奈良
十輪院
優曇華や石龕きよく立つ佛 秋桜子 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置します。 奈良時代の僧で書道の大家、朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の開基といわれています。 本堂(国宝・鎌倉時代)は軒や床が低く、当時の住宅を偲ばせる建造物です。 十輪院の本堂の中には本尊である地蔵菩薩を中心にした石仏龕(せきぶつがん・重文・鎌倉時代)を祀ります。 そこには釈迦如来、弥勒菩薩の諸仏のほか、十王、仁王、四天王や北斗曼荼羅の諸尊などが刻まれ、非常に珍しい構成を見せています。 境内には、魚養塚、十三重石塔、興福寺曼陀羅石など多数の石仏が点在しています。 ◆由緒 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置し、静かな奈良町の中にあります。 寺伝によりますと、当山は元正天皇(715-724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれています。また、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の開基とも伝えられています。 沿革は明らかではありませんが、鎌倉時代「沙石集」(1283)には本尊石造地蔵菩薩を「霊験あらたなる地蔵」として取り上げられています。 室町時代には寺領三百石、境内1万坪の広さがあったようですが、兵乱等により、多くの寺宝が失われました。 その後江戸期には徳川幕府の庇護を受け、寺領も五拾石を賜り、諸堂の修理がなされまし た。 明治時代の廃仏毀釈でも大きな打撃を受けましたが、現在、当山の初期の様子を伝えるものとして、本尊の石仏籠、本堂、南門、十三重石塔、不動明王二童子立像、それに校倉造りの経蔵(国所有)などが残っています。 近年、昭和28年本堂の解体修理から、平成8年防災施設の完成により、諸堂宇が整備され、境内は寺観を整えることができました。 ◆本堂(国宝) 間口11.20m奥行8.47m高さ5.68m寄棟造瓦葺 後方の石仏龕を拝むための礼堂として建立されました。正面に一間通りの広縁を設け、垂木を用いず、厚板と特異な組物で軒を支えています。こじんまりした内部は一本の柱を外陣・内陣に使い分け、低い天井は簡素な棹縁天井となっています。蔀戸が用いられ、軒及び床を低くおさえ、屋根の反りを少なくするなど、当時の住宅をしのばせる要素が随所にみられます。蛙股や木鼻、正面の柱などは創建当時のものです。 ◆石仏龕(がん)(重要文化財) 間口2.68m奥行2.45m高さ2.42m花崗岩製 寺伝では、弘仁年間(810~823)に弘法大師が石造地蔵菩薩を造立された、とあります。龕中央の奥に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮き彫りで表わしています。そのほか、仁王、聖観音、不動明王、十王、四天王、五輪塔、あるいは観音・勢至菩薩の種子などが地蔵菩薩のまわりに巡らされ、極楽往生を願う地蔵世界を具現しています。龕前には死者の身骨や棺を安置するための引導石が置かれます。 また龕の上部、左右には北斗七星、九曜、十二宮、二十八宿の星座を梵字で陰刻し、天災消除、息災延命を願う現世利益の信仰も窺い知ることができます。引導石の左右には南都仏教に伝統的な「金光明最勝王経」「妙法蓮華経」の経幢が立てられています。この石仏龕は当時の南都仏教の教義を基盤に民間信仰の影響を受けて製作されたもので、非常にめずらしい構成を示しています。大陸的な印象を受ける技法で彫刻されていることも注目されます。
白毫寺
白毫寺は、奈良市東部の山並み、若草山・春日山に続き南に連なる高円山の西麓にある。高円と呼ばれたこの地に天智天皇の第七皇子、志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられが、当寺の草創については、他にも天智天皇の御願によるもの、勤操の岩淵寺の一院とするものなど諸説あり定かではない。「南都白毫寺一切経縁起」によれば、鎌倉中期に西大寺で真言律宗をおこし、多くの寺を復興し、またさまざまな社会事業に関わった興正菩薩叡尊が当寺を再興・整備したとされる。弘長元年(1261)、叡尊の弟子道照が宋より大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経転読の基を開いた。