由岐神社

大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っている。 天慶3年(940)御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請(かんじょう)したのが当社の初めといわれ、天皇の御病気や世上騒擾(そうじょう)のとき、社前に靭(ゆぎ)(矢を入れる器具)をかかげて平安を祈ったため靭社の名がついたと伝え今日では由岐神社とかえている。 拝殿(重要文化財)は別名を荷拝殿または割拝殿といい、桁行六間・梁間二間・入母屋造桧皮葺(いりもやづくりひはだぶき)で、慶長15年(1610)豊臣秀頼によって再建された。 崖にのぞんで建てられ、後方は崖上に出て、前部は舞台造となっている。 このほか石造の狛犬(こまいぬ)一対も重要文化財に指定されている。 有名な鞍馬の火祭はこの社の例祭で、毎年10月22日夜行われ、祭神遷座の時、葦のかがり火をたいたという故事にかたどり里人が大小さまざまの松明(たいまつ)をかついで鞍馬街道から当社へ参詣するので一面火の海となって壮観を極める。 ◆御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)(別称 大国主命) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 相殿 八所大明神 ◆御由緒 天慶3年(940)旧暦9月9日に天下泰平・万民の守護神・都の北方の鎮めとして朱雀天皇の詔により御所に御祀りされていた由岐大明神がこの地に御鎮座なされました。 その様子を遺し伝えたのが『鞍馬の火祭』の起源であります。その後、豊臣秀吉公の崇敬も厚く御本殿、拝殿は豊臣秀頼公によって再建されました。現在は、拝殿(国の重要文化財)のみが残っております。 ◆御神徳 御祭神は国を治め、人民の生活をお教えになり、特に医薬の道をお授けになった医薬の祖神であります。そのため商売繁盛・病気平癒・縁結び・安産・厄除火難除の神様として古くより信仰をあつめております。 御神階 天正17年(1589年)御陽成天皇正一位宣下 例祭 10月22日「鞍馬の火祭」

勝林院(問答寺)

1186年(文治2)法然上人を招き、諸宗の学僧と浄土の宗義を論談した「大原問答」はここで行われ。 寺は寂源法師が長和2年(1013)に国家安穏の為に当院を建立して声明等を興隆し、山号を魚山(ぎょざん)と号した。 寺院で行われる法要儀式の中で、仏教の経典などに節をつけて仏教音楽である天台声明(しょうみょう)の発祥の地。 天台宗。法然上人25霊場めぐりの第21番目の霊場。 ◆由緒 魚山(ぎょざん)と号する天台宗の寺院である。 円仁(えんにん)(慈覚大師(じかくたいし))が唐から持ち帰り、比叡山に伝承した法儀声明(ほうぎしょうみょう)の修練道場として、弟子の寂源(じゃくげん)が長和二年(1013)に創建し、後に天台声明(しょうみょう)の根本道場となった。声明とは、インドで始まったバラモンの学問の一つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。 文治(ぶんじ)二年(1186)に、天台宗の顕真(けんしん)が浄土宗祖の法然(ほうねん)を招き、専修念仏について論議した「大原問答」が行われた所でもある。伝説では、その際に、本尊の阿弥陀如来が手から光明を放って念仏の衆生済度(しゅじょうさいど)の証拠を示したといわれ、本尊は「証拠(しょうこ)の阿弥陀」と呼ばれた。 本尊を安置する本堂は、鐘楼とともに、京都市の有形文化財に、また、創建当時の梵鐘と境内東側の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、国の重要文化財に指定されている。 

