黄梅院

大徳寺塔頭。永禄五年(1562)織田信長父・信秀の追善供養のために信長の創建、「黄梅庵」と名づけた。 下って天正14年(1586)、豊臣秀吉、小早川隆景に依って本堂、庫裏、唐門等諸堂の改築がなされて、「黄梅院」と改め塔頭の一つとなる。 それぞれ国の重要文化財に指定されている。 障壁画(雲谷等顔、等益筆 重文)や武野紹鴎の茶席「昨夢軒」や千利休の作庭した「直中庭」等、室町時代の遺構を今に伝えられてきていて興味深い。 ◆由緒 当院は臨済宗大徳寺派大本山の塔頭のひとつである。「黄梅院」とは、お釈迦様から代を重ねて32代目・弘忍大満禅師のゆかりの地である中国の黄梅県破頭山東禅寺に由来し名付けられた。 永禄5年(1562)織田信長公が28歳のとき羽柴秀吉を伴い初めて入洛すると信長公は秀吉を京都所司代に任じ、併せて父・信秀の追善菩提のために普請を命じ小庵を建立させた。この小庵は大徳寺98世住持・春林和尚を開祖に迎え「黄梅庵」と名付けられた。これが当院の始まりである。  天正10年(1582)6月2日、本能寺の変により信長公が急逝すると、同年10月15日密葬され、その後、秀吉は「黄梅庵」に築を加える。しかし主君の塔所としては小なりとし、信長公の法名・総見院殿より総見の名を採り山内に別に「総見院」を建立し、お祀りした。当院は築を新たにし、天正14年5月秀吉によって本堂と唐門が改装され、天正17年(1589)鐘楼・客殿・庫裏等を小早川隆景普請奉行のもとに改築落慶し、この年「庵」を「院」にあらためています。 ◆直中庭 利休66才の時に作られたものである。秀吉公の希望による軍旗瓢箪をかたどった池を手前にし、大徳寺2世徹翁和尚が比叡山より持ち帰ったと伝える不動三尊石を正面に、加藤清正伝承の朝鮮灯篭を左に配した苔一面の池泉式枯山水庭園である。 ◆破頭庭 本堂前庭に位置する。半分手前を白川砂で半分向いを桂石で区切り苔を配し観音・勢至の二石でまとめられた簡素な庭で天正年間に作庭されている。 ◆庫裡(重要文化財) 切妻造板葺で、火番寮・典座寮・納所寮・知客寮・旦過寮とそれぞれの寮舎になっており、禅宗寺院の生活様式をそのまま現代によく伝えている。小早川隆景の寄進によって天正17年4月に完成。日本に現存する禅宗寺院の庫裡として最古のものである。庫裡は火を扱う所であり、火災を起こしやすいため古式の庫裡は残存しにくい。故に現存している遺構として貴重である。昭和60年12月解体修理が施された。 ◆本堂(重要文化財) 禅宗特有の様式がよく表された本瓦葺入母屋造である。内部は室中と仏間を中心に檀那の間・礼の間・大書院の間に分かれている。天正14年5月に秀吉公の援助により落慶している。昭和52年、400年ぶりの全面解体工事がなされた。 ◆唐門(重要文化財) 建立は本堂と同じ年に完成されている。 ◆表門 天正17年完工され、庫裡の造営と同じく小早川隆景によって寄進されている。なだらかな兜型の門である。平成17年、修理を施された。 ◆鐘楼 鐘は1592年加藤清正によって寄進されたもので朝鮮伝来のものと伝う。現存の鐘楼は益田玄播守によって建立された。獅子頭の彫刻が施されている。平成17年、修理を施された。 ◆書院自体軒 大徳寺開山大燈国師の遺墨「自休」を扁額に懸けて軒名とした、千利休の茶道の師である武野紹鴎作の作夢軒という茶室がある。平成23年、修理を施された。作夢軒の席は貴人床になっていて、書院自休軒の中に組み込まれているところから囲え込み式と言われている。 ◆襖絵 桃山時代のもので重要文化財に指定されているが、現在の襖絵は複製になっている。本堂の中には雲谷等顔の水墨壁画が収められている。室中には竹林七賢図・檀那の間に西湖図・礼の間に芦雁図等四十四面となっている。 ◆作仏庭 本堂北裏側に位置し北東に枯山水の滝を表す立石を配し、本堂前の破頭庭へと連なった作りである。生々流転を表したものか。

