浄瑠璃寺

浄瑠璃寺は、京都府木津川市加茂町西小札場にある真言律宗の寺院。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基は義明上人である。 寺名は薬師如来の居所たる東方浄土「東方浄瑠璃世界」に由来する。 本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれた。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝える。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重である。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場する。 浄瑠璃寺の所在する地区は当尾(とうの)の里と呼ばれ、付近には当尾石仏群と呼ばれる、鎌倉時代にさかのぼる石仏、石塔などが点在している。行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京や東大寺からも近く、恭仁宮跡(奈良時代に一時期都が置かれた)や山城国分寺跡も近い。 浄瑠璃寺の創立については、寺に伝わる『浄瑠璃寺流記事』(じょうるりじ るきのこと)が唯一の史料である。『流記事』はいわゆる「縁起」の形式を取らず、寺の歴史に関わる事項について箇条書き風に書かれたもので、観応元年(1350年)に古記を書写したものであるが、この時に筆写されたのは永承2年(1047年)から貞応2年(1223年)までの歴史に関わる部分で、それ以後、永仁4年(1296年)から観応元年までの歴史については、新たに書き継がれている。 以下、『流記事』の記載に沿って初期の沿革を記す。永承2年(1047年)、義明上人により本堂が建立され、檀那は阿知山大夫重頼であった。これら2名の人物については、この『流記事』の記載以外にほとんど知られるところがない。義明については『流記事』の注記から当麻(現・奈良県葛城市)出身であることが知られるのみである。阿知山大夫重頼については、他の記録(『興福寺官務牒疏』)に「佐伯氏」とあるが、これも定かではなく、当地方の豪族とみられる。この永承2年が浄瑠璃寺の創建年とみなされている。この時の本堂は、『流記事』によれば1日で屋根を葺き終えているので、小規模なものであったことがわかる。 それから干支が一巡した60年後の嘉承2年(1107年)、本仏の薬師如来を「西堂」に移したとの記録がある。ただし、「西堂」についての具体的な説明はない。『流記事』はここで別の記録(『戒順坊阿闍梨日記』)を引いて、この時に旧本堂を取り壊して、そこに新本堂を建立し、翌年に仏像の開眼供養をしたと説明している。この記録から、当寺の当初の本尊(本仏)が薬師如来であったことがわかり、寺号も薬師如来の浄土である東方浄瑠璃世界に由来することがわかる。現・三重塔本尊の薬師如来坐像が当初の本尊であった可能性も指摘されている。また、この嘉承2年に建立された新本堂が、現存する国宝の本堂であるとするのが通説である。それから50年後の保元2年(1157年)には本堂を西岸に「壊渡」したとの記録がある。「壊し渡す」とは、「解体して移築した」の意に解釈されている。「西岸」とは、池の西岸、すなわち、現存する本堂の建つ位置にほかならない。それ以前の本堂が寺内のどの場所にあったかは定かでないが、地形等からみて、池の北岸にあったとする説もある。 中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺であったが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となった。

