随求堂 胎内めぐり 暗闇の中 数珠をたどり 五感を研ぎ澄まして進みます。 やがて淡い蛍光に浮かぶ随求菩薩の梵字「ハラ」に出会いホッと心が癒される。 その石を回して拝み さらに前進して再び太陽の光明を浴びて歓喜。 きっとあなたは心身の新生を覚えるでしょう。
京都市
美御前社
美御前という名の通り、美を象徴する神として祭られています。本社の祭神、素戔鳴尊が天照大神(あまてらすおおかみ)と誓約(うけい)をされたとき、素戔鳴尊のもっておられた十挙剣を振りすすいで生れた三柱の女神で、宗像三女神といい、清浄・潔白の証しとなった神々で、俗に弁天さんといわれるのもこの市杵島姫の神です。古くから祇園の芸妓さんをはじめ美しくなりたい願望の女性はもとより、美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています。 人の美を現すものには、目に見える容姿をはじめ、言葉や立ち居振る舞いなど、様々なものがあります。これら美徳の根元は、清く美しい心にあるといえます。美御前社は特に美徳成就の祈願をするおやしろです。美の神の御神徳をお受け頂き、常に心身の清浄に心掛け、道の開運を祈願して下さい。
両足院
八坂庚申堂
金剛寺(こんごうじ)は、京都市東山区にある天台宗の寺院。山号は大黒山。 通称は八坂庚申堂。大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)とともに日本三庚申の一つとされている。 本尊の青面金剛は飛鳥時代に中国大陸より渡来した秦氏の守り本尊であった。 ◆由緒 「八坂庚申堂」の正式名称は「大黒山金剛寺庚申堂」といい、大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)と並び日本三庚申の1つです。 御本尊「青面金剛(しょうめんこんごう)」は、もともと、聖徳太子の時代に活躍した秦河勝により中国大陸より招来し、秦氏の守り本尊としていたものです。1000年以上前の平安時代に、このお寺の開基である浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が、この御本尊を庶民もお参りできるようにとここ八坂の地に建立したのが、「八坂庚申堂」の開山の由緒です。以後、日本最初の庚申信仰の霊場として信仰を集めてきました。 「庚申(こうしん)」とは、干支(えと)、つまり庚(かのえ)申(さる)の日のことです。中国由来の道教の言い伝えでは、この前夜に、人間の体の中にいる三尸(さんし=3匹)の虫が寝ている間に体から抜け出して、天帝という神様にその人間の行った悪行を告げ口に行くそうです。天帝は、罰としてその人間の寿命を縮めます。それを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申待ち」という風習が行われていました(三尸の虫は、人間が寝ている間しか体を抜けられないため)。 「青面金剛」は、この三尸の虫を食べると考えられていたので、いつの頃からか「庚申待ち」には、この仏様を本尊として拝む風習(=庚申信仰)が広まり、「青面金剛」は「庚申さん」と呼ばれるようになりました。この日、睡眠をささげて一晩一心に願い続ければ如何なる願いもかなうとされています。 「八坂庚申堂」は、難病・奇病を封じこめる祈祷「コンニャク祈祷」や、下の世話にならず元気に過ごすための祈祷・帯下の病平癒の祈祷「タレコ封じ」、家出人・行方不明・失せ物を引き寄せる「鈎召祈祷(こうちょうきとう)」他、霊験あらたかなご祈祷でも有名です。 「庚申待ち」の夜や庚申日は、昔も今も多くの参拝の人々で賑わいます。付近の民家や商店の軒先には、この寺のお守りである「くくり猿」が軒先にたくさん掛かっている風景にも出会えます。 コンニャク焚きの接待は、年6回の庚申日に行われます。これは、八坂庚申堂の開祖である浄蔵貴所が、父の病気平癒祈願にコンニャクを捧げたところ無事治ったということから、庚申日にコンニャクが振舞われるようになりました。このコンニャクは、少し変わった形をしています。八坂庚申堂には「くくり猿」という猿のお守りがあり、コンニャクはその猿の形にくり抜かれています。それを北を向いて無言で3つ食べると、無病息災で過ごせると言い伝えられています。 このお寺でよく見かけられる猿は、庚申の使いとされています。
六道珍皇寺