立本寺

日蓮宗本山。1321年(元亨元)日像が京都最初の道場として四条大宮に開いた妙顕寺龍華院を始まりとする。 1413年(応永20)比叡山の衆徒に破却されるが立本寺として再興、その後後水尾天皇のより「園林堂(客殿)」を賜る程の名刹となった。以後何度か場所を変えるが、宝永の大火(1708年・宝永5)で類焼した後、現在地に移った。広大な境内を有し、明治維新前は20に及ぶ塔頭を擁し、現在でも4ヶ寺の塔頭が残る。本尊は十界曼陀羅。 本堂・刹堂(鬼子母神堂)・客殿(園林堂)・鐘楼・山門(総門)は京都市指定有形文化財。 西から南へ広がる庭園は1850年(嘉永3)頃に造営されたもので、京都市の指定名勝になっている。 境内墓地には吉野太夫を見受けした灰屋紹益や石田三成の軍師、島左近らの墓がある。 安産・子育て守護で有名な子安鬼子母神のご開帳は毎月8日2時より。また毎年4月8日には花まつり、11月8日にはお会式の法要がある。 本堂の日蓮上人座像には兜の御影の伝説が、刹堂に祀られる日審上人には幽霊子育て飴の伝説が伝えられている。 京都国立博に寄託の法華経宝塔曼荼羅の完全レプリカを客殿で常設展示。 ◆由緒 立本寺(りゅうほんじ)は日蓮宗の本山で、具足山(ぐそくざん)と号する。創建については二説あって定かでないが、中世には寺地を転々とし、さらに宝永5年(1708)の大火で本堂以下を焼失したのちに今出川寺町より現在地へ移転してきた。 本堂は、現在地へ移ってからもすぐには再建されず、上棟したのは寛保3年(1743)であった。平面は、近世における日蓮宗七間堂の典型的な構成であるのに対して、立面構成では全体に装飾が多く、また変化に富んだ空間構成となっている点に時代的特徴がみられる。 刹堂(せつどう)は、日蓮宗の守護神である鬼子母神(きしぼじん)と十羅刹女(じゅうらせつにょ)を本尊とし、鬼子母神堂とも呼ばれる。享保4年(1719)に再建されたが、天明3年(1783)に再び焼失し、その後文化8年(1811)に再建されたのが現在の建物である。小規模ながら、日蓮宗本堂の平面構成を踏襲した本格的なつくりである。 客殿は、享保十三年に上棟され、六間取(むまどり)方丈形式の平面を基本とするが、仏間が背面に張り出されている。こうした例は、日蓮宗客殿においては早い方に属する。 当寺にはこのほか、鐘楼(寛文年中・1661~1673)、表門(安永7年・1778)も残り、近世中期における日蓮宗本山の寺観をよく伝えている。

瑞春院 (雁の寺)

相国寺塔頭。室町末期「蔭涼軒日録」(おんりょうけんにちろく)=禅寺の僧事一般を将軍へ披露する役を務めた蔭涼軒主の公用日記=を記した亀泉集証が創建。初め雲頂院と号した。 天明の大火で焼失、弘化、嘉永年間(1848-54)に再建(客殿は明治31)された。 水上勉の『雁の寺』の舞台として知られる。(非公開)

清浄華院 

浄華院ともいう。浄土宗四大本山の一つ。 法然上人二十五霊場の二十三番札所。貞観2年(860)清和天皇の勅願によって禁裏内道場として創建され、後白河法皇が受戒のとき本院を宿所としたことから浄土宗に転じたと伝えられる。 もと土御門内裏(つちみかどだいり)の付近(元浄花院(もとじょうかいん)町)にあったが、天正13年(1585)豊臣秀吉によってこの地に移された。その後も再三火災にあい現堂舎は明治44年の再建である。 本堂(御影堂)には本尊法然上人を安置する。不動堂には不動明王画像を安置するが、むかし、僧証空が師の臨終に際し身代りになろうとしたところ、日夜信仰する不動明王が証空の身代りになろうといわれて師の病難を救ったという霊験談があり、世に「身代り不動」と呼ばれて有名である。 その物語を記した「泣不動縁起(証空絵詞)」(重要文化財、室町初期)を寺宝として所蔵している。 なお河原町通にまで続く墓地には戦国時代以来の名士の墓が多い。

