吉野水分神社

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、奈良県吉野郡吉野町子守地区(吉野山上千本)にある神社。式内社で、旧社格は村社。 葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた。また、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。宣長の両親の子守明神への祈願により本居宣長が授けられたといわれている。 2004年7月に、ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として登録された。 創建については不詳である。当社に関する最も古い記録は、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)4月29日条で、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述である。 当神社は、元来は吉野山の最奥部、吉野町、黒滝村、川上村の境に位置する青根ヶ峰に位置したとされる。青根ヶ峰は吉野川の支流である音無川が東へ、喜佐谷川が北へ、秋野川が西へ流れるなどの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい。大同元年(806年)ごろに現在地へ遷座した。延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。前防家が社家。 平安時代中期ごろから「子守明神」と呼ばれるようになった。豊臣秀吉もこの地を訪れ秀頼を授かったといわれる。現在の社殿は慶長10年(1605年)に秀頼によって創建されたものである。作事の奉行を務めたのは豊臣家臣で尼崎郡代の建部光重。 神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ(子守権現)、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社に列格した。

東大寺 二月堂修二会 (お水取り)

「お水取り」として知られている東大寺の修二会の本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきたが、今日では新暦の3月1日から14日までの2週間行われる。 二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰安、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事が主体である。 修二会と呼ばれるようになったのは平安時代で、奈良時代には十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)と呼ばれ、これが今も正式名称となっている。 関西では「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることが多い。

元興寺

「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが平安時代に焼失してしまいました。 本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も同じ止利仏師の作です。 現在、元興寺が「奈良町」の一角に存在しておりますが天平時代、奈良町は元興寺の境内という広大な寺域を持つ大寺院でした。 伽藍地は南北に細長く、南北四町、東西二町を擁しており、敷地面積は約九萬六千八百平方メートル(約29333坪)という巨大 寺院だったのです。なお、奈良町は歴史を刻んだ地名ですが通称で行政地名ではありません。 天平時代きっての学僧「智光」が住まいとしていた僧房の一室を、念仏道場として使い極楽坊と称されておりました。時の庶民にとって極楽とは未知への憧れであり庶民信仰を集めるには適したネーミングといえましょう。元興寺の一部だった僧房が極楽坊と変わりましたことは国家鎮護の官寺から庶民の信仰寺院へと変革したことであります。結果、極楽坊は元興寺から離脱して独立の別寺となっていきました。 元興寺は室町時代の土一揆で伽藍の殆どを失い、智光曼荼羅を祀る「元興寺極楽坊」、五重塔を祀る「元興寺観音堂」、「元興寺小塔院」の三寺院に分かれました。それと残念なことに当時、智光曼荼羅は別院で保管されていて建物とともに焼失いたしました。 元興寺極楽坊は江戸時代に西大寺の末寺・真言律宗のお寺となり、現在、国宝指定の本堂、禅室、五重小塔の建造物が存在いたします。 元興寺観音堂は東大寺の末寺で、宗派は当然華厳宗です。土一揆で焼失を免れた五重塔も江戸時代に焼失して塔跡となっております。 元興寺小塔院にいたっては見るも無残な姿です。奈良には文化財が多くて整備に手が回らないのでしょう。   元興寺極楽坊の門標には「元興寺極楽房僧坊」となっております。一方の塔跡のある寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。元興寺 極楽坊も昭和52年には元興寺と称することにされたらしいのですが通称元興寺極楽坊です。   「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよということでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから国家鎮護の寺院から庶民信仰の寺院へと刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。 鐘楼の鐘は金閣寺でお馴染みの足利義満によって京都の相国寺に持って行かれるという厳しい試練にも遭遇いたしました。 昔、南都七大寺では「東大寺」に続く大寺であったという元興寺の面影はなく苦難の歴史が想像されます。 明治、大正、昭和18年までは無住の寺となり、「お化け寺」と呼ばれるくらい荒廃しておりました。 元興寺は寂れるにしたがって寺域内に住宅が建ち並び宅地化が進みました。民家の中にひっそりと元興寺があります。気をつけていないと見過ごしそうです。 元興寺極楽坊をお参りした後、元興寺の境内だった古都の風情を今に伝える奈良町をぶらりと散策されれば古き良き奈良にタイムスリップすることが出来ます。

唐招提寺

静かな寺、澄みきった寺―それが唐招提寺である。堂々として雄偉な立たずまいながら、磨き上げられた神経の香ぐわしさがにじみ込んでいる。しかも天平から貞観時代へと、8~9世紀の日本文化が歩んでいった美術史の本街道に位いして、もろもろのすぐれた芸術品を遺し、さながら儼たる古典美の殿堂である はるかに滄波をしのいで「天平の要請」に応じた鑑真大和上の大きい足音を今も新しく聞くような古刹 奈良市五条町もとの平城右京五条二坊の地、律宗総本山古くは建初律寺ともいったけだし本邦最初の律院の謂である。 4940