三玄院

天正17年(1589)浅野幸長・石田光成・森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園(しゅんおくそうえん)(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。 小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは、春屋に禅を学んだ人々である。 沢庵・千宗旦らも修行をし、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓がまつられている。 織部好みの三畳台目・八窓の茶室篁庵(こうあん)(江戸時代建築)があり、本堂ふすま絵の八方にらみの虎は、原在中の筆による。

妙覚寺

妙覚寺は北竜華具足山と号し、京都日蓮宗名刹三具山および京都十六本山の一つである。 開山は日像上人とされているが、実際には竜華院日実上人が創建した寺である。 はじめ四条大宮、のち二条衣棚(ころものだな)に移ったが、豊臣秀吉の京都都市整理によってこの地に移転した。 この大門は、当寺に残る記録によると、豊臣秀吉が天正18年(1590)に建てた聚楽第の裏門であったものを、寛文3年(1663)当地に移建したものとされているが、この記録よりも少し建築時代は古いという意見もある。 いずれにしても、安土桃山時代の建築であることは間違いなく、寺伝が正確とすれば西本願寺飛雲閣(ひうんかく)、大徳寺方丈、唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。 城門特有の両潜(りょうくぐり)扉がつけられ、また梁の上には伏兵のできるように空虚が造られてあり、建築史上興味ある建物である。

慈眼寺

当寺は、福聚山(ふくじゅざん)と号する曹洞宗の寺である。 天正16年(1588)鷹司信房(たかつかさのぶふさ)の北の方(嶽星院(がくせいいん))が、父に当たる熊本城主、佐々陸奥守成政(さつさむつのかみなりまさ)の菩提を弔うため、信秀(信長の父)の伯父に当たる大雲永瑞(えいずい)を請して建立された。 当初、西陣の地に建てられたが、後、寺町丸太町に移され、次いで寛文3年(1663)この地に再建された。 成政は、安土桃山時代の武将で、織田信長に仕え戦功をたてたが、信長歿後の天正15年(1587)、肥後国(熊本県)の検地に際し、住民の反乱を招いた責任を問われ、豊臣秀吉より切腹に処せられた。 境内墓地には、江戸末期の南画家、山本梅逸(ばいいつ)の墓がある。 また、梅逸筆「名花十友図」・「雲龍」、孫億筆「牡丹小禽図」(京都国立博物館寄託)、載文進筆「双鹿図」、曽我蛇足(雪舟の弟子)筆「山水図」等の絵画や、鷹司家愛用の煙草盆等を有する。

岩上神社

伝えによれば,二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷(うつ)され、更に中和門院(ちゅうわもんいん)(後(ご)陽(よう)成(ぜい)天皇の女御の一人で後(ご)水尾(みずのお)天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたという。 吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。 子供に化けたという伝説に因んで「禿童(かむろ)石(いし)」と呼ばれたこともあったという。 持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院(れんじょういん)という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったという。 その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。 以降、授乳、子育ての信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれている。寺は享保(きょうほう)十五年(一七三〇)の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、天明八年(一七八八)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。 明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋(ちきりや)が敷地内に祠(ほこら)を構え、以降「岩上神社(岩上(いわがみ)祠(し))」となって今に至る。 数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。

報恩寺(鳴虎)

前身は定かではないが、室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。 天正年間(1573~92)現在地に移った。 豊臣秀吉が寺宝の虎の図を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。 「鳴虎図」に四明陶いつの署名があり、宋か明の時代に中国で描かれたと推定される。 門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。重文の梵鐘は平安時代末期の作で撞かずの鐘という。 客殿に黒田長政が死去した部屋があり、長政の位牌と、その父・官兵衛(如水)の位牌が安置されている。 観世流家元歴代や、志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。

浄光寺

当寺、浄土宗浄光寺の境内墓地に、江戸時代文人画の大家池大雅の墓がある。墓は碑面に「故東山画隠大雅池君墓」と二行に記し、側面に淡海竺常(たんかいじくじょう)の撰文になる銘文を刻んでいる。 大雅は享保8年(1723)京都の生まれ。姓は池野氏、名は無名、大雅、玉海などと号した。 若くより絵を志し、柳里恭(りゅうりきょう)や祇園南海に学んだほか、中国の画論や画譜を通じて独学で南画を研究した。 また禅を修行し、日本全国を旅行した。こうして生まれつきの超俗的な性格と相まって、むぞうさな画法で人物や風景を詩的に表現する独自の文人画を大成した。 代表作に黄檗(おうばく)山万福寺の約30面のふすま画などがある。 30才の頃、祇園町の娘、町と結婚し洛東真葛ヶ原に草庵を建てて住んだ。 妻町も玉瀾(ぎょくらん)と号する画家として有名。夫妻とも、数々の奇行が伝えられている。 安永5年(1776)大雅は54才で歿し遺言により当寺に葬られた。