◆東大寺南大門(国宝)五間三戸二重門入母屋造、木造、本瓦葺、鎌倉時代 東大寺の正門で、東大寺伽藍の大半が治承4年(1180)の平重衝の兵火に罹って、焼失した。後に行われた復興造営の一つとして建てられた。 大勧進の職に就いて復興造営の総指揮を執った俊乗房重源上人が、宋朝建築の特色を採り入れて編み出した大仏様の建物で正治元年(1199)6月に上棟されており、その後数年を経ずして落成したと考えられる。 門内に安置されている木像金剛力士(仁王)像は運慶、快慶、定覚、湛慶等20名の慶派の仏師たちが建仁3年(1203)に僅か69日間で造り上げたものである。北向に安置されている一対の獅子像は鎌倉復興造営に参画した宋人の石工達が建久七年(1196)に作ったものである。
奈良市
新薬師寺
新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願の為、天平十九年(747)勅願により光明皇后によって建立され、新薬師寺の「新」は「あたらしい」ではなく「あらたかな」薬師寺という意味であります。 当時東大寺と共に南都十大寺の一つに数えられ、四町四方の境内に七堂伽藍甍をならべ住する僧一千人と記録にあります。 三十三年後の宝亀十一年西塔に落雷、瞬時にして炎上、現本堂のみが焼け残ったわけです。当寺所蔵の重宝は建築、彫刻、絵画、工芸など各部門にわたって居り、時代も奈良時代より江戸時代に及んでいます。 ◆由緒 新薬師寺は、天平19年(747)、聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって創建されました。 聖武天皇は、天平15年(743)、動物植物ことごとく栄える盧舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽宮で行基菩薩をはじめ多くの人々とともに大仏造立に着手されました。ところが、天平17年(745) に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中断して平城宮の真東の山麓(現在の東大寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調をくずされました。そこで天皇の病気を治すため、都とその近郊の名高い山、きよらかな場所で薬師悔過(やくしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来七躯を造立し、薬師経七巻を写経することが命じられました。 悔過とは過ちを悔いるという意味で、薬師悔過は、病苦を救う薬師如来の功徳を讃嘆し罪過を懺悔して、天下泰平万民快楽を祈る法要です。これは悪い事が起こるのは、貪(欲張り)、瞋(怒り)、癡(愚かさ)の三毒によって生じる罪業が、穢れとなって人々の心に蓄積されるからで、身を清め薬師如来の御前で罪を懺悔することによって、心の穢れを取り除いて悪いものを祓い、福を招くことができるという考えです。 平城京の東の春日山の香山堂でも、僧侶たちが精進潔斎してお籠りし、薬師悔過が勤修されたと考えられます。これをきっかけに、光明皇后によって春日山高円山の麓に新薬師寺(当初は香山薬師寺、香薬寺ともよばれた)が造営されました。天平勝寶3年(751)に、新薬師寺で聖武上皇のための続命法が行われ、天平勝寶4年(752)東大寺で大仏開眼供養法が営まれました。 新薬師寺の金堂には、七仏薬師(善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来)がまつられていました。金堂は平安時代応和2年(962)の大風により倒壊し現存しませんが、現在の本堂の西方約150メートルやや南寄りにあり、堂内に七仏薬師、脇侍の菩薩二軀ずつ、十二神将が並んだ東西に長いお堂(横幅約600メートル)だったことが、最近の発掘調査で確認されました。 その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園、東西の塔が存在したことが史料からわかります。 