寿宝寺

開運山寿宝寺は、高野山真言宗の寺院であり人皇第四十二代文武天皇慶雲元年(704)の創建で、昔は「山本の大寺」と称し 七堂伽藍が備って和泉川(現在の木津川)ぞいの平野に梵鐘の響きを伝える大きな寺であった。 しかし東方を流れる和泉川の度々 の大洪水により建造物を流失したので、それより西方に「一佛寺」を建てた。 その後、正長元年(1428)8月2日の大洪水で 「佐牙・若松両社」廃壊、「一佛寺」も流水したが、永亨3年(1431)石戸村の西山を開発し、現在の「佐牙神社」境内にあ った法楽寺(三山木の廃寺)に観音堂を建立し一佛寺の残仏(十一面千手観音立像など)を安置した。 寿宝寺は、かつてあった一 佛寺の北西およそ四百メ―トルの現在地に亨保17年(1732)4月17日創建され現在に至っている。 なお、観音堂に安置さ れていた十一面千手観音立像は、明治初年の神仏分離令により寿宝寺へ移された。 そして、昭和42年9月24日には、住職 檀家をはじめ地元の人々の発願で、前町民の浄財の上に国庫や府それに町の補助を受け、180万円の経費で鉄筋コンクリ―ト平 屋建て、耐震、耐火、防湿を完備した収蔵庫を建て落慶法要を営み十一面千手観音立像などを安置した。

泉橋寺

奈良時代の高僧行基が、天平12年(740)に開いた泉橋院は(発菩薩院)、隆福尼院を前身とする寺院で、行基創建四十九院の一つといわれています。 境内には五輪塔(重要文化財)があり、地蔵堂跡に鎮座する石造地蔵菩薩坐像は、高さでは日本一の石地蔵として有名です。

高倉神社

木津川市山城町綺田神ノ木にある高倉神社は、後白河法王の第二皇子以仁王を祀った神社で、隣接して以仁王の御墓がある。 「平家物語」によると、以仁王は、 治承4年(1180)源頼政のすすめにより、平清盛とその一族の追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力にあてて出していた。 このことが露見したため、 平家の追討をうけ、 南部の興福寺をたよって都を落ちる途中この地に至り、光明山寺の鳥居の前において流れ矢にあたって落命されたという。後に、この地に王の御霊を祀ったのが、この神社の起こりと伝える。 ◆阿弥陀寺 高倉神社に近接する阿弥陀寺は、僧円輸の開基と伝え、 もと阿弥陀堂三艸庵と称したという。 以仁王落命の折、仏事を営み、 建久3年(1192)、これに因んで山号も高倉山としたと伝える。 なお、境内には、厚肉彫の石仏(阿弥陀如来座像)があり、鎌倉時代の優品である。

松尾神社

松尾神社は、社伝によると天平勝宝年間(749~757)にはじまる古社で、国の重要文化財に指定されてる本殿は、江戸時代の天明6年(1786)に造営された奈良春日大社若宮本殿を文化5年(1808)にこの地へ移築したものです。 表門両脇の土塀は、鎌倉時代の瓦を練りこんだ土塀です。

笠置寺(正月堂)

笠置寺の創建は古い、すでに2000年前から笠置山の巨岩は信仰の対象となっていた。この事は笠置山の中心をなす大岩石の前から弥生式時代の有樋式石剣が発見されたことによってわかる、しかし実際に建物が建てられ人が住みついたのは1300年前である。 1300年前東大寺の実忠和尚、その師良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻されその仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えたのである。 平安時代永承7年(1052)以後世の末法思想の流行とともに笠置寺の大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰をうけたのである。鎌倉時代建久2年(1191)藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者としてその運動を笠置寺から展開するとき笠置山は宗教の山、信仰の山として全盛を極めた時であった。 しかし元弘元年(1331)8月27日倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を当寺に迎えたことにより攻防1ヶ月ついに笠置山は全山焼亡以後室町時代少々の復興を見たが江戸中期より荒療、ついに明治初年無住の寺となった。 明治9年丈英和尚孤狸の住む荒れ寺に住して笠置寺の復興につくすこと20年ようやく今日の姿となったのである。

観音寺(普賢寺大御堂)

此の寺は今より千三百年前、天武天皇の勅願により義淵僧正が開基され、次いで聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築した寺であります。良弁僧正の高弟で、有名な奈良のお水取りを初められた実忠和尚を第一世とします。法相三論華厳等を兼学し、世の尊信を集め、息長山普賢教法寺と称して、その盛んな姿を見た人は筒城の大寺と申しました。 御本尊十一面観世音菩薩はこの普賢教法寺の御本尊で、古記録によりますと天子16年(744)安置されたものであります。天下泰平と国民豊楽の祈願をこめられた御霊像で、その後およそ1200年の問、世の変遷につつがなくいまし、今にその御霊徳をおわかち下さって居るのであります。この十一面観音様は四種功徳、十種勝利と申しまして、我々の苦難をお救い下さる観音様のうちでも、特にすぐれた御利益がお経にとかれて居ます。要約致しますと、常に我々と共にあって、無病息災に、不時の災難をのがれさせ、種々の祈願を成就せしめるとの御誓願であります。 本日御参詣の皆様、我が固有数の天平仏として拝がまれます前に、静かに古人の願に想を致し御本尊の麗容からする無限の光に浴され、皆様のお心深く御誓願をおうけ下さい。 今や往時を偲ぶ何物も残って居ません。数々交通略図の地名に寺ゆかりの名を残し、古塔の跡には僅かに数個の礎石を残すのみであります。しかし古図によりますと諸堂十三、僧坊二十余を数えます。所領も近隣はもとより、河内交野に迄及んだ様であります。これら結構な建物も永亨9年(1437)冬の火事に殆ど失われた様です。それ迄は度々の火災にも延暦13年(794)の時は藤原良房公を本願とし、治承2年(1178)の時は普賢寺関白基通公により、弘安2年(1279)の時は高山寺関白家基公により再建されました。このように藤原氏の外護を受けましたのは、当寺が藤原氏の氏寺興福寺の別院であったからでもありましょう。この藤原氏の外護を離れてからは当地方の古利として小さい乍ら尊厳を保ち続けて来たのであります。 古く仁徳天皇の頃に開けた土地、大らかな天平の名残りをとどむる古利、近くには一休寺、蟹満寺等もあります。