実光院

実光院は勝林院(寂源が天台声明を伝承するために建立した寺)の子院である。 庭園(契心園)は、律川の水を取り入れた心字池を中心にした池泉観賞式と茶室(理覚庵)のある池泉廻遊式。 福寿草、カタクリ、イカリ草など春の花にはじまり四季おりおり年中いろいろな草花を咲かせる。 特に秋の紅葉の頃より春まで咲く不断桜(ふだんざくら)は珍しい。 ◆本尊 本尊に地蔵菩薩像、脇侍には不動明王像と毘沙門天像を安置する。 ◆歴史 魚山大原寺下院の本堂・勝林院の僧院である。勝林院は、長和二年(1013)に慈覚大師円仁(天台宗の入唐求法僧・中国から仏教儀式音楽である声明を伝えた)の九代目の弟子寂源が、天台声明を伝承するために建立した寺である。後に聖応大師良忍が来迎院を建立し、この地が天台声明の中心地となり、以後この二院を本堂として魚山大原寺と総称するようになった。勝林院には実光院のほかに、宝泉院、普賢院、理覚院などの子院が建てられ、歴代の住職は日々天台声明の研鑽に励んできた。 実光院ははじめ隣の大原陵(後鳥羽天皇・順徳天皇陵)の地にあったが、大正八年に普賢院と理覚院を併合し、普賢院跡地である現在地に移転した。 ◆客殿 現在の客殿は、大正十年に建てられたものである。(庫裡は江戸末のものを移築)欄間の三十六詩仙画像は、江戸時代中期の狩野派の画家の筆である。床の間を始め、各所に楽器が陳列してあるが、これらはいずれも声明研究の一助にと歴代住職が収集したものである。 ◆庭園 旧普賢院庭園(契心園けいしんえん)客殿の南に広がる池泉観賞式の庭園。江戸時代後期の作庭。心字の池に律川から導いた滝の水が流れ落ち、滝口の近くには蓬莱石組がある。築山の松は鶴を、池の島は亀を表象している。また、築山には石造の五重塔を配置し、池のこちら側を俗世間、向こう側を仏の浄土に見立てている。 旧理覚院庭園、客殿の西側一帯にある池泉回遊式庭園。理覚院が廃寺となり実光院に併合された後、荒廃していた土地を近年前住職が作庭したものである。中央にはひょうたん池があり、配置してある石の多くは寺領の山や谷から運びこんだものである。西の金毘羅山や小塩山を借景に取り入れるために庭木を低く仕立てているので、極めて解放的な明るい印象を与えている。 庭の西北隅にある茶室「理覚庵りかくあん」は、前住職の設計によって昭和50年に建てられたもので、桧の変木床柱を始め、材木のほとんどは実光院領の山林から調達したものである。 庭木には茶花を多く植え込み、観賞者の楽しみに供している。庭の中央にある不断桜は、例年初秋より翌年の春まで花を咲かせる珍しい品種で、秋の紅葉の季節には観桜と紅葉狩りが一度に楽しめる。 ◆『天台声明』(てんだいしょうみょう)の根本道場・大原魚山 声明は、寺院で行われる法要儀式の中で仏教の経典などに節をつけて唄う仏教音楽である。その起源はインドで紀元前仏教の発生と共にはじめられたといわれ、梵唄とも呼ばれていた。この声楽が中国をへて我が国に伝えられたのは奈良から平安時代にかけてのことである。これ以後仏教各宗派できまざまな伝承が続き、現在では天台声明と真言声明がその主流となっている。 大原で伝承されている天台声明は、魚山声明とも呼ばれ、平安時代に比叡山の高僧慈覚大師円仁が中国からもたらしたものである。寺の山号となっている魚山の名称は、中国山東省にある声明の聖地・魚山の名にちなんだものである。慈覚大師の弟子寂源はこの地に勝林院を建て声明の興隆に努め、さらに聖応大師良忍が来迎院を建て声明を統一した。以後は、多くのすぐれた声明家を排出し天台声明の根本道場として現在に至っている。 声明には梵語(インド語)・漢語・和語で唄われるものがあり、呂曲・律曲と呼ばれる旋法によって唄われるもの、拍子のある定曲や拍子のない序曲など、多種多様の曲がある。特に講式と呼ばれる声明は、鎌倉から室町時代にかけて発生した語り物音楽である平曲や謡曲に影響をおよぼし、さらには浄瑠璃・義太夫節・長唄・清元など各種の邦楽の源流であるといわれている。 仏教とともに伝未した声明は、我が国の音楽文化に多大な影響を与えた伝統ある音楽であり、国内は無論のこと、海外(特にヨーロッパ)においても、古典宗教音楽としてしばしば紹介(公演)されている。