鎌倉時代までに、東門、南門、地蔵堂、鐘楼などが建てられ、本堂を中心とした現在の伽藍が整備され、修理を繰り返し今に至っています。 現在でも、毎年1月8日と4月8日には薬師悔過が行われます。 ◆本堂(国宝 奈良時代) 奈良時代の建物です。当初は本堂ではなく、修法を行うためのお堂だったと考えられます。本堂内には円形の土壇(高さ約90センチメートル、直径約9センチメートル)が築かれ、壇上に薬師如来坐像、十二神将立像が安置されています。柱は40本ありすべて円柱です。天井を張っていないので、内側から建物の骨組みをじかに見ることができます。 ◆薬師如来坐像(国宝) 新薬師寺の本尊です。 堂中央の円壇に、木彫の大きな薬師如来坐像が安置されています。 頭と胴体など体幹部分は一本のカヤの木から彫り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ木し、全体の木目を合わせ、一本の木から丸彫りした様に造られています。光背には宝相華樹が大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸び、鼻の上の六軀の小仏は本尊と併せて七仏薬師を示しています。薬師如来は東方浄瑠璃世界の仏さまです。菩薩として修業していたとき、体から光を出して世界を照らし出すこと、人々の不足を満たすこと、病気を癒すこと、正しい道に導くこと、災難を取り除くことなど、十二の願いことをたてました。右手は恐れを取り去る印相で、左手には薬壺を持っています。目は大きく開いています。穏やかで力強く、ふくよかな姿をされています。 ◆十二神将立像(国宝) 薬師如来を信仰する人を守る、夜叉(やしゃ インド神話で森林に住む精霊)の大将です。塑像は木の骨組みに縄を巻き付け、そこに藁を混ぜた粘土をつけて大まかな形を作り、紙の繊維と雲母をまぜた土で上塗りしたもので、眼球は紺、緑、褐色のガラスの吹き玉で表現されています。表面は、青、朱、緑、紫に繧繝彩色(うんげんさいしき 同系統の色ごとに濃淡をつけて立体感を生み出す彩色法)され、現在でも部分的に色が残っています。土壇の上で円陣に取り巻いてお薬師さまを護衛しています。 ◆地蔵堂(重要文化財) 本堂の前方むかって左側の、鎌倉時代の建物です。現在は十一面観音菩薩立像(鎌倉時代)、薬師如来立像(室町時代)、地蔵菩薩立像(南北朝時代)が安置されています。 ◆鐘楼(重要文化財) 南門を入って右側、袴腰(はかまごし 下層の末広がりの部分)が代漆喰塗りの建物です。 ◆梵鐘(重要文化財) 鐘楼の中にかかっています。現在は行事の時や除夜の鐘につきます。 ◆南門(重要文化財) 境内の正面にある、新薬師寺の表門です。鎌倉時代後期に建立されたと考えられています。 ◆東門(重要文化財) 南門より古く簡素な構造から、当初は四脚門ではなく二脚の棟門だったと推定されています。 ◆石仏 南門を入って左側に多くの石仏があります。小屋の中には地蔵菩薩三軀、阿弥陀如来一軀、薬師如来一軀、二面の阿弥陀名号石があります。一番小さな地蔵菩薩は、光背の上部に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の姿が刻まれ脇侍には冥界をつかさどる十王を配しています。
氷室神社
東大寺法華堂(三月堂)
秋篠寺
奈良時代末期宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により地を平城宮大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる。