奈良
不空院
春日山・不空院はその名が示す通り、春日山を背に不空羂索観音を本尊とする真言律宗の古刹でございます。奈良・高畑は春日大社の神職が住まい、多くの文化人に愛された地でもあります。 春日の杜から高円山へと続く門前の小道は、古き奈良の風情を残し、今日も古都を旅する人々が静かに往き交います。ここに足跡を残された弘法大師(空海)を偲ぶ土地の人たちの信仰により「福井之大師」(福井は 不空=福 に発する旧土地名)の別称で呼ばれ、「女人救済の寺」としも知られる所でございます。 「大乗院寺社雑事記」には、ここは鑑真和上の住居があった旧跡である上に、興福寺南円堂建立にあたっては弘法大師が入られ、南円堂の雛型として当山が建てられたと記されます。また境内に残る井上内親王の荒魂を祀った御霊塚は、高畑に内親王の邸があったからであろうなど、歴史上に残る由縁を今に伝えております。 南都(奈良)に戒律復興の機運が昂じた鎌倉時代には、不空院・円晴 西大寺・叡尊 唐招提寺・覚盛 西方院・有厳 の自誓受戒四律僧が、ここで戒律を講じ多くの衆生に戒を授けました。その頃には八角円堂を初め鎮守社や僧坊など複数の堂宇を有する寺観であったようです。特に弁財天女の信仰はさかんでした。 しかし後の戦乱で寺は衰退し、八角円堂以下の堂宇のほとんども、安政の大地震(1854)によって倒壊しました。再興果たせぬまま迎えた明治の神仏判然令(1868)、それに端を発する仏教排撃運動の昂りで、当山も無住職の荒廃した寺となりました。 再興を遂げたのは大正時代。橿原の久米寺より三谷弘厳和尚が当地に入られ、倒壊した八角円堂礎石の真上に現在の本堂を建立し寺域が整えられました。南市・元林院など奈良町の芸妓たちは、美と長寿・芸事精進の祈願に弁財天女を参り、不幸な身の上の女性が「縁切り・縁結び」の祠に手を合わせるなどの信仰を集めました。また妻からの離縁が難儀な時代でしたので、苦しむ女性が駆け込む「縁切り寺」の役も果たしてきました。昭和の初め、照葉という名の芸妓から出家し、嵯峨・祇王寺に入られる波乱の人生が有名な高岡智照尼が、悪縁を逃れて最初に駆け込んだのも当山でした。女人救済の寺として知られ、今日に至っております。 ◆不空羂索観音菩薩坐像(重要文化財) 「春日山」の山号が表すように、当山と春日大社には深い縁があります。当山本尊の不空羂索観音は春日第一神である武甕槌命変化のお姿であります。このために御前には鏡を配し白鹿が控えております。お身体に纏った衣が鹿皮であるところにも、春日大社を庇護した藤原氏との因縁が見て取れます。 当山本尊の坐像は東大寺・三月堂(法華堂)の立像 興福寺・南円堂の坐像とともに「三不空羂索観音」と称されております。 『不空羂索神呪心経』には「この観音様を念ずれば、人災天災の難を逃れ優れた利益を享受でき、臨終にあっては阿弥陀浄土へ往生する」と解かれています。 不空とは「空しからず」余すところなく人々に利益を施すという、この仏の本願の言葉です。羂索とは本来、鳥獣魚を捕る道具ですが、仏が手にすると人々を救済する象徴となります。 「一面三目八臂」お顔が一つ、眼が三つ、腕は八本のお姿で、額の第三の眼「仏眼」は一切を見通す悟りを開いた者の眼です。 正面の手は合掌し、他の四本に 羂索・払子・蓮華・錫杖 を持ち、外の二本は掌を空に向けて開いておられます。観音は悟りを求める修行の姿といわれますが、不空羂索観音は仏眼を持ち、手にする蓮華も開いております。今まさに悟りを開かれたお姿なのでしょう。 ◆宇賀弁財天女 室町時代に作られた本像は、元は当山の鎮守社・御祭神として人々に親しまれた弁財天女。現在は本堂の脇檀で厨子にお納めし、特別の折のみ扉が開かれる秘仏とされております。 豊穣福徳の宇賀神と、才智を掌る弁財天が、習合した日本独自の形である宇賀弁才天は、頭上に鳥居型宝冠と宇賀神「頭は老人で体は蛇」を乗せ、八臂(八本の腕)のそれぞれに武器と財宝の象徴を持つのが特徴です。弁財天信仰がさかんであった頃は、多くの人々が当山を参拝したので、「不空」転じて「福院」とも呼ばれたようです。女性の救済と庇護に力を尽くされる弁天様です。
