1469~1487)春谷盛信が天台真盛宗として再興、現在の寺号を定める。文禄3年(1594)千本今出川から現在地に移り、天台真盛宗から浄土宗へと改宗もする。  本尊としてお祀りしている阿弥陀仏坐像は寛永11年(1634)嵯峨今林蓮華清浄寺から移してきたものであり、行基作と伝えられる。地蔵堂には洛北の深泥池ほとりより移した深泥池地蔵が安置されており、京都六地蔵めぐり(8/22~8/23)の一つに数えられる。  境内には合わせて今出川家歴代の墓や禁門の変で戦死した長州藩士の首塚もある。  また、「二河白道の庭」をはじめ「釈迦八相の庭」「三笑の庭」「仏教伝来の庭(二祖対面の庭)」がある。

芳春院

当院は,慶長13年(1608年),加賀の前田利家の夫人芳春院が,玉室宗泊を開祖として建立した大徳寺の塔頭で,前田家の菩提寺である。建物はその後火災に逢い,現在の本堂は明治初年に建てられたものである。 本堂背後には,飽雲池を前にした二重の樓閣呑湖閣があり,金閣,銀閣と同様,樓閣山水庭園として名高い。 呑湖閣は,元和3年(1617)に前田利家の子利長が小堀演習に依頼して建てたものと伝えられる。池の上に架かる打月橋には,開祖玉室の筆による「打月」の二字の額を掛けている。 池中には,かきつばたやすいれんが多く,花時は見事である。 庭園は度々改造されてはいるが,なお創建時の面影を伝えている。 墓地には,芳春院の霊屋,かの東寺百合文書の整理を行った前田綱紀の霊屋をはじめ,前田家代々の墓がある。 ◆由緒 加賀藩主・前田利家の正室まつが創建した大徳寺の塔頭寺院で、平成28年に400年遠忌を迎えるまつの法号から寺名がつけられた。 「呑湖閣(どんこかく)」(内部は非公開)は、「金閣」「銀閣」「飛雲閣(ひうんかく)」と並んで「京の四閣」の一つとも称される優美な二重楼閣。 利家の子・利長が、小堀遠州(こぼりえんしゅう)に依頼して建てたものといわれ、「飽雲池(ほううんち)」とそこに架かる「打月橋(だげつきょう)」とともに見事な楼閣山水庭園を作り上げている。 また、芳春院の木像や前田家歴代の御霊牌を祀る本堂の前庭は、「花岸庭(かがんてい)」と名付けられた端正な枯山水庭園である。

首途八幡宮

宇佐神宮(大分県宇佐市にある八幡宮の総本宮)から八幡大神を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・比咩大神(ひめおおかみ)・息長帯姫命(おきながたらしひめ)(神宮皇后)を祭神とする。 大内裏の北東に位置するため王城鎮護の神とされ、もとの名を「内野八幡宮(うちのはちまんぐう)」という。 宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・比咩大神(ひめおおかみ)・息長帯姫命(おきながたらしひめ)(神宮皇后)を祀る。 かつてこの地に金売吉次(かねうりきちじ)の屋敷があったと伝えられ、源義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願して出立したといわれる。 「首途(かどで)」とは、「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮(かどではちまんぐう)」と呼ばれるようになった。 この故事により、特に旅立ち、旅行安全の信仰を集める。

称念寺(猫寺)

本空山(ほんくうざん)と号し、浄土宗知恩院派に属する。慶長11年(1606)茨城県土浦(つちうら)城主松平伊豆守信吉(いずのかみのぶよし)が師僧嶽誉(がくよ)上人のために建立した寺で、上人は同宗捨世(しゃせい)派の祖・称念上人を開山とし寺号を称念寺と定め、自らを中興開基(ちゅうこうかいき)とした。 当時に葬られた松平信吉の母が徳川家康の異父妹であったので寺紋を徳川家定紋、三ッ葉葵とした。 寺伝によれば、三代目住職の頃、松平家と疎遠となり寺は荒廃していたが、ある夜、帰宅した住職は、愛猫が美姫に化身して舞うのを見て怒り、これを追放した。数日後、猫が住職の夢枕に立ち松平家との復縁を告げ、住職に報恩し、寺は立派に再興した。 以後、寺では猫の霊を厚く守護し、本堂前の老松は猫を偲んで植えたものである。 このことから称念寺はいつしか「猫寺」と呼ばれるようになったという。なお、本尊お内仏来迎仏阿弥陀(ないぶつらいこうぶつあみだ)像は平安中期の高僧恵心僧都(えしんそうず)の作といわれる。

佛陀寺 (仏陀寺)

大蔵院と号し、朱雀・村上天皇を開基とする勅願所で西山浄土宗に属する。 天慶9年(946)、朱雀天皇が皇位を村上天皇に譲位の後、父醍醐天皇の菩提を弔うために日蔵道賢上人を戒師として落師し、「仏陀寿」と号して朱雀大路の仙洞朱雀院において仏事を修した。 朱雀天皇崩御の後、村上天皇がその仙洞朱雀院を寺に改め、先帝の遺志をついで別院大蔵院を建立し、先帝の法号に因んで仏陀寺と称したのがこの寺の起こりである。 その後、応仁の乱で焼失したが、邦諫上人が後土御門天皇の帰依をうけ文明8年(1476)に土御門西洞院の地に中興し以来、勅願所となり、新たに浄土門西山西谷流を伝える寺院となった。 現在の地に移ったのは、秀吉の御土居築造の頃で、当時の建造物は万治4年(1661)と天明8年(1788)との再度の大火に類焼したため、現在の堂宇はその後の造営。 本尊は、平安時代後期の制作と推定される重要文化財で説法印の木造阿弥陀如来坐像。温和で端正な雰囲気を持つ定朝様式である。

西園寺

宝樹山竹林院(ほうじゅざんちくりんいん)と号する浄土宗の寺である。 元仁元年(1224)、藤原公経(きんつね)が、衣笠山の麓に、山を背にして苑池を造り、その池畔に、本堂、寝殿など壮麗な堂宇を建てて、西園寺と称したのが当寺の起りである。 以来この寺名が子孫の家名となり、当寺も西園寺の北山山荘として子孫に領有された。 しかし、足利義満(よしみつ)が、北山殿(金閣寺)を営むに当ってその地を所望したため、室町(上京区)に移り、さらに天正18年(1590)この地に移転した。 現在の本堂は、天明の大火(1788)後の再建で、正面には、明治・大正・昭和の三時代に亘って政界で活躍した西園寺公望(きんもち)の筆による寺号の額を掲げている。 また、堂内には恵心僧都(えしんそうず)作と伝える本尊阿弥陀如来像(重要文化財)を祀り、地蔵堂には、旧地の北山にあった功徳蔵院(くどくぞういん)の遺仏と伝える地蔵菩薩像を安置している。