当寺造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とほゞ時を同じくしてその完成を見、爾来、殊に承和初年常暁律師により大元帥御修法の伝来されて以後、大元帥明王影現の霊地たる由緒を以って歴朝の尊願を重ね真言密教道場として隆盛を極めるも、保延元年(1135)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、そのおもかげは現今もなお林中に点在する数多の礎石及ぴ境内各処より出土する古瓦等に偲ぷ外なく、更に鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補、南大門の再興等室町桃山各時代に亘る復興造堂の甲斐も空しく、明治初年廃仏棄釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のまゝに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っている。 当寺草創に関しては一面、宝亀以前当時秋篠朝臣の所領であったと思われる当地に既に秋篠氏の氏寺として営まれていた一寺院があり、後に光仁天皇が善珠僧正を招じて勅願寺に変えられたと見る説もあり、詳しくは今後の研究を待つ外ないが、当寺の名称の起りを解明する一見解として留意すべきである。 なお宗派は当初の法相宗より平安時代以後真言宗に転じ、明治初年浄土宗に属するも、昭和二十四年以降単立宗教法人として既成の如何なる宗派宗旨にも偏することなく仏教二千五百年の伝統に立脚して新時代に在るべき人間の姿を築かんとするものである。 ◆本堂 当寺創建当初講堂として建立されたが金堂の焼失以後鎌倉時代に大修理を受け、以来本堂と呼ばれてきたもの。事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが様式的に奈良時代建築の伝統を生かし単純素朴の中にも均整と落ちつきを見せる純和様建築として注目される。桁行17.45米(五間)、梁間12.12米(四間)、軒高3.78米、軒出2.29米。 ◆愛染明王 寄木造坐像赤色、推定鎌倉時代末期。瑜祇経愛染王品の所説によって造顕され、一面真言宗の要典理趣経を具象化した明王とも考えられる。大愛欲大貪染三昧に住する尊で、人間の煩悩を以って菩提心たらしめる法力を加備したまうと説かれる。 ◆帝釈天(重要文化財) 普通梵天と一対を成し仏法の守護神として崇められるが、もとはインド教に於ける軍神で、古くより様々の形でインド神話に現われる大神。衣紋の彫の強さ、上半身に見える引き締った厳しさ等に鎌倉彫刻の特性が感じられる。 ◆不動明王 寄木造立像、極彩色、推定鎌倉時代末期。大日如来の使者として真言行者を守護し忿怒の御姿を以って悪魔煩悩を滅除したまうと説かれ、平安時代以降広く信仰される。 ◆薬師如来(薬師瑠璃光如来)(重要文化財) 寄木造坐像素色、推定鎌倉時代後期。当寺本尊。左手に薬壷を持し、右手は施無畏印を成して衆生の病苦を除き安楽をもたらす慈悲尊と説かれ我国仏教の初期より薬師信仰は極めて盛んである。御面相等に貞観風の厳しさも感じられるが技法上かなり後世の作と思われる面が多い。 ◆日光菩薩・月光菩薩(重要文化財) 共に一木造立像、平安時代初期、当初は極彩色であったと思われる。薬師如来本願経により、薬師如来の両脇侍として造顕され、如来の大陽の光の如く温かい慈悲と、月の光の如く清らかな知慧を表すべく夫々の御手に鏡を持して各日輪及び月輪を示すもので、上代の作例としては珍らしい像形である。 ◆十二神将 寄木造立像、極彩色、鎌倉時代末期。薬師如来の眷属として薬師如来の浄土、衆生を護る十二の夜叉。経典には更に各々七千の眷属を従えて護法の任に当ると説かれる。子・丑・寅等十二支の動物形を夫々冠に戴く表現は概して鎌倉時代以降のものに多く見られ、十二の時間及ぴ方位の呼称に結びついた後世の思想に基くものと考えられる。 ◆地蔵菩薩(重要文化財) 一木造立像、素色、平安時代中期。地蔵菩薩本願経によれば、釈尊入滅の後五十六億七千万年を経てこの世の一切衆生を済度するため弥勒菩薩が出現せられるまでの無仏五濁の世にあって、六道衆生に光明を授け衆中を巡導し救済したまう菩薩と説かれ、平安時代初期より盛んに信仰される。単純さの内にも優雅にして清楚の感深く典型的な藤原時代の作風を見せている。 ◆伎芸天(ぎげいてん)(重要文化財) 頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像。