日野誕生院

本願寺第20代広如宗主の文政11年(1828)9月、宗祖親鸞聖人のご誕生の地を顕彰して、ここに一つの堂宇が建てられた。 これが日野誕生院のはじまりである。 当初、この堂宇を有範堂または宝物堂とも呼ばれたが、第21代明如宗主は、明治11年(1878)この堂宇を日野別堂と改名し、いっそう顕彰に努められた。 さらに大正12年(1923)に立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機として堂宇の一大改造が計画され、第23代勝如宗主の昭和3年(1928)5月に着工、昭和6年3月に別堂が完成し、5月に落慶の法要が営まれた。 このとき日野誕生院と改称され現在にいたっている。 宗祖のご誕生を記念する堂宇であるため、その建築様式は平安時代初期の手法によっており、従来の真宗寺院の形態とは大きく趣を異にし、調度仏具類もみな時代相応の古風によっている。 別堂向かって右側に聖人童形像・歌碑があり、境内地にはうぶ湯の井戸、えな塚がある。 ◆由緒 本願寺第20代広如宗主の文政11年(1828)9月、宗祖親鸞聖人のご誕生の地を顕彰して、ここに一つの堂宇が建てられた。これが日野誕生院のはじまりである。 当初は、宗祖の父君・日野有範卿にちなんで、堂宇を有範堂または宝物堂とも呼ばれたが、その前の本如宗主は、宗祖の顕彰に熱意を示し、学僧にこの地を調査させたり、日野家の菩提寺・法界寺と交渉を持つなどさまざまに尽力されたことがあり、これが次代に実を結んだのである。文久2年(1862)には、その護持のため京都の同行の間に日野誕生講が結ばれた。 その後、第21代明如宗主は、明治11年(1878)この堂宇を日野別堂と改名し、いっそう顕彰に努められたが、さらに大正12年(1923)に立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機として堂宇の一大改造が計画され、第23代勝如宗主の昭和3年(1928)5月に着工、昭和6年3月に別堂が完成し、5月に落慶の法要が営まれた。このとき日野誕生院と改称され現在にいたっている。 宗祖のご誕生を記念する堂宇であるため、その建築様式は平安時代初期の手法によっており、従来の真宗寺院の形態とは大きく趣を異にしている。本堂前庭には三方に回廊をめぐらし、中央に金灯籠をすえ、七間ある本堂前面の中央三間は巻戸、両脇は蔀戸としている。内部には、本尊阿弥陀如来を黒塗の厨子に安置し、右脇壇には宗祖の御影、左脇壇に勝如上人(前門様)の御影。左余間には、父君有範卿の木像を安置している。内陣は折上組入天井で、外陣に相当する両側は襖で区切られ香房の用をなしている。また厨子その他の調度仏具類もみな時代相応の古風によっている。

與杼神社

豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、高皇産霊神(たかみおすびのかみ)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀り、古くは、淀姫(よどひめ)社、又は水垂(みずたれ)社とも呼ばれていた。 社伝によれば、応和年間(961~64)、僧千観内供(せんかんないぐ)が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まると伝えられている。 当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)に淀川改修工事のためここに移された。 境内には、本殿、拝殿、神輿庫(みこしぐら)をはじめ、日大臣(ひだいじん)社、長姫(ながひめ)社、川上社、豊丸社などの各社殿が建てられている。 中でも拝殿は、慶長12年(1607)に建造されたもので、国の重要文化財に指定されている。 毎年11月に行われる例祭は、「淀祭」と呼ばれ、多くの人々で賑う。

宝塔寺

深草山(じんそうざん)と号し、日蓮宗に属する。 寺伝によれば、藤原基経(もとつね)が発願し、昌泰2年(899)藤原時平(ときひら)が大成した極楽寺(ごくらくじ)が起りと伝え、当初真言宗系の寺であったが、徳治2年(1307)住持良桂(りょうけい)が日蓮の法孫日像(にちぞう)に帰依して、日蓮宗に改められた。 また、日像が京都に通じる七つの街道の入口に建てた法華題目の石塔婆の一つを、当寺の日像廟所に奉祀したことに因み、寺名を寶塔寺と改称した。 本堂は、慶長13年(1608)の創建で、堂内には、十界曼荼羅・釈迦如来立像及び日蓮・日像の像を安置している。 行基葺(ぎょうきぶき)の多宝塔は永享11年(1439)以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(しきゃくもん)(総門)とともに、国の重要文化財に指定されている。 本堂背後の七面山(しちめんさん)には、寛文6年(1666)に勧請された七福吉祥の七面大明神(しちめんだいみょうじん)を祀る七面宮があり、そこからの眺めも素晴らしい。

安楽寿院

真言宗の寺 保延三年(一一三七)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。 開基は鳥羽上皇、覺法法親王を同志に落慶した。保延五年(一一三九)本御堂(ほんみどう)と呼ばれる三重塔が建立され、続いて九躰阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。 保元元年(一一五六)鳥羽法皇(上皇)が本御塔に葬られた。 鳥羽天皇安楽嘉院陵はそのあとである。 保元二年(一一五七)、皇后美福門院は新御塔を建立、ここは後に近衛天皇の遺骨が納められた。 近衛天皇安楽嘉院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長十一年(一六〇六)豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたものである。 現在の安楽嘉院は真言宗智山派に属し、本阿弥陀如来座像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念寺仏と伝えられ、胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。 境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊石仏、鎌倉時代の石造五輪塔(重要文化財)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像(いずれも鎌倉時代、重要文化財等)を所蔵する。 なお、当院は鳥羽伏見の戦いのおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところである。

乃木神社

当神社は、明治天皇に殉死した陸軍大将乃木希典(まれすけ)(1849~1912)を祀り、伏見桃山御陵のそばの当地に大正5年(1916)有志の人々によって創建された。 うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり 表門は四脚入母屋造(いりもやづくり)、門扉は樹齢3000年の紅檜一幹で、巾6尺3寸余(約1.9メートル)の一枚板である。 境内には、日露戦争のときに第三軍司令部に用いたという中国風の民家、乃木将軍の遺墨、遺品、ゆかりの人々の品などを陳列した宝物館、そして、長府(山口県)にある将軍の生家を模した建物がある。 ◆由緒 大正元年九月十三日、明治天皇の崩御に殉じて乃木将軍御夫妻が自刃された。その誠烈に感激して乃木邸へ来観する人々は日を追って数を増した。そこで当時の東京市長阪谷芳郎男爵等が旧邸を保存し且つ御夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠となさんことを期し、中央乃木会を発足、明治神宮の御鎮座に続いて(大正十二年十一月一日)乃木神社御鎮座祭を執行する。昭和二十年五月二十五日、空襲により本殿以下社殿が焼失したが、全国崇敬者の熱誠により、昭和三十七年九月十三日復興した。 ◆御神徳 乃木将軍の御高徳を一語にして表すならば、忠誠に尽きる。また、明治という光輝ある時代の象徴として御祭神は祀られている。幾世代と時代が変遷しようとも、乃木将軍の自らに対し、そして国に対し誠を以て生涯を貫かれた御事蹟は、稍もすれば忘れがちな、「日本」は我々一人一人の精神の中にあるのだ、という御神訓として生きつづけるであろう。 また、乃木将軍は文武両道の神である。武に於いては一振り振り下ろせば全てを打ち払う王者の剣であり、文に於いては学習院院長時代の御事蹟が示すように教行両全の真の学問の神であらせられる。