岩船寺

市域の東南部、奈良県境の小田原の東側に位置している古刹。寺の縁起によると、天平元年(729)、聖武天皇の勅願によって開基したと伝えられています。平安時代に本尊阿弥陀如来坐像、普賢菩薩騎象像、鎌倉時代に十三重石塔や五輪塔、室町時代に三重塔(いずれも重要文化財)が造られました。山あいにあることから、初夏の新緑、秋の紅葉に三重塔が映えて、境内に奥行きを与えています。また、境内一帯に植えられたあじさいが美しく「あじさい寺」として知られています。 ◆由緒 創立は天平元年(729)、聖武天皇が出雲の国不老山大社に行幸の時、霊夢によって、この地に阿弥陀堂の建立を発願、大和国善根寺に籠居しておられた行基菩薩に命じて建てられたのに始まる。その後、弘法大師と智泉大徳が阿弥陀堂において伝法灌頂を修せられたため、灌頂堂となる。 大同元年(806)智泉大徳、新たに報恩院を建立される。更に嵯峨天皇が智泉大徳に勅命して皇孫の誕生を祈願され、皇子が誕生された。後の仁明天皇である。皇后ご叡信が特に深く、皇孫誕生のこともあって弘仁四年(813)に堂塔伽藍が整備され、寺号、岩船寺となる。 最盛期には四域十六町の広大な境内に三十九の坊舎があり、その偉容を誇っていたが、承久の変(承久三年・1221)によって大半が焼失した。その後、再興された堂塔も再度の兵火によって次第に衰え、江戸時代初期の寛永の頃(1624~1643)には本堂、塔、坊舎、鎮守杜等、十棟程度になる。 当時の住僧文了律師はこの荒廃ぶりを痛くなげき、自ら世上に出て訴え続け、ご勧進と徳川氏の寄進とによって、本堂や本尊の修復を成し遂げられた。 そして、江戸時代の本堂も老朽化のため五ヵ年計画で本堂再建事業を進め、昭和六十三年(1988)四月二日落慶し、現在に至る。 三重塔は天長二年(825)智泉大徳入滅の後、十年を過ぎて承和年間(834~847)に、仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで宝塔を建立されたものであると伝えられる。 十三重石塔は正和三年(1314)に、妙空僧正の造立と伝えられる。 石室不動明王立像は応長二年(1312)2月、塔頭湯屋坊の住僧盛現が眼病に苦しみ、不動明王に七日間の断食修法をされ、成満日には不思議にも眼病平癒された。そして報恩のために白ら不動明王を彫刻安置し、入滅の時「我が後生の凡俗にて眼病に苦しむ者あれば、必ず岩船寺の不動明王を祈念せよ。七日間に祈願成就する」と遺言され、今日に至るまで霊験にあやかろうと多くの参拝がある。

黄檗山萬福寺

1654年(江戸時代)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の尊崇を得て、1661年に開創された中国風の寺院であり、日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、黄檗宗の大本山です。 黄檗宗では、儀式作法は明代に制定された仏教儀礼で行われ、毎日誦れるお経は黄檗唐音で発音し、中国明代そのままの法式梵唄を継承しています。 建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、主要建物二十三棟、回廊、額、聯などが国の重要文化財に指定されています。 ◆大雄宝殿(だいおうほうでん) 萬福寺の本堂であり、最大の伽藍。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物です。本尊は釈迦牟尼佛。両脇侍は迦葉、阿難の二尊者。両単に十八羅漢像を安置してあります。 ◆巡照板と勾欄(じゅんしょうばんとこうらん) 黄檗山の一日は、朝の巡照板によって始まり、夜の巡照板によって終ります。ここで修行する雲水(修行僧)が正覚をめざして精進を誓い、自覚を促すために巡照板を打ち鳴らして各寮舎を回ります。開山堂・法堂正面の勾欄は卍及び卍くずしの文様になっています。 ◆天王殿(てんのうでん) 寺の玄関として設けられています。中国では一般的な建て方で、四天王・布袋尊(弥勒菩薩の化身)・韋駄天をお祀りしています。尚、当山は日本最古都七福神「布袋尊」の寺です。 ◆開梆(かいぱん) 斎堂前にある魚板で木魚の原形となっています。時を報ずるものとして今も使われています。 ◆文華殿(宝物館) 黄檗文化の殿堂として、その宝物・資料の収蔵保管と展示をする建物です。毎年春と秋には展示会が行われています。現在、黄檗文化研究所が置かれ、近世仏教や仏教美術、黄檗文化等が研究されています。 ◆巡照板 「巡照板」と呼ぶこの版木は、禅堂、西方丈など五ヵ所に吊られています。開創以来の三百余年間、朝四時と宵の九時に木槌で三打して朗々と唱え、一打、二連小打して、起床と開静(消燈)を告げ、順次打ち鳴らします。 この諷経で一日が始まり、一日が終わるのです。五連の句意は、 ・謹んで大衆(修業者)に申し上ぐ。 ・生死は、事大にして、 ・無常は迅速なり。 ・各々、覚醒して、 ・無為に、時を過ごさぬように。 仏道修業者の心を、戒めています。