密教経典「摩醯首羅大自在天王神通化生伎芸天女念誦法」等によって造顕され経意によれば大自在天の髪際から化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主宰し諸技諸芸の祈願を納受したまうと説かれている。古くは各地に於ても信仰されたと思われるが現在では他に全くその遺例を兄ず我国唯一の伎芸天像である。前記帝釈天像及び梵天像(現在奈良国立博物館に出陳中)、救脱菩薩像(同)の三体と同様最初天平時代に造顕され、後災禍のため御胴体以下を破損し鎌倉時代に至って体部が木彫で補われたものと考えられ、これら四体の像はいづれも頭部のみ当初のままの乾漆造で体部は寄木造である。現在鬘部の宝冠及ぴ両肩より垂れる天衣の一部が欠失し単純な形であるが、時代を隔てゝなお保たれる調和と写実的作風は限り無い人間味を湛え古くより美術家文芸家等の間にも広く讃仰者を集めている。 ◆五大カ菩薩 五体共に寄木造、推定平安時代末期。極彩色。旧訳仁王経に於て、王者がこの菩薩を供養すれば国土安泰と説かれる。台座は本来の岩座を欠失し目下仮座である。 ◆別尊大元帥明王御縁起 大元帥明王(たいげんみょうおう)とは詳には大聖無辺自在元帥明王と称し、仁明天皇承和6年12月常寧殿にて勅修以来、宮中に於てのみ修せられるべく御治定の鎮護国家の大法大元帥御修法(たいげんのみしほ)の本尊として重んぜられ、何地に於ても勅許を得ざる修法は勿論、尊像の造顕奉置も禁ぜられ、その結果我国唯一の像として当寺に伝わるものであるが、その因縁には、かつて常暁律師当寺の閼伽井に於て水底に落る自らの影を眺めるうち更にその背後に長大なる忿怒の形影の重なるを観、甚だ奇特の思いを為してその形を図絵し此を身に帯び、後日渡海入唐の時、折あって此の尊法に遭うを得、先ず本尊を拝するところ正しく本国秋篠寺に化現の像と同じく、これを以って奇しくも明王常暁律師の求法に先立って当寺香水閣閼伽井に示現せられたると知るべきを示す伝説があり、更にその機縁の故に永く禁裏御香水所として明治四年まで例年1月7日の御修法に際し献泉の儀を務めたる歴史を有つ。 なお、阿?薄倶元帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌(唐善無畏訳)の本文を取抄すれば左の如くである。 我信じ我礼し我帰し奉る元帥大明王、此れは此れ大毘盧遮那の化、釈迦と諸仏の変、如来の肝心衆生の父母にして不動愛染等の諸々の威徳身、観音無尽意虚空蔵等の諸々の菩薩身、聖天十二天等諸々の功徳心等一切を摂して衆徳荘厳せり。或は金剛忿怒の相を現じ、或は菩薩大慈悲相を現じて類に随って擁護したまう。今願力の故に以って大元帥明王となし、諸尊の中、最尊最上第一の威徳身を顕現す。若し一切世間有情の類、宝呪を持し宝号を称せんに、内外諸障を除きて、必ず世間出世間の願にこたえん。菩提心を成ぜんと願じ、乃至金剛心無畏心に住せん等の出世間の大願を発せんに正法護持の故に悉く願成就せん。又衆生あって、正因縁に住し、災を息めんものは即ち願成就し、栄福を求めんものは即ち願成就し、勝利を為さんものは即ち願成就し、横病を離れんものは即ち願成就せん。明王の名を聞いて一度讃嘆せんものは、世間の宝果悉く円成す。かかるが故に一切世間悉く当に大元帥に皈依すべし。
東大寺戒壇堂
西大寺
創建は奈良時代の天平宝字8年(764)称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、7尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まります。 造営は翌年天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたと考えられていますが、創建当初の境域は東西11町、南北7町、面積31町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に110数宇の堂舎が甍を並べていました。 文字通り東の東大寺に対する、西の大寺にふさわしい官大寺でありました。 