来迎院

仁寿年間(851-54)3代天台座主慈覚大師円仁が開創した声明(しょうみょう)音律の根源地。 1109年(天仁2)聖応大師良忍が再興。 本堂には藤原時代の薬師、阿弥陀、釈迦三如来坐像(いずれも重文)が安置されている。 現在の本堂は天文二年(1533)の再建。天台宗。 建立:1109(天仁2)年(平安時代) 魚山と山号する天台宗の寺院で、仁寿年間(851~854)に円仁(慈覚大師)が、唐で学んだ梵唄(ぼんばい 梵語の仏教歌謡)などの声明(しょうみょう)の修練道場として創建したものである。声明とは、インドで始まった学問の1つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。 その後、平安時代末期に、融通念仏の開祖・良忍が再興して、円仁に始まる声明を大成した。 この声明は、魚山(ぎょざん)流と呼ばれ、以後、天台声明の根本道場として栄えた。 本堂には、藤原期の薬師・阿弥陀・釈迦三尊仏(重要文化財)を安置し、寺宝としては、伝教大師度縁案(どえんあん)並僧綱牒(そうこうちょう)(国宝)などを蔵するが、現在は東京国立博物館に寄託している。 山道を更に約200メートル上がった所には良忍が声明を唱えていると、声明の音律と融合して水音が消えたといわれる音無の滝がある。 ◆由緒 当院は魚山橋の東呂川に沿って山道を300米程登り外界と隔絶した雰囲気をもつ天台宗の古刹である。この来迎院のある大原は、平安時代初期(9C)日本天台宗を開宗した伝教大師最澄の直弟子の慈覚大師円仁(794~864)が声明(仏教歌謡)の修練道場として開山した。円仁が中国(唐)に留学した際、五台山(山西省)の太原(タイユワン)を中心に五台山念仏(声明)が流行していたのを学び、帰国後比叡山に伝えた。この大原の地形は、中国の太原と類似していたので声明の根本道場と定められた。声明とは経文に音曲をつけて歌詠するもので、音楽的な色彩が強く後の邦楽(今様・浄瑠璃・謡曲・民謡など)に強く影響を与えた。 藤原時代(10~12C)には、俗化した叡山を離れた念仏聖が修業する隠棲の里となり、寂源が勝林院(1013)を叡山東塔の堂僧であった聖応大師良忍(1072~1132)が来迎院(1109)を建立した。 創建当時の来迎院は、三尊院と称し多数の堂塔伽藍があったが応永33年(1426)11月火災で焼失した。この後大原は、上院来迎院と下院勝林院を中心として坊が集落化する別所となり魚山大原寺と総称した。 平安時代末期(12C)来迎院を建立された良忍上人は、円仁が伝えた声明を統一し魚山流声明を集大成された。この魚山流はその後天台声明の主流となる。盛時には、坊が49あったといわれ声明を修練する僧侶や貴族が数多く集まり妙音のこだまする里として隆盛をきわめた。そこで叡山は、梶井政所(現三千院)を設置し(1156)魚山大原寺の統括を計った。 良忍上人以後来迎院からは、湛智、宗快、喜淵などの声明理論家を輩出し声明の本山としての血派を守り続けた。 ◆良忍上人 良忍上人は、尾張(愛知県)の富田(東海市)の人。13才で叡山に登り、檀那院良賀(実見)に就いて出家し、天台の教相と観心を学び、園城寺禅仁に大乗戒を受け、仁和寺永意に金剛・胎蔵・両部の潅頂を受け顕教にも密教にもすぐれた聖であった。 平安時代末期の叡山は、自他救済の仏道実践が行じ難くなったので、修行の地を求めて大原へ隠棲された。大原隠棲後38才で来迎院を建てここに止住し、如来蔵を建て大乗三蔵(経・律・論)をおさめた。良忍上人は、毎日法華経を読誦し、大乗経典を書写し、念仏六万遍を唱え、手足の指を燃して仏に供養された。さらに音無の滝(律川300米上流)で滝に向い声明を唱えられたり、獅子が良忍上人の唱える声明の調べに陶酔し、堂内をかけめぐり岩になって残った(獅手飛石)などの三昧行に精進された。その結果永久5年(1117)5月46才の時念仏三昧中に阿弥陀仏から融通念仏の教えを授けられた。融通念仏とは、一人の念仏と衆人の念仏とが互に離通しあって往生の機縁となることで、この教えをもって良忍上人は弟子達によって布教にあたらせ、都や畿内にその教えは流布され、やがて河内(大阪府)平野の大念仏寺を総本山として融通念仏宗を開宗するようになる。良忍上人は、天承二年(1132)2月1日60才来迎院で入寂された。