建勲神社

織田信長を祀る神社で、通称「けんくんじんじゃ」とも呼ばれる。 天下を統一した信長の偉勲を称え、明治2年(1869)明治天皇により創建された。 同8年(1875)別格官幣社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。 船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武に擬され、造営の基準点にされた所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅許を受け、主君である信長の廟所を定めている。 信長着用の紺糸威胴丸(こんいとおどしどうまる)、桶狭間の合戦の際の義元左文字の太刀、太田牛一自筆本の「信長公記(しんちょうこうき)」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。 10月19日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄11年(1568)初めて入洛した日を記念したものである。 ◆由緒 天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建。 1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀した。建勲の神号は明治天皇が下賜。明治8年別格官幣社指定。 なお船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点となり、また、平安時代は大宮人の清遊の地として名高い。 応仁の乱の際は西方の陣地となる。国の史跡で眺望絶景。 10月19日の大祭は「船岡祭」といい、祭神・織田信長が1568年(永禄11)、戦国の世を終わらすべく初めて入洛した日を記念した祭典。 神殿祭のあと信長公ゆかりの敦盛の舞舞楽奉納があり、年により信長公ゆかりの宝物などの公開や火縄銃の実射等の奉納がある。

興臨院

当院は大徳寺の塔頭で、大永年間(1521~1528)能登の畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立したといわれ、みずからの法名を寺号とした。 当院の方丈・唐文・表門そして所蔵の椿尾長鳥模様堆朱盆は重要文化財である。 方丈は創建後に火災にあったが、天文2年(1533)に再建されたらしく、さらに畠山氏衰微ののち、天正年間(1573~1592)前田利家によって修復なども行なわれた。 方丈玄関の唐門は室町時代の禅宗様式を見事にあらわしており、表門も創建当初のもので「興臨院の古文」として有名である。  一方、バイタラ樹の名木がある枯山水の庭や茶席「涵虚亭(かんきょてい)」のおもむきが深い。 なお、墓地には畠山家歴代の墓や久我大納言夫妻の墓など、当院ゆかりの人々の墓も多くある。

千本ゑんま堂(引接寺)