以来当寺は一切経寺と呼ばれ、現在も4月8日に一切経法要が営まれる。「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」の句が人々の口伝えに伝えられ、その法要の後、本当の春が奈良に訪れるとされた。明応6年(1497)、古市・筒井勢による戦乱で殆どの堂宇を焼かれるなど度重なる兵火・雷火で堂塔を失う憂き目を負っているが、江戸時代寛永年間に興福寺の学僧空慶上人が再興し、江戸幕府からご朱印寺として禄高五十石を扶持され繁栄した。なお白毫とは仏の眉間にあり光明を放つという白い毛のことであり、寺号はそれにちなむものと思われる。 現在、宝蔵に本尊阿弥陀如来坐像をはじめ閻魔大王坐像ほか重要文化財を、本堂(江戸時代)に勢至・観音菩薩像、聖徳太子二歳像他を安置する。また御影堂(江戸時代)には中興の祖空慶上人をおまつりしている。境内には不動、弥勒、地蔵などの石仏が点在し、西をのぞめば奈良市街を眼下に見渡せる。春には樹齢およそ400年の五色椿(県天然記念物)をはじめ数多くの椿が咲き、秋は参道を紅や白の萩の花が覆って、季節の風物を求めていにしえの人々が遊んだ往時をしのばせる。 ◆阿弥陀如来坐像(重文 平安時代~鎌倉時代)(像高138センチ) 定朝様式の阿弥陀像で当寺の御本尊。桧材の寄木造で漆箔を施す。伏し目のもの静かな温顔と、穏やかな肉取りの体部、浅い彫り口の衣文などをもち、やや力強さに欠けるが、いかにも品よく仕上げられている。 ◆地蔵菩薩立像(重文 鎌倉時代)(像高157センチ) 慈眼と温容に満ち、錫杖と宝珠をもって立つこの像は、当初の光背・台座まで完備する。桧材を用いた寄木造で、施された彩色は剥落も少く、切金もかなり残っている。鎌倉後期につくられた地蔵菩薩像の秀作である。 ◆伝・文殊菩薩坐像(重文 平安時代)(像高102センチ) 大きい宝髪、張りのある顔、肉取りの厚い体と膝ぐみをもち、平安初期彫刻の特質をよくそなえた菩薩像。桧の一材で頭.体部から脇にかかる天衣まで巧妙に彫刻している。もとの多宝塔の本尊で、この寺で最古の仏像。 ◆司命・司録像(重文 鎌倉時代)(像高132センチ) 閻魔王・太山王の春属。ともに虎の皮を敷いた椅子に腰をかける。司命は筆と木札をもち、上を見て口を固く閉じる。司録は書巻(欠失)を両手にもち、これを声高に読み上げるかのように口を大きく開く。両像とも寄木造で彩色と切金とが残っている。明応の火災には救出されたが、司録の首は後補されている。正元元年頃の康円一派の作としてその価値は高い。 ◆興正菩薩叡尊坐像(重文 鎌倉時代)(像高73.9センチ) 戒律復興や貧民救済に活躍した西大寺叡尊は、白毫寺の中興の祖でもある。寄木造彩色像で、眉の長い特徴ある風貌で端然と坐す姿は晩年の叡尊をみごとに捉えており、肖像彫刻の優品である。 ◆閻魔王坐像(重文 鎌倉時代)(像高118.5センチ) 元あった閻魔堂の本尊で、寄木造の彩色像。大きい冠と道服をつけ、笏を持って身構える。玉眼の目はことに鋭く、口をカッと開いて叱咤する。この迫真性に富んだ盆怒の形相は、礼拝者に畏怖の情を十分に与える。 ◆太山王坐像(重文 鎌倉時代)(像高129センチ) 閻魔王と一対の作だが、明応6年(1497)兵火に遇い頭・体部と膝ぐみの前面が大きく焼けこげた。翌七年の修理で現状にもどった。体内に造像当初の墨書があり、正元元年(1259)大仏師法眼康円の作とわかる貴重像である。
円成寺
東大寺戒壇堂
東大寺法華堂(三月堂)
秋篠寺
奈良時代末期宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により地を平城宮大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる。当寺造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とほゞ時を同じくしてその完成を見、爾来、殊に承和初年常暁律師により大元帥御修法の伝来されて以後、大元帥明王影現の霊地たる由緒を以って歴朝の尊願を重ね真言密教道場として隆盛を極めるも、保延元年(1135)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、そのおもかげは現今もなお林中に点在する数多の礎石及ぴ境内各処より出土する古瓦等に偲ぷ外なく、更に鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補、南大門の再興等室町桃山各時代に亘る復興造堂の甲斐も空しく、明治初年廃仏棄釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のまゝに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っている。 