古知谷阿弥陀寺

1609年(慶長14)木喰上人弾誓が開創した如法念仏道場。浄土宗。 本堂(開山堂)に安置する本尊弾誓上人像は、上人が自ら刻んだといい、自分の髪を植えたので「植髪の像」と呼ばれ、安産守護の信仰を集める。 阿弥陀如来坐像は重文。宝物殿に上人の遺品、皇室関係の品を陳列。 建立:1609(慶長14)年 古知谷光明山と号する浄土宗の寺である。 慶長14年(1609)弾誓上人によって創建された如法念仏の道場である。上人は尾張国(愛知県)に生まれ、九歳で出家し、諸国行脚ののち、当地に一宇を建立し、慶長18年(1613)62歳で没した。 上人の遺骸は、石棺に納められ、今も本堂の奥の開山窟に安置されている。 本堂には、阿弥陀如来座像及び植髪の像と呼ばれ上人自作の像を安置し、宝物館には、上人の所持品及び大聖寺、有栖川、閑院などの各宮家より賜った貴重な品々を展示している。 書院背後の湧水は、御杖水と呼ばれている。 また、山上には、禅公窟と呼ばれている石窟があり、これは、弾誓上人の行跡を慕って来山した澄弾上人が参禅したところと伝えられている。 ◆由緒 光明山法国院阿弥陀寺は、慶長14年(1609)3月、弾誓上人が開基なされた妙法念佛の道場です。 弾誓上人は、尾張国海辺村に生まれた方ですが9歳の折りに自ら出家し、美濃国塚尾の観音堂に参籠し、さらに同国武芸の山奥において念佛三昧、20余年の修行を積みました。その後、諸国行脚で各地を回って苦行修練を重ねた末、ついに佐渡ケ島の檀特山において生身の阿弥陀佛を拝し得ました。そして、そこで授かったのが他力念佛の深義と、帰命十方西清王法国光明満正弾誓阿弥陀佛という尊号です。 その後、上人は信濃国の唐沢山および相模国塔ノ峰において法益をすすめていましたが、ようやく時節が到来して、最後の修行の地、古知谷へ赴きました。 古知谷に入った上人は、山中深く分け入り、岩穴に住し念佛三昧の日々を送っておりましたが近江国伊香立村の人達との御縁で、この地に一寺を建立し、本尊佛としては、上人が求め続けた人間としての理想像を草刈り鎌にて刻み、自身の頭髪を植え、これを本尊として本堂に安置し、寺の名を「光明山 法国院 阿弥陀寺」と付けました。 弾誓上人は、この阿弥陀寺に在住して4年後の慶長18年(1613)5月23日正午、62歳で入定示寂なされました。 この弾誓上人におくれること100年、近江国平子山にあって念佛三昧を続けていた澄禅上人は、弾誓上人の行跡を慕って当山に入り、本坊から4町ほど上の岩穴にて常坐不臥称名念佛すること5年の後、享保6年(1721)2月4日に入定されました。 時に70歳。 ◆阿弥陀寺の四季 往時とは異なり、6町(約654m)下の若狭街道を終日自動車の往来が激しい今日ですが、しかし当寺領内は、開山上人が独坐幽棲の地として選ばれた当時の霊域の趣をそこなってはいません。 亭々とそびえる老樹が全山を覆っていますが、ことに当寺の紅葉は有名で、高尾、嵐山などと紅葉の名所は京都に多いのですが、ここ洛北に秋を告げてくれるのは、古知谷阿弥陀寺の紅葉の名木です。 参道南側にある天然記念物(樹齢800年)の老木を中心に、三百近いカエデが江戸時代から古知谷の秋を彩っています。 冬になると、葉の落ちた小枝に雪が降り積もり、その情景は別世界の趣がありますが、参拝するには少し厳しいものがあります。 春、4月下旬頃より芽を吹き出した新緑のすがすがしさを求めて、拝観の人達も少しずつ登ってこられますが、当寺の静寂さは失われることはありません。

