清浄華院 

浄華院ともいう。浄土宗四大本山の一つ。 法然上人二十五霊場の二十三番札所。貞観2年(860)清和天皇の勅願によって禁裏内道場として創建され、後白河法皇が受戒のとき本院を宿所としたことから浄土宗に転じたと伝えられる。 もと土御門内裏(つちみかどだいり)の付近(元浄花院(もとじょうかいん)町)にあったが、天正13年(1585)豊臣秀吉によってこの地に移された。その後も再三火災にあい現堂舎は明治44年の再建である。 本堂(御影堂)には本尊法然上人を安置する。不動堂には不動明王画像を安置するが、むかし、僧証空が師の臨終に際し身代りになろうとしたところ、日夜信仰する不動明王が証空の身代りになろうといわれて師の病難を救ったという霊験談があり、世に「身代り不動」と呼ばれて有名である。 その物語を記した「泣不動縁起(証空絵詞)」(重要文化財、室町初期)を寺宝として所蔵している。 なお河原町通にまで続く墓地には戦国時代以来の名士の墓が多い。

建勲神社

織田信長を祀る神社で、通称「けんくんじんじゃ」とも呼ばれる。 天下を統一した信長の偉勲を称え、明治2年(1869)明治天皇により創建された。 同8年(1875)別格官幣社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。 船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武に擬され、造営の基準点にされた所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅許を受け、主君である信長の廟所を定めている。 信長着用の紺糸威胴丸(こんいとおどしどうまる)、桶狭間の合戦の際の義元左文字の太刀、太田牛一自筆本の「信長公記(しんちょうこうき)」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。 10月19日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄11年(1568)初めて入洛した日を記念したものである。 ◆由緒 天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建。 1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀した。建勲の神号は明治天皇が下賜。明治8年別格官幣社指定。 なお船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点となり、また、平安時代は大宮人の清遊の地として名高い。 応仁の乱の際は西方の陣地となる。国の史跡で眺望絶景。 10月19日の大祭は「船岡祭」といい、祭神・織田信長が1568年(永禄11)、戦国の世を終わらすべく初めて入洛した日を記念した祭典。 神殿祭のあと信長公ゆかりの敦盛の舞舞楽奉納があり、年により信長公ゆかりの宝物などの公開や火縄銃の実射等の奉納がある。

龍源院

本院は大徳寺南派の本庵で、文亀2年(1502)大燈国師八世の法孫東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登(石川県)守護畠山義元が創建したものである。 方丈・唐門・表門はいずれも創建当初の建物で、大徳寺山内最古の建物であり、禅宗方丈の典型的な形式を示している。 本尊釈迦如来像は建長2年(1250)行心の作、以上いずれも重要文化財に指定されている。 そのほか、方丈襖絵に室町時代等春筆「列仙の図」がある。庭園は各様式からなり、特に方丈北庭は室町時代相阿弥(そあみ)作と伝えられる須弥山式(しゅみせんしき)枯山水の名園、方丈東庭は珍しい壺石庭(つぼせきてい)で有名。また、方丈前庭にはもと大宮御所にあった桃山型石燈籠があり、さらに聚楽第の礎石を配した阿・吽(あ・うん)の石庭等もある。 寺宝には、他に豊臣秀吉、徳川家康が対局した四方蒔絵の碁盤、天正11年(1583)在銘の種子島銃などがある。 龍源院の方丈北庭は青苔の中に点在する石組が印象的。方丈南庭は白砂と石組の枯山水。 方丈の東には、5個の石のみで構成された簡素な壷庭「東滴壷」。

常林寺

光明山摂取院常林寺と号する浄土宗の寺院である。 天正元年(1573)、念仏専修僧、魯道(ろどう)によって開創され、当初は、寺町荒神口(上京区)に建てられていた。 創建時より、知恩院とゆかりが深く、本末制度が確立したときには、総本山知恩院の役番としての地位を占めていた。 しかし、寛文11年(1671)には、寺町の大火により類焼し、堂宇を悉く焼失した。 その後、現在の地に移転し、元禄11年(1698)、英誉(えいよ)によって本堂が再建された。 また、幕末の頃当寺は、勝海舟が宿坊として利用していたといわれている。 本堂には、本尊の阿弥陀三尊像が安置され、地蔵堂には、古くから若狭街道を往来する人々の信仰を集めたといわれる世継子育(よつぎこそだて)地蔵尊が祀られている。 また、当寺は、通称、「萩(はぎ)の寺」の名で人々に親しまれており、初秋には、紅白の萩の花が、境内一面に咲き乱れる。 なお、毎年9月の敬老の日には、「萩供養(はぎくよう)」が催される。