光明山歓喜院引接寺とごうする寺院で、本尊として閻魔法王を祀り、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれている。 開基は小野篁卿(八〇二~八五三)で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之廟に使えたと伝えられ、朱雀大路頭に閻魔法王を安置したことに始まる。 その後、寛仁元年(一四八八)に造立されたもので、高さは二、四メートルある。篁卿は「お精霊迎え」の法儀を授かり、塔婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場とした。 以降、宗旨・宗派を問わない民間信仰が続いている。 五月に行われる千本ゑんま堂大念仏狂言は、京都三大念仏狂言のうち唯一の有限劇で、京都市無形民俗文化財に指定されている。 名桜「普賢像桜」は咲いた時に双葉を持ち、花冠のまま落ちる珍しい桜である。 往時、この地に桜が千本あったことと、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。 また圓阿上人が至徳三年(一三八六)に建立した紫式部供養塔は、貴重な十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定されている。 ◆由緒 開基 小野篁卿(おののたかむらきょう) 平安初期の漢詩人として有名な人である。延暦21年、参議小野岑守の長子として生まれ、長じて嵯峨・淳和・仁明・文徳の各帝に仕え、この問、東宮学士、遣唐副使、左大弁等の職を歴任した宮中の御役人であり、歴々たる為政者である。 こんな人がどうして千本えんま堂の開基(基礎を築き上げた人)であるのか。この人の事跡をこれ以上述べようとすると当時の世相から述べねばならない。 一、宮廷の設立 延暦13年、桓武天皇がこの京都に平安京を遷都されると、これまでの山城国はどんどんと改造された。まず幹線道路として、朱雀大路という大道路を南から北に向けて縦に長くどっかりと造成して、京の都を東西に大きく分断した。東半分を洛陽と名ずけ、西半分を長安と名ずけた。そして朱雀大路の南の入口に羅城門という壮大な関門を設け、北の入口に朱雀門という、これまた壮大な関門を(現在の千本今出川辺りに)設け、平安京はこれら二つの門に挟まれた、さながら城郭内の観があったという。 その中程辺りに(現在の千本丸太町辺り)儀式を行う朝堂院の中に大極殿(現在の寺院に例えば本堂)が建てられ、それに付随して内裏(だいり)と大内裏(おだいり)があり、これが天皇のお住まいであった。これを取り巻くように文武百官の諸官庁が置かれた。したがって、現在でこそ京都御所と称しているが、その時代は「おだいり様」と称していたと言う。 このほかに應天門、殷富殿、武徳殿等ありて華やかな宮廷生活がここで繰り展げられ、また国の政治もここで執務され捌かれるのであった。 二、当時の世相 かくの如く平安京として都を定められると京の都は爆発的に人口が増えた。人口が増えるということは死ぬ者も増えるという事である。加えるに天災地変により疫病が流行したり飢饉が襲ったりする。 数年後、今やれっきとした為政者に成長した篁卿は、こうした大問題に真正面から取り組んでいかねばならぬ立場であった。この時の篁卿は、現在の政局に当てはめれば、差し当たり福祉厚生局長官ぐらいにあたるであろう。そして彼の政治の理念が地蔵菩薩の信仰を中心とした事はさすがである。 およそ政治の要道は国の利益を図るとともに民百姓の人心を安らげ幸福な日暮しをさせる道を開く事である。それには地蔵菩薩の信仰に浸らせる事が、当時としては最上の方策であると篁卿は判断したのであった。 なにしろおびただしい死者が京洛の街に氾濫する。