紫雲山と号し、臨済宗大徳寺派に属する。 慶長18年(1613)因幡(いなば)国(鳥取県)若桜城主山崎家盛が大徳寺琢甫和尚を開山に請じて一寺を建立したが、家盛の没後、その法号にちなんで瑞光院と称したのが当寺の起りである。 もと堀川鞍馬口にあったが昭和37年11月ここに移った。 元禄初期には当院第3世陽甫和尚が播州(兵庫県)赤穂城主浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)夫人瑤泉院と族縁に当るところから、浅野家の香華祈願所となった。 元禄14年(1701)長矩が江戸城中で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に忍傷に及んで切腹したとき、当院内に供養塔が建てられ、また翌年上野介を討った大石良雄らが切腹したさい、その遺髪が寺内に葬られた。 境内には長矩、良雄ら46義士の墓のほか、良雄が生前愛したという梅の古木がある。 12月14日の義士討入りの日には義士ゆかりの寺として参詣する人が多い。
京都市
安祥寺
嘉祥元年(848年)、仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子の発願により、入唐僧・恵運によって創建された。天皇の母に関係した寺であることから斉衡2年(855年)に定額寺となる。 『延喜式』によると順子の陵は山科にあるとされ、この寺との深い関係がうかがえる。 安祥寺には醍醐寺同様、裏の山にある「上寺」と麓にある「下寺」が存在した。この2寺の詳細な成立時期はよく分かっていない。先に僧侶の修行場としてすでに「上寺」があり、その後恵運に帰依した順子によって下寺が建立されたという説が有力である。 恵運が貞観9年(867年)に作成した「安祥寺伽藍縁起資財帳」(現在東寺蔵)によると、上寺には礼仏堂と五大堂とから成る堂院・東西僧房・庫裏・浴堂などの施設が、下寺には約2万平方メートルの寺域内に塔・仏堂・僧坊・門楼などがあったとされる。 しかし、順子が死去したあとは朝廷の庇護を失い次第に衰微していったようで、『小右記』ではすでに上寺に行く道が非常に荒れていることが記述されている。平安時代後期にこの寺に入った宗意は下寺の復興をはかる。その後、上寺の方は延文年間まではかろうじて存続していたようだが、他の京都の多くの寺同様応仁の乱により、上寺・下寺共に完全に廃寺となる。 江戸時代に残った寺宝を元に現在地に移転して再建されるが、上寺の方は再建されず廃絶した。このときには高野山宝生院兼帯所となる。さらに、寺領のほとんどを寺の維持のために毘沙門堂門跡に売却、寺の規模は大幅に縮小される。江戸時代においても何回も火災に遭い、明治39年には多宝塔を焼失、以後再建されていない。 現在は江戸時代後期に再建された本堂、地蔵堂、大師堂のみが残る。(Wikipediaより)
双林院 (山科聖天)
本尊は、大聖歓喜天。 1665年(寛文5)公海大僧正によって毘沙門堂とともに再建。聖天さんは、十一面観音と大日如来の化身の姿という。 頭が象で、首から下は人間の姿。 二体が向かい合って抱擁されていることから「男女合体神」「陰陽和合」を表わす。 この像は厨子に納められ秘仏として拝まれており、直接お姿を見ることはできないが霊顕あらたな天尊である。 本尊のほか70体近い歓喜天像を合祀している。 ほかに、由緒めずらしい不動明王・阿弥陀仏はお姿を拝むことができる。 建立:1665(寛文5)年 毘沙門堂門跡の山内寺院として建立 春は桜、秋はもみじが見どころ ◆大聖歓喜天(聖天さま) その御尊像は、十一面観世音菩薩と大日如来が力を合わされ、大自在天として化身し、頭が象で体が人身という2体の抱擁身の姿で出現されたインドより渡来の密教の仏様です。 ご利益は現世利益が中心で、御本誓として「現世の苦を除き現世の幸福を増す」と説かれ、願い事は、一心に聖天様におすがりして祈ることによって叶え荒れるという。 法力が大変強大であらたかなことから、そのお姿は修行をした聖天行者しか拝むことができない秘仏(非公開)として信仰されている。 内陣中央部には真中に御本尊が安置され、脇には修法として「浴油」という、油をかけて御祈祷する金銅の尊像が納められている。後壇の中心には、ご本体である十一面観世音菩薩を祀り、両脇には創建当時から今日まで、各方面からの奉納や預けられた聖天像(客天と云う)が、70数体安置され、その中には武田信玄が出陣の際、兜に入れていたと伝えられる聖天像も安置されている。 ◆不動明王 本尊 不動明王(桃山時代作)は、比叡山の千日回峰行者であった第24代住職が、明治16年に比叡山無動寺谷より勧請されたもので脇佛に四大忿怒像を従えた五大明王である。 本尊は愛染明王や馬頭観音(平安期以前の作)その他複数の仏像が巧みに組み合わされたもので、その数は約300部材に及ぶ。特に頭部には如来の螺髪があり、その頂点には楊枝状の部材が約100本納められているという、他に例のない大変珍しい仏像である。 織田信長の焼討ちにより損傷した多くの仏像を当時の仏師が2度とこのような悲劇が起こらないよう祈りを込め、災難の種を護摩の炎により消滅させ、私達人間の苦しみの身代りとなって願いをかなえて頂けるという不動明王として蘇らせたものであると言われている。