その後平安時代に再三の災害に遭い衰退しましたが、鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊上人がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした密・律兼修根本道場として伽藍を整備されました。現在の西大寺の伽藍は、ほぼこの頃の様子を伝えています。 ◆由緒 西大寺の創建は奈良時代の天平宝宇8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために、七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことに始まる。 造営は翌天平神護元年(765)からほぼ宝亀末年(780)頃まで続けられたが、当時の境域は東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)に及ぶ広大なもので、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院、十一面堂院など、実に百十数宇の堂舎が甍を並べていた。 文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺であった。しかし、その後、平安時代に再三の災害に遭い、さしもの大伽藍も昔日の面影をとどめずに衰退した。 しかし鎌倉時代も半ば頃になって、稀代の名僧興正菩薩叡尊(1201~1290)がこの寺に入って復興に当たり、創建当初とは面目を新たにした真言律宗の根本道場として伽藍を整備された。いまみる西大寺はほぼこの頃のプランを伝えている。 興正菩薩は鎌倉時代の南都四律匠の一人で当時おろそかになっていた戒律の教えを最も尊重し、かつ最も行動的に興した人である。したがって、その後、西大寺は室町時代の兵火などによって多くの堂塔を失ったけれども、興正菩薩以来の法燈は連綿として維持され、現在は真言律宗総本山として寺宝や宗教的によくその寺格と由緒をしのぶことができる。 ◆愛染明王坐像 わずか一尺ばかり(31.8cm)の小像であるが、愛染堂の秘仏本尊として大切に祀られているためか、衣紋の截金や深紅の彩色が鮮やかに残っている。 先年、像内からは木造六角幢形の容器に入った金銀製舎利容器や、この像の本軌である瑜伽瑜祇経(ゆがゆぎきょう)、造立願文(ぞうりゅうがんもん)などが発見された。 それらによると、この像は宝治元年(1247)に叡尊が願主となり、仏法興隆の念持仏として仏師善円が造ったものであることが分かった。 この愛染明王象は、寺伝によると弘安四年(1281)の元寇の役(13世紀後半に起こった蒙古襲来の事変)に際して叡尊が祈祷した愛染尊勝法の本尊であり、その祈願の最終日の夜には、明王が持つ鏑矢が妙音を発して西に飛び、敵を敗退させたという。 これにちなんで、近世(宝暦四年)にこの像が江戸回向院に出開帳された時、2代目団十郎が中村座で「矢の銀五郎」を上演し、また鳥居清信(江戸時代の浮世絵画家)が描いて奉納した絵馬が当寺に現存する。 ◆興正菩薩叡尊坐像 西僧房造営と同じ弘安3年(1280)8月26日に、弟子たちが仏師善春に造らせた師匠の肖像である。左手に払子をもち、衣の袖を左右に分けて、少しうつむきかげんに静かに坐る。像はきわめて写実のかった、まるで実在の人に接するような気魄に満ちたものである。 眉太く、鼻が大きく、口のひきしまった顔と、がっちりした頭の骨格からは、いかにも意思の強固な叡尊の偉大な人格を実感できる。わが国の肖像彫刻中、傑出したできばえを見せているが、また生前に造られた寿像として特異な地位を占めている。 先年、像内からおびただしい納入文書類が発見され、数千人におよぶ弟子僧俗の結縁によって、しかもそれぞれ文字通り一紙半銭の零細な喜捨が結集されて造られたものであることが明らかとなった。なお、仏師善春はさきの仏師法橋善慶の子息で、また善円・善慶の後継者として叡尊の知遇を受けた善派仏師である。
東大寺 二月堂修二会 (お水取り)
法華寺