当寺草創に関しては一面、宝亀以前当時秋篠朝臣の所領であったと思われる当地に既に秋篠氏の氏寺として営まれていた一寺院があり、後に光仁天皇が善珠僧正を招じて勅願寺に変えられたと見る説もあり、詳しくは今後の研究を待つ外ないが、当寺の名称の起りを解明する一見解として留意すべきである。 なお宗派は当初の法相宗より平安時代以後真言宗に転じ、明治初年浄土宗に属するも、昭和二十四年以降単立宗教法人として既成の如何なる宗派宗旨にも偏することなく仏教二千五百年の伝統に立脚して新時代に在るべき人間の姿を築かんとするものである。 ◆本堂 当寺創建当初講堂として建立されたが金堂の焼失以後鎌倉時代に大修理を受け、以来本堂と呼ばれてきたもの。事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが様式的に奈良時代建築の伝統を生かし単純素朴の中にも均整と落ちつきを見せる純和様建築として注目される。桁行17.45米(五間)、梁間12.12米(四間)、軒高3.78米、軒出2.29米。 ◆愛染明王 寄木造坐像赤色、推定鎌倉時代末期。瑜祇経愛染王品の所説によって造顕され、一面真言宗の要典理趣経を具象化した明王とも考えられる。大愛欲大貪染三昧に住する尊で、人間の煩悩を以って菩提心たらしめる法力を加備したまうと説かれる。 ◆帝釈天(重要文化財) 普通梵天と一対を成し仏法の守護神として崇められるが、もとはインド教に於ける軍神で、古くより様々の形でインド神話に現われる大神。衣紋の彫の強さ、上半身に見える引き締った厳しさ等に鎌倉彫刻の特性が感じられる。 ◆不動明王 寄木造立像、極彩色、推定鎌倉時代末期。大日如来の使者として真言行者を守護し忿怒の御姿を以って悪魔煩悩を滅除したまうと説かれ、平安時代以降広く信仰される。 ◆薬師如来(薬師瑠璃光如来)(重要文化財) 寄木造坐像素色、推定鎌倉時代後期。当寺本尊。左手に薬壷を持し、右手は施無畏印を成して衆生の病苦を除き安楽をもたらす慈悲尊と説かれ我国仏教の初期より薬師信仰は極めて盛んである。御面相等に貞観風の厳しさも感じられるが技法上かなり後世の作と思われる面が多い。 ◆日光菩薩・月光菩薩(重要文化財) 共に一木造立像、平安時代初期、当初は極彩色であったと思われる。薬師如来本願経により、薬師如来の両脇侍として造顕され、如来の大陽の光の如く温かい慈悲と、月の光の如く清らかな知慧を表すべく夫々の御手に鏡を持して各日輪及び月輪を示すもので、上代の作例としては珍らしい像形である。 ◆十二神将 寄木造立像、極彩色、鎌倉時代末期。薬師如来の眷属として薬師如来の浄土、衆生を護る十二の夜叉。経典には更に各々七千の眷属を従えて護法の任に当ると説かれる。子・丑・寅等十二支の動物形を夫々冠に戴く表現は概して鎌倉時代以降のものに多く見られ、十二の時間及ぴ方位の呼称に結びついた後世の思想に基くものと考えられる。 ◆地蔵菩薩(重要文化財) 一木造立像、素色、平安時代中期。地蔵菩薩本願経によれば、釈尊入滅の後五十六億七千万年を経てこの世の一切衆生を済度するため弥勒菩薩が出現せられるまでの無仏五濁の世にあって、六道衆生に光明を授け衆中を巡導し救済したまう菩薩と説かれ、平安時代初期より盛んに信仰される。単純さの内にも優雅にして清楚の感深く典型的な藤原時代の作風を見せている。 ◆伎芸天(ぎげいてん)(重要文化財) 頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像。密教経典「摩醯首羅大自在天王神通化生伎芸天女念誦法」等によって造顕され経意によれば大自在天の髪際から化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主宰し諸技諸芸の祈願を納受したまうと説かれている。古くは各地に於ても信仰されたと思われるが現在では他に全くその遺例を兄ず我国唯一の伎芸天像である。前記帝釈天像及び梵天像(現在奈良国立博物館に出陳中)、救脱菩薩像(同)の三体と同様最初天平時代に造顕され、後災禍のため御胴体以下を破損し鎌倉時代に至って体部が木彫で補われたものと考えられ、これら四体の像はいづれも頭部のみ当初のままの乾漆造で体部は寄木造である。