まずその処置として、周辺五ケ所に葬場を兼ねた墓地を設定した。即ち蓮台野、鳥辺野、化野(あだしの)、西院河原(さいがわら)、華頂山(かちょうざん)の五ケ所であった。このうち現在の舟岡山を中心とした蓮台野が最も大きかったという。 その時代の葬式は、平成の現代の、ごとき派手な葬式では決してない。特に貧富の差の激しいその当時にあっては庶民には風葬をとり行うのが常例であった。そうした世相の中に着任した篁卿は先づ埋葬を奨励した。更には進んで官庁の命令として強力にこれを推進した。何が故に彼がこうした政策を實行したのか、それは次ぎの地蔵菩薩の妙用の項で判る。ここで丁寧に地蔵菩薩を勧請してお弔いをする必要が生じてくる。またそうしなかったならば、いかに庶民といえども納得・得心しなかったであろう。この点を篁卿は重要視したのである。 彼はその回向、読経を、出家僧侶のみに任せず自分自らもそれを執り行った。因って時の人及び後世の人々も篁卿を称して地蔵菩薩の生まれ替わりだと言った程である。 人間死んだならば地蔵菩薩に引き取られ、極楽へ道案内してもらえる。この信念とこの行動を以て政治を行ったので、天平の治世は円く治まった。 三、地蔵菩薩の妙用(御働き) 此所で地蔵菩薩とはどうした佛様であろうか。その御働きと功徳を一寸述べる事にしよう。 地蔵菩薩はその名の如き我等の住めるこの大地を統括している佛様であります。云い換えたならば「大地即ち地蔵、地蔵即ち大地」なのです。考えて見たら私共がこの大地から受ける恩徳は誠に限りがありません。差当り衣食住の凡ては大地から受けております。動力源の石油も大地の賜物です。然るに此の恩恵に対して私共は大地にどんな報恩をしているでしょうか?その実態は報恩どころか、あくなき迷惑のかけ続けと云うのが真実でしょう。日々ヒリ出す排尿の処理も大地以外にありません。どんな汚い物でも大地はいとわず受容れて呉れます。しかもそれを清めて私共の生活に役立てて呉れます。谷間の清水、それから野菜を育てる肥料としての堆肥等がよい例です。これが現世に於ける地蔵菩薩のお働きであります。来世にはどうであるか。教典に云う「一度名号を聞く人に替りて苦を受く御誓い、衆生の業に泪して、迷の闇より救います、救わせ給うぞ有難や」とあります。かくして此の時季より徐々に風葬は姿を消し埋葬に替って行った。 四、千本通りの地名発生の根源 以上のごとく篁卿に依って蓮台野の墓地が設定されると、この場所も年を増す毎に騒々しくなってきた。即ち愛別離苦の苦しみは昔も今も変わらない。父や母、実子や兄姉は無論のこと、有縁の者一切、野辺の送りを済ませた者を、どうしてそのままに捨て置く事ができようか。塔婆を建ててこれを回向する心情においては昔も今も変わりはない。埋葬であれ、風葬であれ、その場所へ五輪の宝塔婆を建てて供養し、回向する者が年を重ねる毎に増大していくのだ。 こうした人々が朱雀大路をひしめき合った。建てられた塔婆は大小入り交じって千本以上も建てられていたので、ここへ行き交う人々によって、いつしかこの大通りも千本通りという名になってしまったという。 五、冥土の巡歴 さてこのように多才の篁卿に更にもう一つの大きな才能があった。それは何かと言うと、冥土(人間が死んでからの世界)を巡歴する事のできる神通力を持っており、彼はこの神通力を持ってしばしば現世界と冥土を往復したのであった。冥土の主宰者はえんま法王である。この神通力は篁卿の人柄により法王より授けられたものであった。 その篁卿の日に映った冥土、特に地獄の現相は誠に恐ろしきものであった。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間の八地獄に悶えている亡者を見て、なんとかして救い上げてやりたいと思った。ところがこの亡者の中に、特に閻魔様に呼び出されてお許しを受け、他の亡者の羨望裡に喜びに打ち震えるようにして娑婆に帰り行く者の姿が篁卿の目に留まった。