真言宗泉涌寺派の別格本山である。応安5年(1372)後光厳法皇が竹巌聖皐(ちくがんしょうこう)律師を招いて菩提所(ぼだいしょ)として建立されたのがこの寺のはじまり。 その後、歴代天皇の信仰があつく、たびたびこの寺に行幸されている。 特に後円融天皇(在位1371~82)は勅願として如法写経会をはじめられ、この法会は現在まで続いている。 寺は応仁の兵火によりいったん焼失したが、後柏原天皇より後土御門天皇使用の御殿の寄進をうけ、本堂として再建し、江戸時代には寺領も多く、来り学ぶ僧侶も多数にのぼり寺運はもっともさかんであった。 後光厳天皇をはじめ歴代天皇の尊牌をまつる霊明殿は明治初年に完成した。 宝物には、この寺の歴史にゆかりのふかい土佐光信筆の後円融天皇宸影(重要文化財)をはじめ歴代天皇の宸筆など文書、絵画多数を蔵している。 なお、裏山には、仁孝天皇二皇女、孝明天皇二皇女の陵墓が営まれている。 御寺泉涌寺本坊の南高所に位置する真言宗泉涌寺派別格本山雲龍院は、応安5年(1372)後光厳天皇の思召しによって、竹巌聖皐が聞いた寺で、皇子・後円融院はここに如法写経を興そうと寺領を寄せ、龍華殿を御建立した。また後小松、称光の両天皇もこの寺を崇敬され、四天皇崩御の後は後山に御分骨所が営まれ、北朝歴代の御尊牌が霊明殿に奉安されている。 徳川の初め中興の祖、如周宗師が雲龍、龍華両院を合併し、この事が後水尾天皇の叡聞に達し造営費御下賜の恩命に浴し写経の道場を現在の位置に再建される。寛永19年、後水尾天皇より写経会に要する仏具百余点の御寄付を賜りて立派に再興を遂げた。 以後、徳川の御代本願天皇の御国忌の折々に御下賜金を賜り、諸堂の修理を行い、この間鎮守堂、鐘楼等の建立がなされ東西に僧坊を設けて諸方より各宗の門徒集まり、研錆に励み多くの俊英を輩出した。 皇室との御縁故は天保14年以降、光格天皇の皇妃を始め、仁孝天皇両皇女、孝明天皇の両皇女を後山に葬り奉ってより再び深くなり玄関、方丈、勅使門を賜り次いで御尊牌を奉安する霊明殿は慶応2年に始まり、孝明天皇、明治天皇、英照皇太后の思し召しにより明治2年現存の様に再建された。 本堂龍華殿(重要文化財)安置の本尊・薬師三尊(薬師・日光・月光)や、また怒れる神の面影「走り大黒天」は極めて写実的な鎌倉時代の作である。
京都
大谷祖廟
辰巳大明神
光明院
東福寺塔頭。1391年(明徳2)金山明昶の開創。方丈前の庭園は波心の庭。 池泉式の枯山水で、州浜型の枯池に三尊石組を配し、背後にサツキやツツジを雲紋になぞらえて刈り込み、雲の上に茶亭蘿月(らげつ)庵があり、月が昇る姿を形どる。 入り口に雲嶺の庭がある。 ◆波心の庭 光明を放つ石組みと心和ます苔の美 明徳2(1391)年、金山明昶(きんざんみょうしょう)の創建による東福寺塔頭の塔頭。 別名「苔の虹寺」とも称され、とくに苔の美しい新緑や紅葉時には、ひそやかな禅寺も華やぎを増す。 方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和14年、東福寺方丈庭園と同時期に設計されたもので、三玲の初期の名作。方丈庭園とはうってかわって、平安式の洲浜型の枯池に多数の石組みを配している。寺号にちなんで光明をテーマに作庭されており、大海を表す白砂に構成された三ヵ所の三尊石組から仏の光のごとく斜線状に立石が並ぶ。 背後にはサツキやツツジの大刈り込みでダイナミックに雲紋をデザインし、その雲の上には茶亭「蘿月庵」が佇む。これは禅語の『雲ハ嶺上二生ズルコトナク、月ハ波心二落ツルコト有り』によるもので、昭和32年(寄付きは昭和38年)建築の蘿月庵は窓、壁、障子を含めて月を象徴し、「波心の庭」と命名された庭から眺めれば、東の空に月が昇る姿を楽しむという仕掛けになっている。 本堂には本尊である金造佛の釈迦牟尼佛が安置されています。 尚、庭園上の赤い建造物は本堂廊下より庭を見た時民家の見える事を防ぐ建物です。 中央の紅葉は先代の紅葉が枯れて今は二代目です。 石は滋賀県南郷の洗堰の物です。
清水寺 随求堂
美御前社
