生駒・法隆寺
斑鳩神社
吉田寺
千古の歴史を秘めた日本上代文化発祥の地、斑鳩の里に吉田寺がある。世界文化遺産の法隆寺と万葉の古歌で有名な竜田川の中間にあり、竹薮や樹木の生い茂った森の中に、ひっそりとたたずんでいる。 創建は古く天智天皇の勅願と伝えられ、本堂西側に天皇の妹君・間人内親王を葬ると言われる清水の古墳がある。永延元年(987)に恵心僧都(源信)が開基した。通称「ぽっくり往生の寺」「ぽっくり寺」と呼ばれている。 ◆ぽっくり往生のいわれ 孝心の篤かった恵心僧都が、母の臨終の際に除魔の祈願をした浄衣を着せられた。すると母は苦しみも無く、安らかに称名念仏のなかに往生の素懐をとげられた。 その後、僧都は亡き母の三回忌追善と末世の衆生救済のため、清水の森に生えていた栗の霊木を伐り、一刀三礼、念仏のなかに作られたのが、本尊丈六阿弥陀如来である。 この由来により御本尊前で念仏を称え祈祷をうけると、長く病み患うことなく、腰・シモ・スソの世話になることなく、延年天寿を保ち最後臨終の時にも、痛み苦しみなく、安らかに、阿弥陀如来のお迎えが得られ、極楽往生をとげることができるという信仰が古くからある。 ◆本尊丈六阿弥陀如来(重要文化財) 「往生要集」で有名な恵心僧都が、境内の栗木より弥陀丈六の尊像を感得され、一刀三礼、念仏の中に造られた奈良県下最大の阿弥陀如来坐像。千体仏の光背をもち、上品上生印を結ぶ端正無比なる霊仏。「大和おおぼとけ」の別名もある。 ◆多宝塔(重要文化財) 奈良県下には類の少ない重文の多宝塔で、心中には「寛政四年六月十三日俗別当立野新賀大観進衆・・・」等の墨書があり、室町時代(1463)の創建。古式を明確に伝える方三間、二層高さ四十尺(約12メートル)の美しい塔である。 ◆本堂・泰安殿・鐘楼 もと本堂は七間四面だったが、現在は五間四面、入母屋向拝付きで、旭降和上が安政6年巳未3月(1859)に再建したものである。 昭和55年10月、現本堂の北がに、本尊丈六阿弥陀如来坐像(重文)を安置する防災施設を備えた泰安殿(収蔵庫)が完成した。 鐘楼は、智霊和上の建立で袴腰の姿の良い建物。安永3年甲午3月8日(1774)完成。梵鐘は戦時中供出し、現鐘楼は昭和49年9月新鋳したもの。
法輪寺
法輪寺は斑鳩の北方に位置し、土地の名によって三井寺とも呼ばれています。三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥より三つの井戸をこの地にお移しになったところからおこったと伝えられています。 法輪寺の創建は飛鳥時代に遡り、聖徳太子の御子山背大兄王が太子の病気平癒を願って、その子由義王とともに建立されたと伝え、また一説に、百済開法師、円明師、下氷新物三人合力して造寺したともいいます。 昭和25年(1950)の発掘調査では、当寺が法隆寺式伽藍配置であること、規模は法隆寺伽藍の三分の二であることなどが明らかになり、7世紀中には寺観が整っていたと考えられる。また平安仏を多く伝えることから、平安時代には寺盛なお盛んであったことがうかがえる。その後、しだいに衰退し、江戸時代初頭には、境内に三重塔を残すのみとなった。再興は享保年間に寳祐上人によってはじめられた。 まず三重塔が修理され、さらに講堂、金堂と順次再建され、長い年月をかけて現在にいたる伽藍が再興されていったと伝えられる。 ◆三重塔 斑鳩三塔の一つであった国宝三重塔は、昭和19年(1944)7月21日落雷で焼失した。全焼のため国宝指定は解除になったが、昭和50年(1975)独力でようやく再建できた。塔内には旧塔焼失時に取得できた仏舎利を心礎に釈迦如来坐像と四天王像(ともに平安時代)を初層に安置している。
法隆寺 聖霊院 三経院 西室 西円堂
法隆寺
法隆寺 夢殿
中宮寺
当寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現在の東方500メートル程の所に土壇として残って居ります。昭和38年の発掘調査により、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)と同系統のもので、法隆寺は僧寺、当等は尼寺として初めから計画されたと思われます。国宝菩薩半跏像(如意輸観世音菩薩)は其の金堂の本尊で、天寿国曼茶羅は、講堂の本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。 