長谷寺 五重塔

当山は山号を豊山(ぶざん)と称え、寺号を長谷寺(はせでら)と申します。 「こもりくの泊瀬山」と万葉集にうたわれていますように、この地は昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬(はつせ)などと美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。 朱鳥(あかみどり)元年(686)道明上人は天武天皇のおんために銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置され、のち神亀四年(727)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩をおまつりになられました。 上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳であり、当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれであります。 現在長谷寺は真言宗豊山派の総本山として、また西国三十三観音霊場第八番札所として、全国の末寺三千余ケ寺、檀信徒はおよそ三百万人といわれ、四季を通じ「花の寺」として多くの人々の信仰をあつめています。

法起院

法起院は奈良県桜井市初瀬に所在する長谷寺の塔頭寺院である。宗派は真言宗豊山派。本尊は徳道上人。西国三十三所番外札所である。 御詠歌:極楽は よそにはあらじ わがこころ おなじ蓮の へだてやはある。 寺伝によれば奈良時代の天平7年(735年)に西国三十三所を創始したと伝えられている徳道がこの地で隠棲した事に始まるとされる。徳道は晩年、境内の松の木に登り法起菩薩となって遷化したと言われる。当院の名称はそれに由来する。境内には徳道の廟と伝えられる十三重石塔がある。 江戸時代前期の元禄8年(1695年)長谷寺化主の英岳僧正が寺院を再建し、長谷寺開山堂とした。

聖林寺

聖林寺(しょうりんじ)は奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は霊園山(りょうおんざん)、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされる。国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。 聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下ろす小高い位置にある。伝承では和銅5年(712年)に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。妙楽寺の後身である談山神社は当寺のはるか南方の山中に位置する。 聖林寺の近世までの歴史は不明の部分が多いが、江戸時代には性亮玄心(しょうりょうげんしん)が三輪山平等寺の遍照院を移して再興したという。 江戸中期には文春諦玄により現在の本尊・子安延命地蔵菩薩像が安置された。明治の神仏分離令の際に、三輪明神(大神神社)神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管された。

長谷寺 登廊

◆仁王門(重文) 長谷寺の総門で、額は後陽成天皇の御宸筆、楼上に十六羅漢、両脇に仁王像を安置。初めは平安時代、一条天皇の御代。幾度か火災にあい、現在のは明治十八年(1885)の再建。 ◆登廊(重文) 百八間、一二九九段、回廊形式の登廊。初めは後朱雀天皇の長暦三年(1039)春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒御礼に寄進したもの。現在の第一、第二登廊は明治二十二年(1889)の再建。長谷型灯籠が気品をそえています。

長谷山口神社

当神社鎮座地は字手力雄とい い、景勝の地で、隠口(こもりく)の泊瀬山 長谷山の鎮護の神として延喜式 神名帳に見え、六所山口社の一 社にあたる古社であって、ご祭 神は大山祇神、天手力雄神、相 殿に豊受姫神を祀っている。 当社の由緒は極めて深く、霊 験あらたかにして、あまねく人々 の安泰繁栄と五穀豊饒の守護神 として崇拝されている。 祭礼は、正月、八月三十一日