美御前という名の通り、美を象徴する神として祭られています。本社の祭神、素戔鳴尊が天照大神(あまてらすおおかみ)と誓約(うけい)をされたとき、素戔鳴尊のもっておられた十挙剣を振りすすいで生れた三柱の女神で、宗像三女神といい、清浄・潔白の証しとなった神々で、俗に弁天さんといわれるのもこの市杵島姫の神です。古くから祇園の芸妓さんをはじめ美しくなりたい願望の女性はもとより、美容理容・化粧品業者の崇敬を集めています。 人の美を現すものには、目に見える容姿をはじめ、言葉や立ち居振る舞いなど、様々なものがあります。これら美徳の根元は、清く美しい心にあるといえます。美御前社は特に美徳成就の祈願をするおやしろです。美の神の御神徳をお受け頂き、常に心身の清浄に心掛け、道の開運を祈願して下さい。
両足院
六道珍皇寺
大椿山と号し、臨済宗建仁寺派に属する。 当寺は、平安遷都以前、東山阿弥陀ヶ峰山麓一帯に居住した鳥部氏(とりべし)の氏寺(宝皇寺)が前身とも、空海の師、慶俊僧都が創建したものとも伝えられているが、正平年間(1346~70)に、建仁寺の僧、良聡によって再興され、現在に至っている。 薬師堂には、木造薬師如来座像(重要文化財)を安置し、閻魔(えんま)堂には、木造閻魔大王座像と小野篁(おののたかむら)の立像が祀られている。 また、当寺門前は、俗に「六道の辻(ろくどうのつじ)」と呼ばれ、毎年8月7日から10日までの4日間は、「六道詣り(ろくどうまいり)」といわれる精霊迎えのため、多くの参詣者で賑う。 「六道」とは、一切の衆生が生前の善悪の業因によって必ず往くとされる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6種の霊界のことで、参詣者は、この期間、先祖の精霊を迎えるため、高野槇を買い求め、鐘(迎え鐘(むかえがね))を撞き、本堂で経木に戒名を書いて水回向を行う。 なお、境内裏庭には、小野篁が冥土通いをしたといわれる井戸がある。 ◆お迎え鐘 この鐘楼にかかる鐘は、毎年の盂蘭盆会にあたり精霊をお迎えするために撞かれるが、古来よりこの鐘の音は、遠くは十萬億土の冥土まで響き渡り、亡者はそのひびきに応じてこの世に呼び寄せられると伝わることから「お迎え鐘」と呼ばれている。 「古事談」によれば、この鐘は当寺を開基した慶俊僧都が作らせたもので、あるとき僧都が唐国に赴くとき、この鐘を三年間、この鐘楼下の地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立った。 ところが、寺僧は待ちきれず、一年半ばかりたって掘り出して鐘を撞いたところ、遥か唐国に居る僧都に聞こえたという。僧都は、「あの鐘は、三年間地中に埋めておけば、その後は人の手を要せずして六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」と、大変残念がったという。 しかし、そんなはるか彼方の唐国にまでも響く鐘なら、おそらく冥土まで届くだろうと信じられ、このような「お迎えの鐘」になったと伝えられる。 かかる話は「今昔物語」巻三十一にも同工異曲(どうこういきょく)の物語で出ている。こうした由来の鐘であるから、お盆の時期にはこのお迎え鐘を撞く順番を待つ参詣人の列が八坂通りまで蜿蜒(えんえん)と続く。 そんな風景をみて昭和初期の歌人、川端茅舎は次のような俳句を詠んでいる。 金輪際 わりこむ婆や 迎え鐘 迎え鐘 ひくうしろより 出る手かな 毎年お盆の時期になると、このお迎え鐘は千年もの長きにわたり澄んだ音色を時空をこえて冥土まで響かせ、旅立たれた多くの精霊たちを晩夏の都に迎えている。そして、また来るお盆を迎えるまでは、この寺を訪れる多くの人たちの心の安らぎと幸せをもたらす「慈しみの鐘」として、その穏やかな音色は渇いた心をやさしく癒してくれる。 ◆冥土通いの井戸 当寺の本堂裏庭の北東角(格子窓より見て右手奥辺り)にある井戸は、平安時代の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥界の間を行き来するのに使ったところといわれている。 いい伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うために、この鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初と言われている。 