法華寺は、聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創められた法華滅罪之寺であります。寺地は平城宮の東北に位し、藤原不比等公の邸宅だつたのを、皇后が先帝ならびに考妣のおんために改めて伽藍となし給うたもので、以来星霜千二百五十年、おん慈しみ深かつた皇后の御精神を伝え、道心堅固に護られてきた女人道場「法華寺御所」であります。従って草創以来朝野の尊崇を集め、天平勝宝元年には詔して墾田一千町歩を施入せられ、大同年中には駿河、美濃、上野、武蔵、越後、伯耆、出雲その他に寺封五百五十戸を持つなど、天平の大伽藍にふさわしく堂宇もまた金堂、講堂、東西両塔、阿弥陀浄土院と荘厳のかぎりをつくしていたのであります。 しかしながら時勢とともに寺運ようやく哀え、中世の記録はさだかではありませんが、叡尊興正菩薩の再興、さらには豊臣秀頼公の外護、徳川氏の寺領二百二十石寄進などあつたとは申せ、ついにほとんど旧来の寺観を失うて今日に及びました。寺史を繙いて感慨を禁じ得ぬもの、ひとり当寺を護るもののみではありますまい。ただ、そのなかにあって、今なお世の名宝と仰がれる本尊をはじめ幾多の文化財を遺してきたことは、お互いにありがたいことと申さねばなりません。 貞明皇后様におかせられましては、大正十二年には本尊御宝前に菊御紋章入り御燈籠一対を御献納遊ばされ、大正十五年五月には祈願佛を当寺へ御遷座遊ばされましたが、以来門主は日夜、御祈願申しあげています。 ◆今日の寺観 いにしえの平城京左京一条、いま奈良市法華寺町の一廓に築地をめぐらして南大門を開いています。境内史跡指定建築物はこの南大門と本堂、鐘楼の三棟で、いずれも桃山時代に再建された重要文化財であります。本堂は慶長六年(西暦1601)豊臣秀頼公が淀君とともに片桐且元を奉行として再建した四注造・本瓦葺・桁行七間梁間四間の、もとの講堂であったらしく、その旨は勾欄の擬宝珠や本尊須弥壇の銘文によって明らかであり、向拝の蟇股・手挾の豪華な絵様彫刻に、桃山建築の精粋をうかがうことができます。 先年この堂の解体修理が行われた際、天平創建当時の礎石や古い柱根を発掘し、声なくして寺史の悠遠なことを偲ばせました。この古い礎石は、鐘楼の地下からも発見されております。 鐘楼の東北、別の廓内にある「から風呂」は、本願光明皇后が千人の垢をお流しあそばしたという由縁を伝えるもので、現在の遺構は慶長年間に修理されたものです。もって皇后のお徳をお慕いすることができましょう。なお南の築地外にあった横笛堂は、現在境内に移されたが、中世の当寺への信仰を物語るものであります。滝口入道との恋に破れてこの寺に入り、髪をおろして仏道修行に明け暮れた雑司横笛が住まった古跡と伝えています。 本堂の北に続く本坊書院は京都御所のお庭を移築したと伝えられる庭園で、史跡名勝になっています。奈良では数少ない遺構の一つで、これは皇室との関係深い当寺の近世における貴重な史料なのであります。 ◆霊像名宝のかずかず 本堂内陣、桃山様式の代表的な須弥壇上に、当寺本尊十一面観音立像を仰ぎます。印度健陀羅国王がつねづね観音さまを信仰しておられまして、その像を王宮に安置するため、観音菩薩生身のお姿と申す光明皇后をうつしまいらせようと、同国第一等の彫刻家問答師をわが国に遣わせられ、皇后のお許しを乞うて三躰の観音像を刻みました。うち一躰をわが皇宮にのこして帰国したのが、この本尊さまだという伝承が「興福寺濫觴記」に書かれてあります。古くから本像を光明皇后のお姿として崇めているゆえんであります。 本像は唐の檀像様式を受けついだ素木の一木彫成で、蓮葉の珍しい光背をおうて、謹直のうちにもやや寛がれたまうおん立ち姿の、あでやかにも美わしい印象は、拝む人々の心に深くしみわたる思いがいたします。なお、本尊御閉扉中は、御分身像を拝観していただきます。この御分身像は昭和四十年にインド政府に依頼し、最上の香木の白橿の一木作で日本では只ひとつの観音菩薩像であります。 天平時代にしばしば用いられた維摩居士像は、木心乾漆の手法により造顕されたもので、居士の面目躍如とした上代肖像彫刻の逸品とされています。ほかに天平末期の木造梵天・帝釈天頭、藤原時代の木造漆箔仏頭をはじめ、多くの御仏たちも堂内におまつり申していますが、滝口入道との間に交わされた文がらをもって自作したという横笛の坐像もともに供養のため安置しております。