地蔵院 (椿寺)

正しくは昆陽山地蔵院といい、浄土宗の寺である。神亀3年(726)に、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりという。 その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代初期に戦災で焼失したが、足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、天正17年(1589)に豊臣秀吉の命によって現在地に移った。 地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作の当初からのものと伝え、また、堂背後の板扉はもと北野神社にあった多宝塔の遺構とされる。 書院の前庭には、かつて、有名な「散り椿」(文禄の役(ぶんろくのえき)(秀吉の朝鮮侵略)の際に加藤清正が朝鮮蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰って秀吉に献上し、さらに北野大茶会のときに当寺に献木されたもの)があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢約百年の二世椿が花を咲かせている。 境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛(あまのやりへえ)の墓といわれるものや、与謝蕪村(よさのぶそん)の師にあたる夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓などもある。

正伝寺

鎌倉時代、東巌慧安禅師が一条今出川に仏殿を構え、1282年(弘安5)今の地に移った。 本堂(重文)は承応2年(1652)に伏見城御成御殿を移建。内部の襖絵は狩野山楽筆。 廊下に血天井がある。 小堀遠州の作と伝える庭園は、江戸初期の枯山水。臨済宗。 ◆由緒 洛北西賀茂の正伝寺は鎌倉時代我国に来朝された宋の兀菴普寧禅師の法をつがれた東巌慧安禅師が創立せられたのであリます。 弘安5年に加茂の祠官森経久が西加茂の地に荘園を寄附して諸堂伽藍を造営して壮観を極めたと伝えられています。 爾来皇室の御信仰厚く五穀豊穣国家安泰を祈願する道場とされ、今日まで法燈700年余の歴史が続けられております。 ◆方丈(重要文化財) 伏見桃山城にあった遺構で御成殿と称せられていました、承応2年当山に移建して本堂としたものであります。 ◆襖絵 狩野山楽筆(重要文化財) 方丈の襖絵は淡彩山水図で中国杭州西湖の真景であります。この障壁画は山楽の数少ない作品の内の傑作として美術史上特筆するもので、彼の格調高き風趣を偲ふに足るものがあります。 ◆血天井 桃山城遺構 方丈の広縁の天井は関ヶ原の戦の直前伏見城に立籠った徳川方の重鎮鳥居彦エ門元忠以下千二百余名がその落城の際割腹し果てた廊下の板を天井としたものであります。今尚板上に残るおびただしい血痕は当時の悲惨な武士道を物語っています。 景近血液学の権威として知られている古畑種基博士の研究によって、368年以前の人間の血液であると云い伝えているこの斑点より反応のある科学的証明をされました。今日菩提追善の念を新たにするものであります。 ◆獅子の児渡し庭園 小堀遠州 白砂敷平庭でつゝじの刈込によって七五三調を表現した枯山水ではるかに比叡の霊峰を取り入れた借景式の庭園で、その枯淡な風格は禅苑の心のしずけさを味わしめるものがあります。

