上賀茂神社の境外末社で、瀬織津姫神を祭神とする。明神川沿いに佇む小祠で、樹齢500年といわれる古木の下に祀られている。
京都
浄土院(湯沢山 茶くれん寺)
慈雲院
玄武神社
祭神として、文徳天皇の皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を祀り、別名惟喬社(これたかのやしろ)とも呼ばれている。 社名の玄武とは、青竜、白虎、朱雀とともに王城を守る四神のひとつで、当社が平安京の北にあることから北面の守護神としてこのように名付けられたものである。 当社の起りは、親王の外祖父にあたる紀名虎(きのなとら)が所蔵していた親王寵愛の剣を、元慶年間(877~85)に、当時この地に住んでいた星野茂光が祀ったと伝えられている。 当社では、毎年4月の第二日曜日に、やすらい花が行なわれる。 この民俗芸能は、桜や椿で飾られた風流傘を中心に、鉦、太鼓、笛等で囃しながら、鬼や小鬼が町を踊り歩くもので、平安時代の疫神送りの花鎮めに由来し、芸能の変遷過程を示すものとして貴重なものである。
雨宝院
北向山雨宝院と号する高野山真言宗の寺である。 もとは、大聖歓喜寺(だいしょうかんきじ)と呼ばれ、千本五辻(せんぼんいつつじ)にあったが、応仁の兵乱(1467)により堂宇は荒廃し、天正年間(1573~92)に当地に再興されたものといわれている。 本堂に安置する本尊聖天(歓喜天)像は、像頭人身六臂(ぴ)の等身像で、嵯峨天皇の御病平癒祈願に一刀三礼して造られたものと伝えられている。 観音堂に安置する千手観音立像は、藤原初期の重要な作風を示す優品であり、重要文化財に指定されている。 また、胎蔵界(たいぞうかい)を表わすあせかき弘法大師像も有名である。 境内東南にある手洗井戸は「染殿井(そめどのい)」といい、この水を染物に用いるとよく染まるといわれ、夏の旱魃(かんばつ)時でも涸(か)れることがないという。 本堂前の桜は「歓喜桜」といい、御室の八重桜と同種のもので、根元から八重の花が咲く。その隣にある松は「時雨(しぐれ)の松」といい、久邇宮(くにのみや)朝彦親王が当院参詣の折、にわか雨をこの松の下でしのがれたと伝えられている。 ◆由緒 北向山(ほっこうさん)雨宝院と号する古義真言宗の寺で、「西陣の聖天さん」として親しまれている。 本堂に安置する本尊「聖天(しょうてん)(大聖(だいしょう)歓喜天(かんきてん))像」は、821年、弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の御悩平癒(へいゆ)を祈願して安置したものとされ、それが当寺の始まりと伝えられる。 観音堂に安置する千手観音立像は、重要文化財に指定されており、また、大師堂の本尊は汗をかくほど辛いことでも助けてくれるという「阿吽(あうん)あせかき弘法大師像」として知られている。 境内東南には、その水を染物に用いるとよく染まるとして有名な「染殿の井(そめどのい)」があり、夏の旱魃(かんばつ)時でも涸(か)れることがない。また、本堂前の「歓喜桜(かんきざくら)」は、御室の八重桜と同種のもので、根元から八重の花を咲かせる。その隣にある「時雨(しぐれ)の松」は、久邇宮朝彦(くにのみやともひこ)親王が当院参詣の折、その下でにわか雨をしのがれたと伝えられている。 ◆染殿井 この井戸は「染殿井」(そめどのい)と呼ばれています。 染色に適した軟水で、西陣の染色業者達が「染物がよく染まる」と重宝したといわれています。 本隆寺の千代の井、首途八幡宮の桜井、個人宅にある安居井、鹿子井とともに「西陣五水」にも数えられています。染色には大量の水が必要ですので、狭い区域にこうして井戸が沢山ある事も西陣が染め物で栄えた理由のひとつだったのかもしれません。 ちなみに京都御所内にも清和天皇の母君が住まわれた「染殿」にちなむ「染殿井」という同じ名前の井戸があります。