仏の道にいそしんだ佳人の心境が、このささやかな像から聞かれるようであります。 なお当寺では光明皇后御草創以来、護摩供を念じ、その清浄灰土をもってお作り申している犬守りを伝え、今日でも一山尼衆がその奉仕を続けていますが、さきに本堂解体修理のみぎり、はからずも礎石下から古様の犬御守一体を発掘いたしました。伝統の尊さ、ありがたいことであります。 当寺には別にわが国仏画の最高峯としてかくれない名宝絹本着色阿弥陀三尊及童子像を蔵しておりますが、香ぐわしさのかぎりといわれる傑作でありますが、保存の関係上、毎年一回十月二十五日から十一月十日まで当寺慈光殿にて公開し、一般有縁の方々に拝観して頂いて居ります。 ◆華樂園 内東側に約1000坪の平地に、東屋・蓮池を擁し、100本の椿をはじめ、めずらしい法華寺蓮・にんじん木等約750種の花木・草花があり、1年を通し四季おりおりの花々が鑑賞出来るようになっている。 ◆浴室(国指定重要有形民俗文化財) 法華寺本願光明皇后様が薬草を煎じその蒸気で多くの難病者を救済されたところで、建物は室町時代後期に改築されたが、敷石の―部は天平時代のものが残されている。 ◆光月亭(県文化財指定) 奈良県月ケ瀬村の民家を昭和46年当地に移築したもの。構造・手法から18世紀の建設と推定される。居室の天井は根太天井であるが、土間部では丸竹天井となる等東山地方の民家の発展形態を示す貴重な遺構である。
般若寺
奈艮北山の名刹、般若寺は飛烏時代に高句麗僧慧灌法師によって開創され、そののち天平18年(746)に至り、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の定額寺に定められた。 また平安時代は寛平7年(895)の頃、観賢僧正が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたっていたという。ところが源平の争乱に際しては、治承4年(1180)平重衡の南都焼討にあい伽藍は全て灰儘に帰し、礎石のみが草むらに散在する非運に見舞われた。 しかし鎌倉時代に入って般若寺は不死鳥の如く再生する。荒廃の中からまず十三重大石塔が、名も無き民衆の信仰の結晶として再建され(建長五年頃)、続いて良恵上人が本願となって十方勧進し、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかられた。 さらに文永4年(1267)には叡尊上人発願の文殊菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、かつての大般若寺の偉容がみごとに復興したのである。それは同時に、境内の一隅に病舎を設けて孤独な病人を助けたり、布施行の大法要を営んで人生苦にうちひしがれた苦悩の衆生を済度するなど興法利生(正しい教えを興隆して社会に奉仕する)の寺をめざす復興でもあった。 その後、般若寺は室町戦国期の戦乱による衰微、江戸期の復興、明治の排仏と幾多の栄枯盛衰を経ながらも、常に自利利他(己れを高め他を助ける)の菩薩道精神を法灯にかかげ現代の復興を俟つに至っている。 ◆般若寺の御本尊 八字文殊師利菩薩騎獅像。頭髪は八髻。右手に剣、左手に般若経をのせた青蓮華をとる。獅子の背の蓮華座に坐す。瓔珞、腕釧の飾り。経蔵の秘仏本尊であった。 昭和31年の調査により、菩薩の膝前に胎内銘文が発見され、元亨4年(1324)3月7日、文観上人殊音が後醍醐天皇の御願成就のために造立したことが判明。信心施主は前伊勢守藤原兼光、大仏師法眼康俊、小仏師康成などの名が記されていた。後醍醐天皇のことは「金輪聖主」と書かれている。インド以来、理想の国王は武力ではなく仏法の力により世界を平和に統治すると考えられ「転輪聖王」と呼ばれた。また、転輪聖王の中で最も徳の高い国王は「金輪世界の聖王」と尊称される。仏教とくに真言密教を信仰された天皇は自らを大日如来の化身、「金剛薩埵」であると意識され、後に吉野山で御所を構えられた寺の名を「金輪王寺」と命名された。