大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。 当寺は、平安遷都以前、東山阿弥陀ヶ峰山麓一帯に居住した鳥部氏(とりべし)の氏寺(宝皇寺)が前身とも、空海の師、慶俊僧都が創建したものとも伝えられているが、正平年間(1346~70)に、建仁寺の僧、良聡によって再興され、現在に至っている。 薬師堂には、木造薬師如来座像(重要文化財)を安置し、閻魔(えんま)堂には、木造閻魔大王座像と小野篁(おののたかむら)の立像が祀られている。 また、当寺門前は、俗に「六道の辻(ろくどうのつじ)」と呼ばれ、毎年8月7日から10日までの4日間は、「六道詣り(ろくどうまいり)」といわれる精霊迎えのため、多くの参詣者で賑う。 「六道」とは、一切の衆生が生前の善悪の業因によって必ず往くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6種の霊界のことで、参詣者は、この期間、先祖の精霊を迎えるため、高野槇を買い求め、鐘(迎え鐘(むかえがね))を撞き、本堂で経木に戒名を書いて水回向を行う。 なお、境内裏庭には、小野篁が冥土通いをしたといわれる井戸がある。 ◆お迎え鐘 この鐘楼にかかる鐘は、毎年の盂蘭盆会にあたり精霊をお迎えするために撞かれるが、古来よりこの鐘の音は、遠くは十萬億土の冥土まで響き渡り、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることから「お迎え鐘」と呼ばれている。 「古事談」によれば、この鐘は当寺を開基した慶俊僧都が作らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くとき、この鐘を三年間、この鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立った。 ところが、寺僧は待ちきれず、一年半ばかりたって掘り出して鐘を撞いたところ、遥か唐国に居る僧都に聞こえたという。僧都は、「あの鐘は、三年間地中に埋めておけば、その後は人の手を要せずして六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」と、大変残念がったという。 しかし、そんなはるか彼方の唐国にまでも響く鐘なら、おそらく冥土まで届くだろうと信じられ、このような「お迎えの鐘」になったと伝えられる。 かかる話は「今昔物語」巻三十一にも同工異曲(どうこういきょく)の物語で出ている。こうした由来の鐘であるから、お盆の時期にはこのお迎え鐘を撞く順番を待つ参詣人の列が八坂通りまで蜿蜒(えんえん)と続く。 そんな風景をみて昭和初期の歌人、川端茅舎は次のような俳句を詠んでいる。 金輪際 わりこむ婆や 迎え鐘 迎え鐘 ひくうしろより 出る手かな 毎年お盆の時期になると、このお迎え鐘は千年もの長きにわたり澄んだ音色を時空をこえて冥土まで響かせ、旅立たれた多くの精霊たちを晩夏の都に迎えている。そして、また来るお盆を迎えるまでは、この寺を訪れる多くの人たちの心の安らぎと幸せをもたらす「慈しみの鐘」として、その穏やかな音色は渇いた心をやさしく癒してくれる。 ◆冥土通いの井戸 当寺の本堂裏庭の北東角(格子窓より見て右手奥辺り)にある井戸は、平安時代の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使ったところといわれている。 いい伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うために、この鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初と言われている。 また、「矢田地蔵縁起」にある大和の国(奈良県)金剛山寺(矢田寺)の漫慶上人が、篁を介しての閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うための戒行である菩薩戒を授けに閻魔庁へ赴くいたのも当寺の井戸からとされるなど、珍皇寺の井戸と篁さらには冥界を結びつける不思議な伝説は数多くある。 このように当寺にある井戸は、篁が冥土通いのために往来したところとして知られるが、その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺の井戸であるとする説もある。 しかし、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれている。 これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野(あだしの)もまた当時の墓所であったことより、ここにもやはり六道の辻は存在していたとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が、冥府よりの帰路に出口としていた説もうなずけるところである。 尚、当寺の冥土通いの井戸の傍の少祠には、篁の念持仏であった竹林大明神が祀られている。
京都霊山護國神社