興聖寺

興聖寺の名は、曹洞宗の開祖道元禅師が伏見深草に開いた由緒ある寺にちなみ、慶安元年(1648)淀城主永井尚政がそれを宇治の地に再興しました。 本堂は伏見城の遺材で造ったとも伝えられており、境内は禅寺にふさわしい威厳と静寂に満ちています。 また、山門に至る参道は琴坂と呼ばれ、紅葉の名所として知られています。 境内に安置されている平安時代後期の木造聖観音立像は、かつては源氏物語宇治十帖の古跡のひとつ、手習の杜に祀られたことから「手習観音」の呼び名で親しまれています。 宇治川の清流に架かる日本三名橋の宇治橋より川に沿って上流へ約800米、宇治川を背に総門(石門)を通り、春は新緑、夏は緑陰、秋は紅葉の琴坂(参道)200米を登れば能富造りの山門に至る。寺は曹洞宗の宗祖道元禅師開創になる初開の道場、佛徳山観音導利院興聖宝林禅寺である。 道元禅師は内大臣久我通親公を父とし、太政大臣藤原基一房公の女を母として正治2年1月(1200年)誕生され、3才で父を、8才で母を喪い、13才のとき母の遺言と世の無常を感じて木幡(字治)の松殿屋敷を出でて比叡山に登り、14才にて横川解脱谷寂場房の天台座主公円僧疋に就いて出家得度して勉学、ついで建保2年(1214年)京都東山建仁寺開山栄西禅師の会下に投じて参禅、貞應二年(1223年)24才のとき栄西禅師の高弟明全和尚と共に求法のため中園(宋時代)に渡航され諸方の禅寺を歴訪しての後、天童山景徳寺長翁如浄禅師に就いて、釈尊より51代の正法を嗣がれて28才の安貞2年(1227年)秋帰朝、3年を建仁寺で、次いで深草の安養院(現在の墨染欣淨寺)に閑居、弘誓院殿や正覚禅尼の寄進により極楽寺の子院観音導利院の旧跡に七堂伽藍を建立し、正法挙揚の道場として天橋元年(1233年)道元禅師34才のとき興聖宝林禅寺を開創されたのが当寺である。 在住10年正法の眼目たる普勧坐禅儀を初め正法眼蔵九十五巻の半数及び学道用心集典座教訓など多数を撰述して正法挙揚につとめられたのである。寛元元年(1243年)夏越前の領主波多野義重公の招請を受けて入越翌年傘松峰大佛寺を開堂され、次いで覚元4年(1246年)吉祥山永平寺と改められたのが福井の大本山永平寺である。 道元禅師入越後の興聖寺は数代の後、應仁の乱(1467年)の兵火に遭い伽監や記録等を焼失している。 寛水10年(1633年)永井信濃守尚政公下総国古河より山城国淀城主として入国の後、領内の霊跡周覧のとき道元禅師開創になる興聖寺の廃絶せることを惜しみ、両親菩提のため度安元年(1648年)伏見城の遺構を用いて諸堂を建立整備し、万安英種禅師を請じて再興し以来三百数十年江戸時代には畿内五ケ国の僧録寺として又曹洞宗の専門道場として幾多の俊秀を輩出し今日に至っている。 本堂は伏見桃山城の遺構を用いて建立され慶長5年(1600年)落城の時の血の手形足跡が残る縁板を前縁の天井にし、前縁は鴬張りの廊下である。本尊は道元縄師自作の釈迦牟尼佛を安置し知祀堂には源氏物語宇治十帖にある手習の聖観音を奉安している。開山道元禅師真像は道元禅師の弟子詮慧和尚が京都永興庵に奉安せる御真像で体内に御霊骨が納められている。大書院は大正元年(1912年)建立になり大正8年6月貞明皇后様行啓の書院で、次書院は明治10年(1887年)2月英照皇太后、昭憲皇太后両陛下行啓の書院である。 「春岸の山吹」と「興聖寺の晩鐘」は宇治十境に入っている。