また、「矢田地蔵縁起」にある大和の国(奈良県)金剛山寺(矢田寺)の漫慶上人が、篁を介しての閻魔大王の招きに応じて、衆生を救うための戒行である菩薩戒を授けに閻魔庁へ赴くいたのも当寺の井戸からとされるなど、珍皇寺の井戸と篁さらには冥界を結びつける不思議な伝説は数多くある。 このように当寺にある井戸は、篁が冥土通いのために往来したところとして知られるが、その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺の井戸であるとする説もある。 しかし、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれている。 これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野(あだしの)もまた当時の墓所であったことより、ここにもやはり六道の辻は存在していたとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が、冥府よりの帰路に出口としていた説もうなずけるところである。 尚、当寺の冥土通いの井戸の傍の少祠には、篁の念持仏であった竹林大明神が祀られている。
京都霊山護國神社
幕末の動乱期に活躍した維新の志士たちを奉祀すべく、明治元年に「霊山官祭招魂社」として全国で初めて創立された。 昭和14年京都霊山護国神社と改称。境内には坂本龍馬、中岡慎太郎、桂小五郎を始めとする墓石、慰霊碑の他、従軍記念公園「昭和の杜」がある。 近接の霊山歴史館では明治維新関連の資料文献を展示公開している。 ◆由緒 当神社は、幕末維新に殉じた志士と第二次世界大戦にいたる京都府出身の英霊7万3千3柱を奉祀する。幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山にそれぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で明治元年五月、太政官布告をもって我国初の官祭招魂社とすべきことがきめられた。この布告により各藩は社殿を建設し、同年七月には盛大な祭典が挙行された。ついで明治10年には皇室より巨費が下賜せられて神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬をあつめた。さらに昭和4年6月には今上陛下御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14年に護国神社を改称して現在に及んでいる。 霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允・平野国臣・宮部鼎蔵(みやべていぞう)をはじめ蛤御門の変・天誅組の義挙等に加わった志士の墓三百余基があり、1356柱が合祀されてあり、この地は明治維新をしのぶ大霊域・史跡である。
新那智山 観音寺 (今熊野観音寺)
泉涌(せんにゅう)寺の塔頭(たっちゅう)で、正しくは新那智山今熊野観音寺という。 西国33箇所観音霊場第15番目の札所になっている。 空海が自ら観音像を刻んで草堂に安置したのが当寺のはじめというが、斉衡(さいこう)年間(854~857)左大臣藤原緒嗣(おつぐ)が伽藍を造営したとも伝える。 文暦元年(1234)後堀河上皇を当寺に葬るなど、歴朝の崇敬を得て栄えた。 伽藍は応仁の兵火で焼失したが、その後、復興されて現在に至っている。本堂には空海作と伝える十一面観音像を安置する。 寺域は幽静で、郭公(かっこう)鳥の名所として名高く、本堂背後の墓地には慈円僧正・藤原忠通・同長家の墓と称せられる見事な石造宝塔3基がある。 ◆由緒 平安時代弘法大師が熊野権現より観音尊像を授(さづか)り嵯峨天皇の勅願により開運厄除の寺として開創された名刹です。 後白河法皇は本尊十一面観音を深く信仰され霊験によって持病の頭痛が平癒したので特に「新那智山・今熊野」称をこの寺におくられました。 それより頭の観音さんとして知られ病気封じ知恵授(さずか)り諸願成就の寺として広く信仰されています。