現在鬘部の宝冠及ぴ両肩より垂れる天衣の一部が欠失し単純な形であるが、時代を隔てゝなお保たれる調和と写実的作風は限り無い人間味を湛え古くより美術家文芸家等の間にも広く讃仰者を集めている。 ◆五大カ菩薩 五体共に寄木造、推定平安時代末期。極彩色。旧訳仁王経に於て、王者がこの菩薩を供養すれば国土安泰と説かれる。台座は本来の岩座を欠失し目下仮座である。 ◆別尊大元帥明王御縁起 大元帥明王(たいげんみょうおう)とは詳には大聖無辺自在元帥明王と称し、仁明天皇承和6年12月常寧殿にて勅修以来、宮中に於てのみ修せられるべく御治定の鎮護国家の大法大元帥御修法(たいげんのみしほ)の本尊として重んぜられ、何地に於ても勅許を得ざる修法は勿論、尊像の造顕奉置も禁ぜられ、その結果我国唯一の像として当寺に伝わるものであるが、その因縁には、かつて常暁律師当寺の閼伽井に於て水底に落る自らの影を眺めるうち更にその背後に長大なる忿怒の形影の重なるを観、甚だ奇特の思いを為してその形を図絵し此を身に帯び、後日渡海入唐の時、折あって此の尊法に遭うを得、先ず本尊を拝するところ正しく本国秋篠寺に化現の像と同じく、これを以って奇しくも明王常暁律師の求法に先立って当寺香水閣閼伽井に示現せられたると知るべきを示す伝説があり、更にその機縁の故に永く禁裏御香水所として明治四年まで例年1月7日の御修法に際し献泉の儀を務めたる歴史を有つ。 なお、阿?薄倶元帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌(唐善無畏訳)の本文を取抄すれば左の如くである。 我信じ我礼し我帰し奉る元帥大明王、此れは此れ大毘盧遮那の化、釈迦と諸仏の変、如来の肝心衆生の父母にして不動愛染等の諸々の威徳身、観音無尽意虚空蔵等の諸々の菩薩身、聖天十二天等諸々の功徳心等一切を摂して衆徳荘厳せり。或は金剛忿怒の相を現じ、或は菩薩大慈悲相を現じて類に随って擁護したまう。今願力の故に以って大元帥明王となし、諸尊の中、最尊最上第一の威徳身を顕現す。若し一切世間有情の類、宝呪を持し宝号を称せんに、内外諸障を除きて、必ず世間出世間の願にこたえん。菩提心を成ぜんと願じ、乃至金剛心無畏心に住せん等の出世間の大願を発せんに正法護持の故に悉く願成就せん。又衆生あって、正因縁に住し、災を息めんものは即ち願成就し、栄福を求めんものは即ち願成就し、勝利を為さんものは即ち願成就し、横病を離れんものは即ち願成就せん。明王の名を聞いて一度讃嘆せんものは、世間の宝果悉く円成す。かかるが故に一切世間悉く当に大元帥に皈依すべし。
新薬師寺
新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願の為、天平十九年(747)勅願により光明皇后によって建立され、新薬師寺の「新」は「あたらしい」ではなく「あらたかな」薬師寺という意味であります。 当時東大寺と共に南都十大寺の一つに数えられ、四町四方の境内に七堂伽藍甍をならべ住する僧一千人と記録にあります。 三十三年後の宝亀十一年西塔に落雷、瞬時にして炎上、現本堂のみが焼け残ったわけです。当寺所蔵の重宝は建築、彫刻、絵画、工芸など各部門にわたって居り、時代も奈良時代より江戸時代に及んでいます。 ◆由緒 新薬師寺は、天平19年(747)、聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって創建されました。 聖武天皇は、天平15年(743)、動物植物ことごとく栄える盧舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽宮で行基菩薩をはじめ多くの人々とともに大仏造立に着手されました。ところが、天平17年(745) に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中断して平城宮の真東の山麓(現在の東大寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調をくずされました。そこで天皇の病気を治すため、都とその近郊の名高い山、きよらかな場所で薬師悔過(やくしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来七躯を造立し、薬師経七巻を写経することが命じられました。 悔過とは過ちを悔いるという意味で、薬師悔過は、病苦を救う薬師如来の功徳を讃嘆し罪過を懺悔して、天下泰平万民快楽を祈る法要です。