八瀬天満宮

祭神として菅原道真(すがわらのみちざね)(八四五~九〇三)を祀る。 道真が亡くなった後、師である叡山(えいざん)法性坊阿闍(ほうしょうぼうあじゃ)梨(り)尊(そん)意(い)(八六六~九四〇)の勧請(かんじょう)により建立されたと伝えられ、社殿の背面扉の内側には、十一面観音絵像が祀られている。 十一面観音は道真の本地仏(仏としての姿)である。 道真が若い時、自己研鑽のため比叡山へ通う折り、此の地で休息したといわれ、江戸時代まで「矢(や)背(せ)天神宮」とも呼ばれたこの辺りの風情は、壬申(じんしん)の乱(六七二)の際,此の地で矢傷を癒した天武(てんむ)天皇以来の歴史を偲ぶことができる。 天満宮社には九つの摂社が祀られ、本殿南側の秋元(あきもと)神社は、宝(ほう)永(えい)七年(一七一〇)比叡山との境界論争勃発の際、八瀬村の利権(租税の免除)を認めた裁決の報恩として、時の幕府老中で,この訴訟の担当者であった秋元(あきもと)但馬(たじまの)守(かみ)喬(たか)知(とも)を祀り、以来毎年「赦免(しゃめん)地踊(ちおど)り」が奉納されている。 また裏山中腹には、足利(あしかが)尊(たか)氏(うじ)に追われ比叡山へ逃れた後(ご)醍醐(だいご)天皇の行(あん)在所(ざいしょ)(天皇が外出した時の仮の御所)があった「御所谷」、境内には、「後醍醐天皇御旧跡」、「復租紀恩碑」、「皇后陛下御歌碑」、「弁慶背比べ石」、「菅公腰掛け石」等の史蹟がある。 天満宮社の例祭は五月五日。 秋元神社の例祭「赦免地踊り」(八瀬郷土文化保存会執行)は十月体育の日の前日夜に実施される

仏国寺

天王山と号し、黄檗宗万福寺に属する。 延宝6年(1678)高泉性とん(こうせんしょうとん)和尚がもとこの場所にあった永光寺を復興して仏国寺と名づけたのがはじまりである。 高泉和尚は中国福清の人で寛文元年(1661)隠元禅師の招きで来日し万福寺5世となり、元禄8年(1695)に歿した。 後水尾上皇より「大円覚」の宸筆勅額を賜わり、往時に講堂を完備していたが、明治維新の後、荒廃し、現在本堂と庫裏をとどめるのみである。 本堂には釈迦三尊と毘沙門天を安置する。 境内には、開山高泉碑(重要文化財)があり、正徳元年(1711)鋳造した中国風の銅碑として有名で、高泉和尚の教えをうけた近衛家熈(いえひろ)の撰文である。 また、乞食の郡に交わって有名な桃水和尚らが、江戸初期の代表的茶人、作庭家で伏見奉行でもあった小堀遠州(遠江守政一)の墓などがある。