法輪寺(達磨寺)

この寺は、臨済宗妙心寺派に属し、達磨寺の名で親しまれており、享保12年(1727)大愚和尚を開山とし、開基荒木宗禎に帰依を受けた万海和尚が創立した。 十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天鐘、珍しい等身の金箔大寝釈迦木像や、白隠禅師の夜船閑話で知られた白幽子の旧墓石がある。 三国一を称する起上り達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨およそ八千余をまつる達磨堂は特に有名で、節分は参詣者でにぎわう。 本堂には、わが国映画創業以来の関係者四百余霊がまつられる貴寧磨(きねま)寺や、島津源蔵夫妻の念持仏をまつる学神堂等がある。 達磨竹の逆さ竹を中心に印度・中国産の竹の珍種も繁茂し、本堂の東側には禅の悟りの段階を示す十牛の庭、南側に白砂の上に苔で心字を描き出したユニークな庭がある。 ◆だるま寺〔法輪寺〕の略縁起 この寺は洛陽円町、北野天神ゆかりの紙屋川畔にある。臨済宗妙心寺派の名刹であり、通称「だるま寺」の名で親しまれている。 享保13年(1718)大愚宗築禅師を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり、万海慈源和尚が創建したものである。創建には十年の歳月を要したといわれている。開基の荒木氏は両替商であり、武家の開基になる寺院の多い妙心寺派にあっては異色の禅刹である。 爾来、春秋260年、三度の天災地変に遇い、寺運もまた盛衰があった。しかし近代にいたり、昭和8年第十代伊山和尚を迎えるや、檀信徒の帰崇を一身に集め、大書院の建立が成った。伊山和尚は三十七歳の時に、名著『白隠和尚全集』を刊行し、白隠の名とともに伊山和尚の名は江湖に響きわたった。また和尚はつとに起き上がり達磨禅を鼓吹して、得意の文筆と長広舌とによって、起き上がり小法師をもって、禅の大衆化、生活化をはかった。 戦後、起き上がり達磨堂を建て、達磨節分会をはじめ、少林寺拳法道場を開いた。かくして、だるま寺(法輪寺)の名は洛陽に高く、日本中に普及してきた。 当寺は市街地にありながら、五千平方メートルの境内に創建当初の姿を残す本堂を中心に諸堂の甍がそびえている。三国最初随一の起き上がり達磨堂、朱塗に輝く衆聖堂、活眼達磨型煉瓦が天にそびえる大本堂、拳法道場などの建物がある。 毎年二月の節分には数万人の参詣者でにぎわい、一山はことごとく達磨で埋まる。諸願成就、厄除開運、疾病速消の縁起達磨が授与されているのは同寺だけである。 ありがたや だるまも石も 苔むして ◆起上(おきあがり)達磨の由来 インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖となった達磨大師は、今日、日本では「だるまさん」として親しまれ、子供にいたるまで知らぬものはない。 達磨大師は西暦527年、インドから海路3年かかって中国に渡られた。そして当時仏心天子とたたえられていた梁の武帝を「無功徳」と喝破し、揚子江を渡り崇山の少林寺に去って、この地で面壁九年、手も足もなくなり、尻も腐ったと世間が評判するほどの忍苦の修行をなされ、禅宗の開祖となられたのである。 積極和朗の気に富む日本の国民性は、この達磨大師の忍苦の精神を慕い、貧禍疫病を転じ福寿を得んとの願いから、ついにこの静的坐禅の面壁達磨を動的七転八起の起き上がり達磨に姿を変え、日本独特の達磨に発展させたのである。 ここにおいて達磨大師は、仏壇や寺院から十字街頭に進出し、子供のためには玩具となり、大人のためには厄除縁起の神となり、千変万化して天真流露の活躍をすることとなった。 「七転八起」とは、倒れても自力で起き上がる力である。転んだ力の大きさで起き上がり、無抵抗の力で、苦にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間生活のシンボルが、起き上がり達磨の本質である。達磨寺は、この起き上がり達磨運動の根本道場である。 天竺の達磨老大師 日本の起き上がり小法師 彼にあっては、堂々、七宗を伏し 我にあっては、転輾、孩児を駭かす                      (白隠禅師) ◆本堂 単層、入母家、瓦葺、九六の本堂といわれ、広さおよそ百坪。享保3年(1718)の創建。3力年かけて初めて解体修理をして樫の名木でみごとに復元、昭和58年4月吉日落慶した。本堂前椽正面壁間高く「転法輪」の山額が掲げられる。当時の琉球中山国円覚寺世代の月羅山和尚の名筆である。車の輪が廻るように、仏法を説いて止めてはならぬ。仏法を行じて絶えてはならぬ。法輪寺建立の精神がここに書いてある。 ◆仏涅槃木像 金箔等身蓮上聡耳の木像。時代は桃山、4百余年前の作といわれる。仏頭、仏顔、仏身、仏足に触れてわが身を按ずると智慧と徳相と寿命とを得ると尊崇がきわめて深い。 ◆衆聖堂 山田無文老師の命名である。階上には仏涅槃木像などと共にキネマ殿(尾上松之助、牧野省三、大河内伝次郎、阪東三津五郎、望月優子、田中絹代の各氏はじめ、映画人6百有余霊を祀る)。階下には樟一本造り大達磨立像、十六羅漢木像、千変万化する達磨の諸相八千体などを奉安する。 ◆達磨天井画(樋口文勝老師画) 戦後世に達磨三福人とたたえられるは、蒐集して日本一は木戸忠太郎翁。説法して日本一は先住伊山和尚。画いて多数日本一は樋口文勝老師である。この天井画は老師83歳時の筆。賛は無文老大師が「不倒」と雄渾に書かれている。 ◆起き上がり達磨五訓 一、きはながく こころはまるく はらをたてずに ひとはおおきく おのれはちいさく 二、文句なしただ七転び八起して働くほかに手なし足なし。 三、働くはハタを楽にし己が苦を、苦にせず人の動く姿ぞ。 四、叩かれて内にふくれる達磨かな。 五、日の本の女性のかがみ姫達磨、内強うして眉目うるわしく。 洛陽大宝山法輪寺 (起上達磨寺) 願首比丘 弗云窟 大義拝願 ◆由緒 臨済宗妙心寺派に属し、三国随一といわれる起上り達磨をはじめ、心願成就を祈って奉納された八千余もの達磨をまつる達磨堂に祀っていることから、達磨寺の名で親しまれている。 江戸時代の享保12年(1727)に萬海和尚が創立したといわれ、珍しい等身大の寝釈迦木像、十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天鐘、白隠禅師の「夜船閑話」で有名な京都の白川山中で数百年生きた仙人とされる白幽子の旧墓石などがある。  本堂には、我が国映画創業以来の関係者四百余霊が祀られる貴寧磨(きねま)殿や、島津源蔵(島津製作所の創業者)夫妻の念持仏を祀る学神堂等がある。 また、本堂の南側には禅の悟りの境地を示す無尽庭がある。