福智院
福智院の寺院明細帳(明治3年・25年)には、 天平八年聖武天皇御建立、開祖玄昉。地蔵菩薩ヲ本尊ト成シ、国家鎮静ヲ祈リ清冷院ト号ス、後ニ福智院ト改称ス云々、宗祖西大寺開山興正 とあって、福智院は聖武天皇の御世に、僧玄昉が建立した清水寺の遺鉢を受けた寺として、受け継がれてきました。 本尊胎内に「建仁三年六月願文」と「建長六年供養」の二種の墨書があります。他の資料と考え合わせると、本尊は福智庄(現奈良市狭川町)において建仁3年(1203)に造立されたが、その後、まもなく興生菩薩叡尊上人に依って現在地に移され、建長6年(1254)福智院が創建されたと見ることが出来ます。 「清水寺」は現存せず遺跡も発見されておりませんが、「奈良坊目拙解」に、清水の三町は奈良清水寺の古跡で、後に福智院と称す。 天平年間、僧玄昉(~746) 行基、良弁等と共に岡寺の義淵に学び、726年入唐、735年に五千余巻の経典と仏像を持って帰朝)が、この清水の地に地蔵菩薩を本尊とした清水寺を創建、中世に廃壊し、建長六年、興福寺大乗院実信僧正が、福智院地蔵堂の造立供養をしたが、これは清水寺の再興であると述べています。 ◆地蔵菩薩さま(重要文化財) お地蔵さまは老若男女から、子供にいたるまで最も親しまれ、愛されている仏さまです。 この地蔵菩薩の信仰の源は、釈尊以前のインド神話の中に求められ、大地を神格化したもので、梵語ではキシチ=ギャルバと云います。 キシチは大地、ギャルバは胎、すなわち包蔵するの意味で、地蔵とは大地の如く万有の母体であり、全てのものを育成し、成就させる働きがあるという意味です。 地蔵尊は経典の中で説かれているように、釈尊の依頼を受け、無仏世界の六道という地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天上に亘っての、慈悲無類の菩薩さまです。 地蔵菩薩を信仰する、あらゆる人々の苦悩を削減してくださり、土地は豊かに、家宅は永安であり、願いは成就するなどの十種の利益と恵みを与えてくださいます。
浄教寺
率川神社
夫婦大国社(春日大社末社)
庚申堂
霊山寺
正暦寺
海龍王寺
飛鳥時代に毘沙門天を安置して建立された寺院を、天平3年(731)遣唐使として中国に渡っていた初代住持の玄昉が、一切経五千余巻と新しい仏法との両方を無事に我が国にもたらすことを願ったのと、平城宮の東北(鬼門)の方角を護るため光明皇后により海龍王寺としてあらためられました。 玄昉が帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際、乗船に収められていた海龍王経を一心に唱えたところ九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから遣唐使の航海安全祈願を営むようになり、現在も旅行や留学に赴かれる方々が参拝をされています。 また、写経も盛んに行われていたようで、光明皇后御筆とされる自在王菩薩経。般若心経の原本である弘法大師御筆とされる般若心経(隅寺心経)が伝えられています。 創建当時の建物は奈良時代の五重塔として唯一現存する五重小塔(国宝)と西金堂(重文)が残り、本堂(江戸時代・市文)には聖武天皇から賜った寺門勅額(重文)をはじめ、金泥のお姿に装身具と切金文様が美しい鎌倉時代に造立された十一面観音立像(重文)、文殊菩薩立像(重文)などが安置され、同時期に建立された経蔵(重文)とともに、趣き深いたたずまいを創り出しています。 ◆由緒 此の場所には、飛鳥時代より毘沙門天を祀った寺院が在り、藤原不比等が邸宅を造営した際にも取り壊されることなく屋敷の東北に取り込まれる形で存続していましたが、光明皇后の御願により天平三年(731)、新たに堂舎を建立して伽藍をあらためたことで、海龍王寺(隅寺)としての歴史を歩むこととなりました。 