これは悪い事が起こるのは、貪(欲張り)、瞋(怒り)、癡(愚かさ)の三毒によって生じる罪業が、穢れとなって人々の心に蓄積されるからで、身を清め薬師如来の御前で罪を懺悔することによって、心の穢れを取り除いて悪いものを祓い、福を招くことができるという考えです。 平城京の東の春日山の香山堂でも、僧侶たちが精進潔斎してお籠りし、薬師悔過が勤修されたと考えられます。これをきっかけに、光明皇后によって春日山高円山の麓に新薬師寺(当初は香山薬師寺、香薬寺ともよばれた)が造営されました。天平勝寶3年(751)に、新薬師寺で聖武上皇のための続命法が行われ、天平勝寶4年(752)東大寺で大仏開眼供養法が営まれました。 新薬師寺の金堂には、七仏薬師(善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来)がまつられていました。金堂は平安時代応和2年(962)の大風により倒壊し現存しませんが、現在の本堂の西方約150メートルやや南寄りにあり、堂内に七仏薬師、脇侍の菩薩二軀ずつ、十二神将が並んだ東西に長いお堂(横幅約600メートル)だったことが、最近の発掘調査で確認されました。 その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園、東西の塔が存在したことが史料からわかります。 鎌倉時代までに、東門、南門、地蔵堂、鐘楼などが建てられ、本堂を中心とした現在の伽藍が整備され、修理を繰り返し今に至っています。 現在でも、毎年1月8日と4月8日には薬師悔過が行われます。 ◆本堂(国宝 奈良時代) 奈良時代の建物です。当初は本堂ではなく、修法を行うためのお堂だったと考えられます。本堂内には円形の土壇(高さ約90センチメートル、直径約9センチメートル)が築かれ、壇上に薬師如来坐像、十二神将立像が安置されています。柱は40本ありすべて円柱です。天井を張っていないので、内側から建物の骨組みをじかに見ることができます。 ◆薬師如来坐像(国宝) 新薬師寺の本尊です。 堂中央の円壇に、木彫の大きな薬師如来坐像が安置されています。 頭と胴体など体幹部分は一本のカヤの木から彫り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ木し、全体の木目を合わせ、一本の木から丸彫りした様に造られています。光背には宝相華樹が大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸び、鼻の上の六軀の小仏は本尊と併せて七仏薬師を示しています。薬師如来は東方浄瑠璃世界の仏さまです。菩薩として修業していたとき、体から光を出して世界を照らし出すこと、人々の不足を満たすこと、病気を癒すこと、正しい道に導くこと、災難を取り除くことなど、十二の願いことをたてました。右手は恐れを取り去る印相で、左手には薬壺を持っています。目は大きく開いています。穏やかで力強く、ふくよかな姿をされています。 ◆十二神将立像(国宝) 薬師如来を信仰する人を守る、夜叉(やしゃ インド神話で森林に住む精霊)の大将です。塑像は木の骨組みに縄を巻き付け、そこに藁を混ぜた粘土をつけて大まかな形を作り、紙の繊維と雲母をまぜた土で上塗りしたもので、眼球は紺、緑、褐色のガラスの吹き玉で表現されています。表面は、青、朱、緑、紫に繧繝彩色(うんげんさいしき 同系統の色ごとに濃淡をつけて立体感を生み出す彩色法)され、現在でも部分的に色が残っています。土壇の上で円陣に取り巻いてお薬師さまを護衛しています。 ◆地蔵堂(重要文化財) 本堂の前方むかって左側の、鎌倉時代の建物です。現在は十一面観音菩薩立像(鎌倉時代)、薬師如来立像(室町時代)、地蔵菩薩立像(南北朝時代)が安置されています。 ◆鐘楼(重要文化財) 南門を入って右側、袴腰(はかまごし 下層の末広がりの部分)が代漆喰塗りの建物です。 ◆梵鐘(重要文化財) 鐘楼の中にかかっています。現在は行事の時や除夜の鐘につきます。 ◆南門(重要文化財) 境内の正面にある、新薬師寺の表門です。鎌倉時代後期に建立されたと考えられています。 ◆東門(重要文化財) 南門より古く簡素な構造から、当初は四脚門ではなく二脚の棟門だったと推定されています。 ◆石仏 南門を入って左側に多くの石仏があります。小屋の中には地蔵菩薩三軀、阿弥陀如来一軀、薬師如来一軀、二面の阿弥陀名号石があります。一番小さな地蔵菩薩は、光背の上部に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の姿が刻まれ脇侍には冥界をつかさどる十王を配しています。