不思議に思った篁卿は早速その由を閻魔様に伺ったのであった。 「これはいかなる理由によるのでしょうか。」 「これは亡者の遣族が娑婆において死者の回向の為、塔婆を捧げてくれたのじゃ。およそ塔婆の功徳は一枚が仏像一体に匹敵する。塔婆を建て清き真心より追善供養を営めば、たとえ地獄に落ちている亡者でもその苦悩を免れて極楽に往生し、そしてあのように娑婆にも帰る事ができる。」 これを承った篁卿は「このような有り難い功徳は、すべての亡者に及ぼして、極楽の喜びを受けさせたいものだ。」と考え、閻魔法王より「塔婆供善」の秘法を授かり娑婆に帰ってくると早速船岡山を訪ねて、麓に祠を建て篁卿自ら閻魔法王の像を刻んで安置しここで塔婆供養の厳法を修されたのである。即ち現在の閻魔堂これである。 六、結ぴ 京都が千年の王城として、とりわけ佛都として栄えた事は何と言っても弘法大師、伝教大師の遣徳の然らしむる所と言ってよい。 しかし、小野篁卿の善政も無視出来ない。此の偉人達に肩を並ぶる人と言っても過言ではあるまい。 仁寿二年篁卿は五十一才で崩じた。筆者は此の思いを深くする。記事の都合でこの略縁起もここで擱筆するが勿論これで終りではない。千本えんま堂が基礎づけられると、世は藤原道長の時代に至り、比叡山、横川の僧定覚上人に依って、引接寺が開山されそして普賢象櫻が植えられ、ゑんま堂狂言が開創される等々記す事は数多いがそれ等は次ぎに発刊される「引接寺由来記」に譲る事とする。 ◆塔婆供養の御薦め (特に四十九目内の新佛様への訴え) 此所に塔婆供養と申しますのは、祥しくは「五輪宝塔婆に依る供養」の儀であります。この塔婆が我が日本に渡来したのは弘法大師に上って眞言密教が中国から伝承された時からと推察されますが、現今にては宗派を問わずどこのお寺でも、追善回向には必ずと言ってよい程使用されております。 それもその筈、功徳力甚大だからです。何分眞言密教のみ教えがこれ一本に凝集されており、加えてその表現は佛様が座禅しておられる姿なのです。当千本えんま堂の塔婆供養は開基小野篁卿がえんま法王より直伝の秘法である所に特長があります。 今より千年程のその昔、塔婆供養の法を伝授された小野篁卿が此所、舟岡山の山麓、蓮台野を訪ねて祠を建て自作のえんま法王像を安置されて塔婆供養を行われたのが最初であります。勿論その時の法王像は損消し現在の御尊像は室町時代に改作されてからでも五百年。ずっと現在の場所に鎭坐ましましているのだから律とす可きであります。 経典に「塔婆は浄土往生への舟筏なり」とあります。くだいて言ったら極楽へ行く舟か筏であるとの意味であります。 人のこの世は永くして、変らぬ春と思いしに無常の嵐吹きぬれば、春の朝に花を玩遊びし人も夕辺には北郎の煙と消えて行く。 これがこの浮世の誠の相であります。皮肉な事にはそんな人は一家にかけがえのない大切な人がほとんどであります。 一息永く絶えて定命既に尽きぬれば一生涯の内に二度となく、しかも初めて経験する冥土の旅。それは往方も知らぬ黄泉の闇路なれどトポトボと訪迷い歩かねばならない。 数年前に京都から選出された代議士で内閣では法務大臣迄登閣した人があったが此の人が健在なりし時「俺は死んだら坊主のお経なぞ不用だ、葬式なぞしていらん!」と豪語しておられたのを知っているがこの人の葬式の事は知らないが七十才台で逝去された事は確! こんな人でも死なれたならば孤独で野垂れ死にをした者と平等です。 娑婆にありし時にどの様な高位顕官であろうと又如何程の大富豪であろうと今この時は何の支えにも、助けにもならない。 その時にサッと五色の光明がさしこむと共に六道能化の地蔵菩薩がお出ましになり、右手には御供えした宝塔婆を棒持しつつ極楽へ招き御導き下さいます。 これが塔婆供養の御利益であります。