橋寺(放生院)

古代より、水辺、特に橋は心霊が宿るところとされており、橋姫はその守り神です。 瀬織津比咩を祭神とする橋姫神社は、明治3年の洪水で流失するまでは宇治橋の西詰にありました。 境内には橋姫神社とならんで、同じく水の神である住吉神社が祀られています。 交通の要衝として発展してきた宇治にとって、宇治橋はとりわけ大きな意味を持っており、橋姫神社を巡って数々の伝承を生み出しています。 また、宇治が主要な舞台となっている、源氏物語宇治十帖の第一帖は「橋姫」と名づけられており、橋姫神社はその古跡となっています。 ◆由緒 孝徳天皇の御宇大化二年、南都元興寺の僧道登勅許を得て創めて宇治橋を架するにあたり其鎮護を祈らん為、宇治川上流櫻谷に鎮座まします瀬織津比咩の神を橋上に奉祀す。これより世に橋姫の神と唱ふ今の三の間と称するは、即ち其鎮座の跡なり。 後祠を宇治橋の西詰の地に移し住吉神社と共に奉祀す。明治維新までは、宇治橋の架換ある毎に新たに神殿を造営し神意を慰めたりしが、明治三年洪水の為め社地流出してより此の地に移す。 住吉神社は、往古は宇治川の左岸櫻の馬場にありし小社なり。彼の源平盛衰記に、平等院の北東の方結の神の後より武者二騎云々とあるもの即ちこれなり。 尚かの源治物語宇治十帖のうち橋姫の巻といふ一帖は、これに因みしものなるべし。 さむしろに衣かたしき今宵もや、我をまつらん宇治の橋姫。 古今集。 あじろ木にいさよふ浪の音ふけて、獨や袮ぬる宇治の橋姫。 新古今集。 はしひめのもみちかさねやかりてまし、たびねは寒し宇治の川風。 蓮月集。

桂離宮

1615年(元和元)智仁親王(初代八条宮)が造営に着手。 約47年後の智忠親王(2代)の代にほぼ完成した別荘。約6万9400平方メートルの敷地に、古書院、中書院、新御殿を主に、池のまわりに書院、茶亭を配し、庭と建築の構成、融合が見事。離宮建築最高の技法と、日本庭園美の集大成といわれる。

落柿舎

ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)~宝永元年(1704))の閑居の跡として知られている。 当時、庭にあった四十本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。 これが落柿舎の名の由来である。 芭蕉も晩年、三度当庵を訪れて、名作「嵯峨日記」を著した。 庭には去来のよんだ   柿(かき)主(ぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山 の句碑がある。 去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。 かつて武人であった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであった。 その句   鴨なくや弓矢を捨てて十余年 はよく知られている。

地蔵寺

浄土宗の寺で、地蔵寺といい、京都六地蔵巡(めぐ)りの霊場である。 本尊の地蔵尊は、平安時代の初期に、参議小野篁(おののたかむら)が、一度、息絶えて冥土(めいど)へ往き、生身の地蔵尊を拝してよみがえったのち、一木より刻んだ六体の地蔵菩薩の一つであるといわれている。 当初、これらの地蔵菩薩は、木幡(こはた)の地に祀られていたが、保元2年(1157)、平清盛によって、都の安泰を祈るため、洛内に通じる六街道の入口の一つに当たるこの桂の地に分祀されたものと伝えられている。 なおこの地蔵尊は、一木の最下部をもって刻まれたもので、世に姉井菩薩と呼ばれている。 地蔵堂の東には、石造薬師如来坐像(鎌倉初期)を安置する薬師堂があり、境内には、石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。 また、昔、このあたりは、桂の渡しに近く、桂大納言源経信(みなもとのつねのぶ)や、伊勢女(いせじょ)等の歌人の住居があったといわれている。