海龍王寺が建立されたのは、第八次遣唐使として唐に渡っていた玄昉が、一切経・五千余巻と一切経に基づく新しい仏法を無事に我が国にもたらすのを願ったことと、飛鳥時代から北の方角を護る毘沙門天が祀られていたところに海龍王寺を建立し毘沙門天を祀ることで、平城宮の東北(鬼門)を護るためでありました。 海龍王寺が建立されてから三年後の天平六年(734)十月、唐から帰国の途中、玄昉らが乗った四隻の船団は東シナ海で暴風雨に襲われ、玄昉が乗った船だけがかろうじて種子島に漂着することが出来、翌天平七年(735)三月、帰京を果たしました。 この時、玄昉が持ち帰った五千余巻の経典の中に、海龍王経(かいりゅうおうきょう)という経典が収められており、東シナ海の狂瀾怒涛に漂いながら一心に海龍王経を唱え、九死に一生を得て貴重な多数の経典をもたらした玄昉は、その功績により僧正に任ぜられると同時に海龍王寺初代住持にも任ぜられました。 海龍王経を唱え、九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから、玄昉が起居した海龍王寺において海龍王経を用い、遣唐使の渡海安全の祈願を営んだことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ勅額を賜りました。 この時期、海龍王寺では写経も盛んに行われていたようで、光明皇后が般若心経および自在王菩薩経を一千巻書写され、後の時代には弘法大師空海も自身の渡唐の安全祈願のために一千日間参籠して般若心経一千巻を書写されており、大師の遺巻とされる般若心経の写経(隅寺心経)が残されています。 その後の沿革は余り明らかではありませんが、鎌倉時代の嘉禎二年(1236)、西大寺を中興した興正菩薩叡尊が当寺に起居したことで叡尊との関係が深くなり、正応元年(1288)三月に殿堂坊舎を修造と経蔵の建立、七月には舎利塔を造顕しており、同時代に製作された仏像仏画も多く伝えられています。 これらのことから、真言律宗の筆頭格寺院となった海龍王寺が律法中興の道場として栄えていたことは、西金堂内の五重小塔を戒壇とした受戒の儀式の次第を詳細に記した指図からうかがい知ることができ、また、鎌倉幕府から関東御祈願三十四ヶ寺の一ヶ寺に選ばれ真言宗の特徴である加持や祈祷も盛んに行われていました。 鎌倉時代に隆盛を迎えましたが、京都で応仁の乱が起こると、大和に攻め込んできた軍勢により打ち壊しや略奪に遭い、また、慶長の地震が重なったことで壊滅的な打撃を受けました。江戸時代になると、徳川幕府より知行として百石を安堵されたことで伽藍の修復や維持・管理が行えるようになり、本堂の解体修理や仏画の修復がなされ、「御役所代行所」としての役割も果たしましたが、明治時代になると廃仏毀釈の嵐に呑み込まれ、東金堂や多数の什器を失い荒廃にまかされていましたが、昭和40年から42年にかけて西金堂と経蔵の解体修理が行われ、以降、境内の整備や修復が進められています。 ◆五重小塔(国宝 天平時代前期) 創建当時から西金堂内に安置され細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている 天平時代の建築技法を現在に伝え建築様式の発展をたどる上にも重要である事と建造物としての天平時代の五重塔はこれ一基しか現存していないのでこの点でもこの小塔の価値が高く国宝に指定されている 屋内で安置する事を目的とした為、近くから見た時の工芸的な性格を考え小塔の外部は細部にいたるまで忠実に作られている またこの事は寸法取りにもあらわれ上層部にいくにしたがって塔身が細くなっている事から上層部と下層部の均整を重視した寸法取りを行っている事がうかがい知れる