相国寺 慈照院

臨済宗相国寺派に属し、もとは大徳院と称した。延徳2年(1490)足利義政の塔所影堂となり、その法号より慈照院とした。 当院第七世の仏性本源国師(きん叔顕たく(きんしゅくけんたく))は桂宮初代智仁親王、二代智忠親王と親交を深め、寛永6年(1629)には桂宮が当院境内に御学問所を建てられ、同9年に国師に下賜された。 この建物が現在の書院棲碧軒(せいへきけん)である。こうしたところから数ある塔頭の中でも格式の高い寺である。 国師は千宗旦(せんのそうたん)(利休の孫)とも交流があり茶室頤神室(いしんしつ)は宗旦との合作で「宗旦好みの席」とも呼ばれ、四畳半の下座床で躙(にじり)口はなく、南側に障子二枚引の貴人口を設け、床には宗旦に化けた狐の伝説で知られる「宗旦狐」の掛軸がある。 また、席内に持仏堂があり布袋像を安置する。 この像の首は機に応じて利休の首とすげ替えられるようになっており、当時は世間体をはばかり公然と利休を祀れなかったため、こうした工夫がなされたと伝える。

妙蓮寺

本門法華宗の大本山で、卯木山と号し、日像上人(にちぞうしょうにん)を開基とする。 永仁3年(1295)に、柳屋仲興道妙蓮が日像上人に帰依して、西洞院五条の邸を寺に改め、柳寺と称したのが当寺のはじめで、永享(えいきょう)年間(1429~1440)に、日存、日動、日隆、日慶らが、大宮通四条下るに伽藍を移築造営し、妙蓮寺と改めた。 その後、たびたび寺地をかえ、天正15年(1587)豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)造営のとき、いまの地に移った。 現在の建物は、天明の大火(1787)後の再建である。 玄関、奥書院の襖絵は、長谷川等伯(とうはく)一派の筆といわれる濃彩の金碧(こんぺき)画で、庭内の奇石とともに秀吉が寄進したものと伝える。 なお、寺宝には、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の筆になる立正安国論(りっしょうあんこくろん)(重要文化財)などがある。 ◆由緒 大本山妙連寺は、宗祖日蓮大聖人より帝都弘通宗義天奏の遺命を受けた日像聖人によって、永仁2年(1294)に創建され㍍日像聖人が遺命を果たすため鎌倉より京都へ上られた時、五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、未亡人は邸内に一字を建立して聖人を請じ、卯木山妙法蓬華寺と称した。これが妙蓮寺の縁起である。(柳の文字を二つに分けて卯木山という。) その後、たびたびの法難にあい衰退していたが、応永年間(1420年頃)本迹勝劣、本迹一致の論争を契機に妙顕寺を退出した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興される。その後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開く。ここにおいて当寺の法運は隆昌を極め、山門の様式も格式高いものとなった。 天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人によって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮大聖人門下21本山は、ことごとく灰燵に帰し堺に立ち退いた。 天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転した。当時は、1k㎡の境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院であったが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼を残すのみとなった。寛政元年より漸次復興して、現在に至り、塔頭8ヶ院を有す。 ◆鐘楼 元和3年(1617)の建立全国的にも数少ない本格的な袴腰型鐘楼で、日本建築史上、江戸時代を代表する貴重な建造物である。 ◆大本山 妙蓮寺 山門 文政元年(1818)に、禁裏より拝領し建立する。両袖番所付山門は、希にみる格調の高い雄姿を誇る。 ◆妙蓮寺蔵松尾一切経 平成5年(1993)夏、妙蓮寺土蔵から松尾一切経が発見された。松尾一切経は、永久3年(1115)頃より、松尾神社の神主秦宿祢親任、その子秦宿祢頼親が願主となり、康治2年(1143)に完成された。安政4年(1857)に妙蓮寺の熱心な檀徒嶋田弥三郎義忠の寄進により妙蓮寺の寺宝となる。平成9年(1997)経櫃とともに三千余巻が重要文化財に指定された。 ◆立正安国論(重文) この立正安国論は、始聞仏乗義(重文)と共に、日源聖人65年(1619)に本阿弥光悦が書写したものである。日蓮大聖人の立正安国論の主旨は、幕府に法華経の精神求すると共に、国民に正しい教えによる世界平和実現の道を説くものとして名高い。 ◆十六羅漢石庭 桂離宮の造園を指図した妙連寺の僧、玉淵坊日首の作であきな青石は、臥牛石といい、秀吉公によって伏見城より移された名石である。 この庭は、火災による損傷が激しかったが、近時に至って造園当時の姿に復元された。 ◆妙蓮寺椿の図 海北友松筆 ■妙蓮寺椿=室町時代、連歌師として有名な宗祇(1421~1502)が、妙蓮寺椿の一枚を写生し、その上に “余の花はみな末寺なり妙蓮寺" と賛した掛軸の写しが、妙蓮寺記なるものに載せられている。 宗祇の在京時代は、妙蓬寺が皇室と関係深い日応僧正を迎えて隆盛を極めた時代と一致し、即ち妙蓮寺椿の名称は、この時よりすでに存在し、500年以上の歴史をもつものである。 ◆法華経(重文) 伏見天皇が、御父後深草天皇の崩御に際し、御父君の遺書(御消息171)の背面に法華経八巻を書写されたものである。 伏見天皇は、とくに和歌、書道に秀でられ、その書風は伏見院流として名高い。 これを納めてある箱は、中国伝来の沈金蒔絵の逸品で、重文である。 ◆十六羅漢石庭 桂離宮の造庭した妙蓮寺の僧玉淵坊日首の作で、白河砂に十六の石を配置し、北山杉を植え込んだ庭園である。 近年になって修復されているが、中央の大きな青石は、豊臣秀吉より賜わったものと伝え、牛が伏せている姿に似ているため、臥牛石といい、「宝命牛玉」という版木が残っていることから、祝儀の時に愛でられたものであろう。 白砂は、宇宙を表し、十六の石は、苦悩する大衆の中から立ち上がって世界を救済すると妙法蓮華経に予言された地涌の菩薩(大地から涌現する菩薩)を表現している。 宇宙大法真理(仏)と個人の小宇宙(仏性)と交響することを感応道交というが、白砂の波は、その交響する波動を表現している。 しかし、仏教庭園は、庭園そのものが宗教であり、観る側に自由な感応を呼びさますものであるので、説明にとらわれる必要はない。

妙顕寺

貝足山と号し、龍華院ともいう日蓮宗の大本山の一つである。 日像上人が日蓮聖人の遺命を受け、永仁2年春より長年の忍難弘通(ぐつう)の末、元享元年(1321)京都における日蓮宗最初の道場として御溝傍今小路に創建したのが当寺のおこりである。 建武元年(1334)には法華宗号と勅願寺の綸旨を受け、法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位を認められ、四海唱導妙顕寺といわれた。 しかし、度々の法難と災禍により寺地も転々とし、秀吉の都市計画で五条大宮の旧地より現寺地に移された。のち、天明8年(1788)焼失したが、天保5年(1834)再建され今日に至っている。 寺宝として、紙本墨書後小松天皇宸翰御消息(重要文化財)などがあり、寺域内には尾形光琳の墓がある。