本隆寺
当寺は、慧光無量山本妙興隆寺(略して本隆寺)と称し、日蓮門下京都十六本山の一で、法華宗真門流の総本山である。 開山は中山大納言親通卿の子、日真で、後柏原帝より大和尚の称号を下賜された。 長享2年(1488)堂宇を四条大宮に創立したが、四代日映のとき、天文法乱のため諸堂焼失、1542年、杉若若狭守旧地の現在地に建立した。 十代日遵の時、京都御所の炎上により類焼、明暦3年(1657)名匠坂上作左衛門が再建、以来享保15年(1730)、天明8年(1788)の二度に京都大火は、西陣一帯を焼野原としたが、当寺は、奉祀している鬼子母神の霊験によって焼失をまぬがれ、「不焼寺」として有名である。 境内3300坪に西陣五井の一の名井「千代乃井」及び七代目脩に由来する「夜泣止松」がある。 本堂、祖師堂、客殿、三光殿、鐘楼、経蔵、宝蔵、南門、塔頭八ヶ院等の諸堂を有し、宝物には、日蓮上人真筆大曼陀羅、法華玄論、十六羅漢絵像、名器三管、法華経七万字版木等がある。
清和院
第五十六代清和天皇(在位八五八~八七六)ゆかりの寺で、真言宗智山派に属する。 平安初期にその後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸宅「染殿第」の南に仁寿年間既に創建されていた仏心院を基に、清和天皇譲位後の後院として清和院が設けられたのが始まりである。 清和院は代々皇子や親王が住し、また在原業平らの歌会の場ともなったが、徳治三年(一三〇八)に再建、仏寺化された。 今も京都御所の東北に「染殿第跡」や清和院御門が現存し、その名残をとどめている。 本尊は木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代・重文)で等身大・玉眼入り、極彩色の精緻を極めた見事な尊像である。 清和天皇が清和源氏の祖であったことから、室町将軍足利氏も深く帰依し、その保護を受けて栄えたが、寛文元年(一六六一)の御所炎上の際に清和院も類焼し、後水尾院と東副門院によって現在地に移転再興された。 また、一条鴨川西岸にあった河崎観音堂が消失後合併されたため、洛陽観音霊場の結願所でもある。
泉妙院(尾形光琳菩提所)
勝福寺(親鸞聖人旧蹟)
寺伝によれば,当寺はもと「清水(しみず)庵(あん)」、「一條坊(いちじょうぼう)」と呼ばれ、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(一一七三~一二六二)が一時期住居とした旧蹟である。 親鸞聖人は布教のため関東にて約二十年を過ごしたが、故郷の京都に戻ってきたのは、六十歳を過ぎた頃といわれる。帰洛後は主に「教(きょう)行(ぎょう)信証(しんしょう)」(親鸞の集大成的著作)の補筆完成に精進すると共に、都での教化活動にも力を注いだ。 帰洛後の住まいについては、洛中を転々としたが、嘉(か)禎(てい)二年(一二三六)に一条附近にあった清水庵に居住したという。 当寺に残る「御生(ごしょう)骨(こつ)縁起(えんぎ)」によると、この寺で教化している時、親鸞聖人の歯が抜け落ち、 「秋はつる 落葉は冬ぞ いざさらば 無量寿国の春ぞ なつかし」 と一首詠んだ。 四季の移ろいの中に自らの老いを重ねるというその歌に感動した、弟子の真仏房(しんぶつぼう)平(へい)太郎(たろう)は、聖人に対し、形見に歯を所望したところ、聖人はその願いを聴きいれ、自ら彫った木像を共に与えた。それが当寺の伝わる「落葉(おちば)の尊形(そんぎょう)(親鸞像)」であり、その由来である。 永(えい)正(しょう)十六年(一五一九)に本願寺第九世の実(じつ)如(にょ)上人は当時の一條坊善正(ぜんしょう)に対し、「当寺が親鸞聖人の重要な旧蹟であること、また落葉の尊形を子々孫々大事に保管せよ」と書状を与えている。