八坂神社大政所御旅所

八坂神社のかつての御旅所で神輿の渡御があった。 現在は小祠が建っているのみ。 天延2年(974)に東洞院高辻に住していた秦助正の夢に神人が現れ、「汝の家を影向の地とせん速やかに朝廷に奏上せよ」との宣託があり、翌朝庭の塚から蜘蛛の糸が祇園社までつづいていたので朝廷に奏上した。 時の円融天皇も同じ夢を見ておられ、助正の宅を御旅所とし、東洞院方四町を御旅所の敷地として寄付せられ、大政所といって神殿を造られた。 のち天正19年(1591)に豊臣秀吉の命により、ただいまの四条京極の地に御旅所は移転した。 桃山時代作の祇園社大政所絵図に、在りし日のにぎやかな様子が描かれている。

本満寺

日蓮宗本山。1410年(応永17)近衛関白道嗣の嫡子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建。 広宣流布山、本願満足寺と号す。 1536年(天文5)の天文法華の乱後、12世日重の代、1539年(天文8)関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となる。 1751年(宝暦1)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなった。 本尊は十界大曼陀羅。 又、尚道奉安の祖師像は、芹生村山麓禄より発見されたものでその山中より法華経読誦の声が上がったという有名な説がある。 境内墓地には山中鹿之介の墓、本堂脇には徳川家康二男秀康の正室、蓮乗院の石廟がある。 伝太子筆紺紙 金泥一字宝塔法華経並普賢経は重要文化財。 宗祖日蓮大聖人真蹟十界大曼荼羅御本尊ニ幅、狩野元信筆の祖師像はじめ寺宝多数。 尚、重要文化財は京都博物館 預け。

染殿地蔵院

秘仏。裸形立像。伝空海作。名地蔵の一つ。時宗。 安産守護、腹帯授与。 文徳天皇の皇后藤原明子(染殿皇后)が本像に帰依して清和天皇を出産したと伝える。 国宝「一遍聖絵」第七巻絵二十六にある四条京極の釈迦堂とは当院である。 木造地蔵菩薩立像(染殿地蔵)

瑞雲院

日蓮宗本圀寺の元塔頭。 1602年(慶長7)日求が小早川秀秋(1582~1602)の菩提を弔うため、玉陽院を改めて開創したと伝わる。 秀秋の祭祀料として徳川家康が寺領100石を与えたのに因み、百石寺とも称する。 また、豊臣秀吉の姉日秀尼が、安土城内の秀頼旧邸を移し方丈とし、秀秋追善のために建立、100石を施入したとする説もある。

安養寺 (倒蓮華寺)

浄土宗西山禅林寺派に属する寺である。 由緒はきわめて古く、寛仁2年(1018)恵心僧都が奈良県當麻(たいま)に建てた蓮台院が当寺の起こりで、ついで恵心の妹安養尼が居住して安養寺と改名した。 天永年間(1110頃)隆暹(りゅうせん)が京都に移し、鎌倉時代に入って証仏(しょうぶつ)が大いに寺運をひろめた。 天正年間(1580頃)豊臣秀吉によってこの地に移された。 本尊は阿弥陀如来立像で、八枚の蓮華を逆さに置いた上に立っているのが特徴で、このことから倒蓮華寺と呼ばれる。 伝説によれば、本尊をつくる際、蓮座がどうしても壊れるので、蓮華を逆さにしたところ、無事完成した。 これは女人は業が深く、心の蓮華はさかさまとなっていて極楽往生できないので、これを救済するため、わざと蓮華を逆さにしたのだといわれる。 この本尊にまつわる伝説によって、昔から特に女性の信仰が深い。