幕末の動乱期に活躍した維新の志士たちを奉祀すべく、明治元年に「霊山官祭招魂社」として全国で初めて創立された。 昭和14年京都霊山護国神社と改称。境内には坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎を始めとする墓石、慰霊碑の他、従軍記念公園「昭和の杜」がある。 近接の霊山歴史館では明治維新関連の資料文献を展示公開している。 ◆由緒 当神社は、幕末維新に殉じた志士と第二次世界大戦にいたる京都府出身の英霊7万3千3柱を奉祀する。幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で明治元年五月、太政官布告をもって我国初の官祭招魂社とすべきことがきめられた。この布告により各藩は社殿を建設し、同年七月には盛大な祭典が挙行された。ついで明治10年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬をあつめた。さらに昭和4年6月には今上陛下御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14年に護国神社を改称して現在に及んでいる。 霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野国臣・宮部鼎蔵(みやべていぞう)をはじめ蛤御門の変・天誅組の義挙等に加わった志士の墓三百余基があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新をしのぶ大霊域・史跡である。
新那智山 観音寺 (今熊野観音寺)
泉涌(せんにゅう)寺の塔頭(たっちゅう)で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。 西国33箇所観音霊場第15番目の札所になっている。 空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡(さいこう)年間(854~857)左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したとも伝える。 文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。 伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後、復興されて現在に至っている。本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置する。 寺域は幽静で、郭公(かっこう)鳥の名所として名高く、本堂背後の墓地には慈円僧正・藤原忠通・同長家の墓と称せられる見事な石造宝塔3基がある。 ◆由緒 平安時代弘法大師が熊野権現より観音尊像を授(さづか)り嵯峨天皇の勅願により開運厄除の寺として開創された名刹です。 後白河法皇は本尊十一面観音を深く信仰され霊験によって持病の頭痛が平癒したので特に「新那智山・今熊野」称をこの寺におくられました。 それより頭の観音さんとして知られ病気封じ知恵授(さずか)り諸願成就の寺として広く信仰されています。
圓徳院
高台寺の塔頭寺院。 開基は、北政所の甥木下利房。方丈の襖絵は長谷川等柏の筆(重文)。 現在は復元画を展示。北庭の枯山水は桃山時代の風香を伝え国名勝指定を受けている。臨済宗。 建立:1605(慶長10)年建立、寛永9年頃寺院となる 伏見城の化粧殿及び前庭(北庭)を移築し、北政所がその晩年を過ごした。 化粧御殿は焼失したが、前庭は北庭として残っている。 ◆由来 豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に、高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住んだ。爾来北政所を慕い大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が訪れたと伝えられている。ねね、58歳のことである。これが今日の圓徳院の起こりであり、ねねは77歳で没するまでの19年間をこの地で余生を送り、この地は北政所の終罵の地となった。 そのねねを支えていたのが兄の木下家定とその次男の利房である。圓徳院は利房の手により高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされた。寛永9年、ねねの没後9年目のことである。 ◆三面大黒尊天の由来 東山圓徳院の三面大黒天は、福徳信仰の象徴として豊臣秀吉が念持仏としたといわれる珍しい尊像であります。 三面大黒天とは、大黒天、毘沙門天、弁財天の三天合体の霊像であります。 大黒天は、いうまでもなく福の神であり、毘沙門天は、勝利あるいは子宝の神であり、弁財天は、音楽・知恵・情操等をつかさどる学問、芸術の神であります。 この開運三面大黒天を信仰されることによって皆様方の家運益々の隆昌と、ご家族の無事息災を得られることをお祈り致します。 ◆桧垣の手水鉢 宝塔の笠を利用し、笠石を横にして、その商を凹字形に切り取り手水鉢としたものである。笠石は室町時代の作と考えられている。 ◆正門 当院は木下家初代以降歴代藩主の墓が置かれ、木下家の屋敷となっていた。そのため正門は長屋門の形態がとられている。 ◆北庭 もともと伏見城北政所化粧御殿の前庭を移したもので、当時の原型をほぼそのままに留める桃山時代の代表的園のひとつである。賢庭作で後に小堀遠州が手を加え池泉回遊式だが枯山水となっている。 原点となるのは東北部で、枯滝石組を構成し、築山を中心にして左右に多数の石組を二等辺三角形にまとめて数群展開させ、あるいは蓬莱石組を作る。(池泉にかかる数個の橋は見事巨石をあてているが、その厚さからくる迫力はこの庭の特筆すべき点でもあろう)このように多数の巨岩大岩ふんだんに置かれている庭は珍しく、これが桃山時代の豪華さ、豪胆さである。 ◆方丈 平成6年後藤佐雅夫師指導のもと山本長宏氏が方丈の解体修理を行った。 路地及び周辺庭園は北山安夫氏が整備をした。 ◆書翰・襖絵 桃山時代の気風そのままに、美しい辻が花染のきれで表装された、戦国武将の書翰や絢湖豪華な襖絵を所蔵している。
豊国神社
豊臣秀吉は没後、東山阿弥陀ヶ峰に葬られ、壮麗な豊国社に祀られたが大坂夏の陣後、徳川家康の手で取壊された。 現在の社殿は1880年(明治13)に再建のもの。 唐門(国宝)は伏見城の遺構で桃山期の逸品。 境内の宝物館には秀吉遺品を納めた唐櫃(重文)も。 宝物館拝観有料。 9月18日は「例祭」で、旧暦8月18日が祭神・豊臣秀吉の命日に当たる。 翌9月19日、茶道・藪内流家元による献茶式がある。 ◆由緒 豊臣秀吉を祀り、一般に「ホウコクさん」の名で人々に親しまれている。 慶長3年(1598)に63歳で亡くなった秀吉の遺体は、遺命により東山の阿弥陀ヶ峯の中腹に葬られ、その麓(現在の豊国廟太閤坦)には、広壮豪奢な廟社が造営された。後陽成天皇より正一位の神階と豊国大明神の神号を賜り、慶長9年(1604)8月の秀吉の七回忌には特に盛大な臨時祭礼が行われた。そのときの様子は豊国臨時祭礼図屏風(重要文化財)に詳しく描かれている。 豊臣氏の滅亡後、その廟社は徳川幕府により廃祀されたが、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿跡にあたる当地に社殿が再建され、別格官幣社として復興された。また、明治31年(1898)には、荒廃していた廟墓も、阿弥陀ヶ峯の頂上に再建された。 正面の唐門(国宝)は伏見城の遺構と伝え、二条城から南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもので、西本願寺、大徳寺の唐門とともに国宝三唐門の一つとされている。また、その両脇の石灯籠は、秀吉恩顧の大名が寄進したものである。
養源院
豊臣秀吉の側室淀君が父浅井長政の追善のため文禄3年(1594)成伯法師(長政の従弟)を開山として建立した。 寺号は長政の法号養源院をとったものである。 もとは天台宗であったが、今は浄土真宗遣迎(けんこう)院派に属する。 建立後はほどなく火災にあったので、元和7年(1621)徳川秀忠夫人崇源院が伏見城の遺構を移して本堂を再建した。 この本堂の左右と正面の3方の廊下の天井は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の前、家康の命を受けて伏見城を死守した鳥居元忠以下の將士が自刃した時の板間を菩提のため当寺の天井に張ったものといわれ、俗に、血天井と呼んで知られている。 本堂の襖及び杉戸の絵(重要文化財)は俵屋宗達の筆と伝え、杉戸には唐獅子・白象・麒麟、襖には松を描いている。 ◆由緒 豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善の為、長政の二十一回忌に秀吉に願って養源院を建立し長政の従弟で叡山の僧であった成伯法印を開山とし、長政の院号を以って寺号としたのは文禄三年五月(1594)である。其後程なく火災にあい、元和七年(1621)徳川秀忠が夫人崇源院殿の願により伏見城の遺構を移建したのが今の本堂である。以来徳川家の菩堤所となり、歴代将軍の位牌を祀って居る。 血天井、此の本堂の左右と正面の三方の廊下の天井は伏見城落城の時、烏居元忠以下の将士が城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を天井として其の霊を弔ったもので世に血天井と称して名高い。 宗達襖杉戸絵、此の本堂の襖(十二面)杉戸(八面)の絵は俵屋宗達の筆で、自刃した将士の英霊を慰める為に「お念仏、御回向」にちなんだ絵を画いたもので、杉戸には象や獅子や麟麟等の珍しい行動を画いて居り其の表現が奇抜で新鮮美に溢れ、又曲線美の効果が素晴らしい。 狩野山楽の襖絵、玄関の左の方に太閤秀吉の学問所とした牡丹の間がある。狩野山楽が牡丹の折枝の散らしの図案的な襖絵を描いている。 鶯張廊下、本堂の廊下は総て左甚五郎の造ったうぐいす張りで有名である。