その後、平安時代には寺運衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して菩薩半蜘像のみ居ますと云った状態でありました。鎌倉時代に入って中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵内に発見して取り戻すなど、いくらかの復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りませんが、旧地よりその時代の古瓦が出土することから、その頃まで法燈が続いていたようであります。ところが、たびたび火災に遭い、法隆寺東院の山内子院に避難し、旧地への再建ならず、ここに後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡斑鳩御所として次第に寺観を整えたのが今の伽藍であります。 宗派は、鎌倉時代頃は法相宗、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。我国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の飛鳥時代このかた千三百余年の永きに亘り、尼寺の法燈を続けているのは実に当寺だけであります。 ◆中宮寺本堂 高松宮妃殿下の御発願により吉田五十八先生が設計され、昭和43年5月落慶の御堂であります。当寺は伏見宮様より女王様御二方と後西天皇内親王様御一方を始め、有栖川宮より皇女御三方が門跡として法燈をお守り戴いております。又高松宮は有栖川宮祭祀をお継承になり、殊に高松宮妃殿下の御母君は有栖川宮の最後の皇女であらせられます。このような高松宮と当寺との浅からぬ御因縁から高松宮妃殿下は、寺に万一の事があったらと御心痛遊ばされ、耐震耐火の御堂の建立を念願されこの本堂が出来たのであります。以前の本堂は西向きでしたが、上代寺院の規則に従い南面にし、而も本堂と鞘堂と池とを組み合わせ、門跡寺院らしい優雅さ、尼寺らしいつつましやかさに昭和の新味を兼ね備えた御堂になったのであります。桝組、募股等の組物を一切使わない簡素なつくりの中に、高い格調を狙ったことが特徴であり、又池の廻りに黄金色の八重一重の山吹を植え、周囲に四季折々の花木を配し、斑鳩の里にふさわしい女性の寺院としての雰囲気にして戴いております。 ◆本尊菩薩半跏像(如意輸観世音菩薩)(国宝) 東洋美術における「考える像」として有名な思惟半跏のこの像は、飛鳥彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上欠かすことの出来ない作品であります。国際美術史学者間では、この像のお顔の優しさを数少ない「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価し、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を左膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れる優美な造形は、人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に千三百余年の法燈を継ぐ当寺のこの像は、御本尊として永遠に吾等を見守って下さるでしょう。 ◆天寿国曼荼羅繍帳(国宝)※展示繍帳は複製です 聖徳太子は推古天皇即位30年(622)御年48で箆去遊ばしました。御妃橘大郎女はいたくお嘆きになり、太子様を御慕いのあまり、宮中の釆女たちに命じ、太子様が往生なさっている天寿国という理想浄土のありさまを刺繍せしめられたのが、この天寿国曼荼羅であります。もとは繍帷二帳より成り、そこに四百字の銘文が刺繍されていて、その全文は『上宮聖徳法王帝説』という書の銘文に残っております。それによりますと、画者は東漢末賢・高麗加世溢・漢奴加巳利、監督は椋部秦久麻でした。その後、年の経つにつれて破損し、法隆寺の宝蔵に秘せられますが、鎌倉時代の当寺、中興信如比丘尼が発見し、修復されて、別に一帳の模本の繍帳をも製作されました。現在の繍帳は、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本とが貼り合わされて、一帳にまとめられています。この中の赤衣の像が、当時の服制に照らして太子様ではないかといわれています。図中には亀甲型が四個残り、一個に四字ずつ「部間人公」「千時多至」「皇前日啓」「仏是真玩」の文字をあらわし、『上宮聖徳法王帝説」に伝える銘文に合致しております。