本法寺

叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥(ほんあみ)清信が日親上人を開基に請(しょう)じて創建したのが当寺の起りという。 はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華(ほっけ)の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。 江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護をうけて繁栄し、中山法華経寺(千葉市中山にある日蓮宗総本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。 現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴(ともえ)の庭」は有名である。 このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。 寺宝には、銭舜挙(せんしゅんきょ)筆と伝える蓮花(れんげ)図、群介図・中文殊(もんじゅ)左右寒山拾得(かんざんじっとく)画像、長谷川等伯筆の仏涅槃(ねはん)図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目(だいもく)抄なお書二点の重要文化財を所蔵している。 ◆由緒 叡昌山と号し、日蓮宗本山の一つである。永享8年(1436)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが当寺の起りという。 はじめ四条高倉にあったが、天文5年(1536)法華の乱によって山徒に焼かれ、のちここに移った。江戸時代には後水尾天皇・紀州徳川家の保護を受けて繁栄し、中山法華経寺(千葉市中山にある日蓮宗本山)輪番にあたる上方三山の一つでもあった。 現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたものであるが、本阿弥光悦作庭の「巴の庭」は有名である。このほか当寺は本阿弥家の菩提寺であったことでも名高く、一門の墓もあり、本阿弥光悦は多くの書画・什器をよせている。 寺宝には、銭舜挙筆と伝える蓮花図、群介図・中文殊左右寒山拾得画像、長谷川等伯筆の仏大涅槃図など絵画十点と本阿弥光悦筆の法華題目抄など書二点の重要文化財を所蔵している。 ◆朝鮮通信使ゆかりの地 1592(文禄元)年から98(慶長三)年まで七年におよんだ文禄・慶長の役(韓国・朝鮮では壬辰倭乱(イムジンウェラン)、中国では万暦朝鮮役(ばんれきちょうせんえき)などとよぶ)は朝鮮半島の人々に甚大な犠牲を与えた。豊臣秀吉の死によって戦闘は終息したものの、その戦後処理は難航した。朝鮮側は新しく日本の政権を握った徳川家康の真意を確かめることが先決だと考えていた。そこで1604(慶長九)年に松雲大師惟政(ソウウンデサン・イジョン)という高い地位にあった僧侶をまず派遣することにした。松雲大師はこの戦中に僧兵を率いて日本軍と戦った人である。同年十二月末に対馬島主などと共に入洛した松雲大師は本法寺に滞在し、家康との会見を待った。その間、京都五山の著名な僧侶たちが本法寺に大師を訪れて詩文の交流をしたり、仏教や儒教の知識について筆談問答を重ねた。ある日本の僧侶は松雲大師を「博覧強記・筆跡もまた麗し」と評している。家康との会見は翌年三月初旬に伏見城で行われた。 この会見で家康は「我は朝鮮に讐怨(しゅうおん)なし。和を請う」と述べた。この報告を松雲大師から得た朝鮮朝廷は、「家康からの謝罪の意思を表わした国書の到来」などが国交回復の条件とした。これが届いたので、1607(慶長十二)年には朝鮮から戦後初めての使節団(回答兼刷還使(かいとうけんさっかんし))が来日することにつながった。

白雲神社(御所の弁天さん)

京都御苑内に鎮座。旧西園寺家の鎮守社で、祭神は市杵島姫命、妙音弁財天とも称し、音楽の神様としても信仰されている。 1224年(元仁1)、西園寺公経が北山殿(現在の金閣寺の地)造営の際に建立した妙音堂に由来するとされる。その後幾多の変転を経て、近古には赤八幡京極寺にもしばらく鎮座され、1769年(明和6)、西園寺邸の移転と共に現在地に移り再興、禁裏御祈祷所と定められ、また庶人の信仰も集めるようになった。明治になって西園寺家は東京へ移り、妙音堂は廃祀の危機に合うが地元有志の尽力により存続、1878年(明治11)、かつての鎮座地名をとり現社名に改められる。 礼拝は巳の日毎、午前7時より30分位の参拝式が行われ、お祓い、お清めが受けられます(参拝ご自由・無料) 例祭は毎年6月15日午後1時よりお火焚祭は11月10日午後2時より執行されます。

石像寺(釘抜地蔵)

正しくは家隆山光明遍照院(かりゅうざんこうみょうへんしょういん)石像寺と写し、俗に「釘抜地蔵」ともいう。 弘法大使の開基と伝え、もと真言宗であったが、重源(ちょうげん)上人が中興してから浄土宗となった。 むかし、歌人の藤原定家(ていか)、家隆(いえたか)が住んだところという。 地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩(ぼさつ)立像は弘法大使の作と伝え、もろもろの苦しみを抜き取るという親交から苦抜(くぬき)地蔵といい、それがなまって釘抜地蔵といわれる。本堂には行基(ぎょうき)の作と伝える観世音菩薩もあわせてまつっている。 地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(立像一、座像二、重要文化財)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は高さ約一、二メートル、元仁元年(1224)伊勢権守(いせごんのかみ)、佐伯朝臣為家(さえきあそんためいえ)によって彫られ、翌年、開眼(かいげん)供養した銘がある。 境内墓地には藤原定家、家隆の墓と伝えるものや、弘法大使三井(さんせい)の一つという加持水(かじすい)がある。