京都
辨財天 長建寺
東光山と号し、真言宗醍醐派に属する。 八臂弁才天(鎌倉時代後期作)を本尊とし、一般に「島の弁天さん」の名で知られている。 元禄12年(1699)、伏見奉行建部内匠頭政宇(たてべたくみのかみまさいえ)が、中書島を開拓するに当り、深草大亀谷即成就院(そくじょうじゅいん)の塔頭多聞院(たもんいん)を当地に移し、弁才天を祀ったのが当寺の起りで、寺名は、建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた。 弁才天は、音楽をもって衆生を救う神で、福徳・智恵・財宝をもたらす七福神の一つとして多くの人々の信仰を集めている。 当寺で毎年7月23日に行われる「弁天祭」は、かつては、淀川に御輿(みこし)や篝船(かがりぶね)がくり出す舟渡御が盛大に行われていたが、淀川の河流が変ったことなどにより、昭和26年を最後に途絶えている。 現在は、弁天祭と2月節分祭には、醍醐派修験道の最高の神髄として柴燈(さいとう)大護摩修行が行われている。 また、正月には、現世利益を授かるため多くの参拝者で賑う。 ◆閼伽水(あかすい) 長建寺の本尊は、財宝福徳・出世開運・息災延命・諸芸上達などの福益をもたらす。江戸時代には淀川を往来する廻船の守護神として信仰を集めました。 辧財天は河川が神格化したものといわれ、昔、インドでは水の神として尊崇されていました。 「閼伽水」とは仏に供える水のことをさし、当寺に湧く井戸は酒どころ伏見に湧き出る良質の地下水と同じ水脈です。辧財天に供えられるほか、庭の桜などの銘木を潤すこの水を寺では大切にしており、密教十二天のひとつで、水の神・水天尊も祀られています。
安養寺
円山(えんざん)と号し、時宗に属する。 延暦年間(782~806)最澄(伝教大師)が開創したと伝え、法然・親鸞両上人念仏発祥の地・吉水(よしみず)草庵として有名である。 のち、建久年間(1190~1199)に至って慈鎮(じちん)(慈円・関白九条兼実の弟)が中興し、安養寺と称した。 その後、次第に衰微したが、至徳年間(1384~1387)には国阿(こくあ)上人によって再興され、以後、時宗に改まった。 境内には、もと六阿弥坊があって、いずれも林泉の美と眺望に富む楼閣を構え、遊客に席を供して風流行楽の域となった。 しかし、明治維新の際に六坊は廃寺され、また火災にあうなど次第に衰微し、今は門内境内に阿弥陀堂・書院を、飛地の境内(ここから約50メートル南へ下る)には弁天堂、慈鎮和尚多宝塔を残すだけである。 弁天堂は、慈鎮が叡山から勧請(かんじょう)したものといい、技芸上達の祈願の信仰が厚い。 弁天堂の東北隅にある慈鎮和尚多宝塔は、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏が並座する鎌倉時代初期の逸品である。
清閑寺
新義(しんぎ)真言宗智積(ちしゃく)院の末寺で、延暦21年(802)紹継(しょうけい)法師によって創建され、はじめは天台宗延暦寺に属していたが、のち荒廃し、一条天皇の御代(986~1011)伊予守佐伯公行(いよのかみさえききんゆき)が再興して、長徳2年(996)勅願寺となった。 大治4年(1129)火災にかかり、再建後安元2年(1176)六條天皇を、養和元年(1181)高倉天皇をそれぞれ寺内に葬った。 応仁の乱で焼亡した後、慶長年間(1596~1614)紀州根来(ねごろ)寺の性盛(しょうせい)が復興した。 しかし、かつての法華三昧堂(ほっけざんまいどう)や宝塔などのならんだ偉観はなく、今はわずかに本尊十一面観音像を安置する本堂一宇があるのみである。 背後の山に六条・高倉天皇陵があり、その傍らに小督局(こごうのつぼね)墓という宝筐印塔(ほうきょういんとう)がある。 高倉天皇の寵姫小督局は、平清盛に追われて当寺に入って尼となり、養和元年(281)21歳で世を去った。 また境内にある郭公亭(かっこうてい)は安政5年(1858)清水寺成就院の日照上人が、西郷隆盛と密かに会合して、都落ちの計画をたてた有名な茶室である。
迎称寺
盛光院
悲田院
善能寺
光雲寺
霊芝山(れいしざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する。 南禅寺北ノ坊とも呼ばれる。 もと摂津(大阪府)にあったが、寛文年間(1661年頃)後水尾天皇及び中宮東福門院(徳川家康の孫娘和子)が南禅寺の英中禅師に深く帰依され、当寺をこの地に移して再興された。 本尊には、東福門院(とうふくもんいん)の釈迦如来と観音菩薩を賜って安置した。 歴代皇室の尊崇あつく、元久邇(くにの)宮家の菩提所となっている。 もと境内は広大であったが、火災に遭い、また明治の初めの変革により縮小された。 本堂には、本尊のほか左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者東福門院の坐像を安置する。 書院南の庭園は、昭和の初め造園家小川治兵衛が作庭した。 疏水の水を引き、背景の山を借景とした池泉廻遊式の名園となった。 朝鮮伝来の碼碯(めのう)の手洗鉢が庭の東北隅にあって有名である。 寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。