Tag: 京都市下京区
松尾大社西七条御旅所
俊成社
繁昌神社
京都大神宮
新玉津島神社
冠者殿社
長香寺
明王院不動寺
平安京遷都の前103年(691年)、今から約1320年前創建の寺である。空海作「石像不動明王」が本尊である。 平安京造営時(794年)、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北に四つの磐座(石倉)を定めたが、明王院はその一つで、「南岩倉」と称したと伝えられている。 天暦年間(947~957年)の賀茂川氾濫による堂舎流没や、応仁の乱で荒廃し、石像も塵芥の中に埋もれてしまった。 天正年間(1573~1592年)豊臣秀吉は、聚楽第造営に際して苔むした本尊不動明王を得て霊験を感じ、旧知に堂舎を建立してこれを再び奉安したという。 太平洋戦争末期京都にも空襲が来ると言われて、本尊を本堂下の磐座に避難させた。それから約70年やっと元の厨子に安置し、2012年11月24・5日、牛若丸・弁慶の旧「五条大路」活性化の一環としてご開帳を盛大に執行した。
光縁寺
浄土宗の寺で、知恩院の末寺にあたる。創建は、慶長18年(1613)頃で、天明の大火により焼失した堂宇は再建されて現在に至っている。本堂には本尊として阿弥陀如来像をお祀りしている。 当寺の門前近くには、新撰組の馬小屋があり、毎日、門前を隊士たちが往来していた。 中には新撰組副隊長の山南敬介もいた。山門の瓦には、山南家と同じ家紋が目に入った。 当時の住職は22世の良誉上人であったが、年齢も山南と同じであった。 やがて2人の間には親交が生まれて、山南の紹介で屯所で切腹した隊士達や山南自身、またその後の多くの隊士が良誉上人に弔われ、埋葬されることになった。 ◆由緒 満月山普照院光縁寺と称し浄土宗の寺であり、知恩院の末寺である。 創建は慶長18年(1623)頃で、本堂や山門は天明の大火で焼失し、文政2年(1819)に本堂再建され山門は弘化3年(1846)に再建されて現在に至っている。 本堂には、中央に本尊阿弥陀如来を、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の三尊とその右脇に善導大師、法然上人を祀っている。 (善導大師とは、当代の中国浄土教の大成者で、法然上人が浄土宗を興すきっかけとなった「観無量寿経疏」を表した僧である) ◆浄土宗とは 法然上人が今から八百数十年前に開かれた宗派で、その教えは、阿弥陀仏の平等のお慈悲を信じ『南無阿弥陀仏』と御名を称えて、明るく、正しく、仲良く、安らかな毎日を過ごせるように勤め、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることを願う信仰です。 お経は、お釈迦様がお説きになった「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の浄土三部経をよりどころとしています。 法然上人が歩んだ平安末期から鎌倉時代は、貴族の世の中から武士が台頭する変革期にあって、保元の乱、平治の乱が起こり、調停支配の院生は幕を閉じ、武家政治が成立した。 この平安から鎌倉の時代背景下、度重なる政争及び天変地異によって苦しみ傷つけられた人々を救済するため、当時の一般庶民には門戸を閉ざしていた既成仏教を乗り越えて、法然上人は専修念仏の教えを確立し、浄土宗を広めていった。 法然上人の教えは、絶望するしかない人々に光明をもたらした。貴賤の別・男女の別・罪の重い軽いなく、誰でもが念仏をとなえれば、そのままで浄土に往生できると、そう説いた宗教者はいまだかつていなかった。それはそれまでの価値判断の百八十度の転換であった。 難しいもの、高価なものが素晴らしいという人間の目から見た価値判断を、すべての人々が救われることこそが素晴らしいという仏様の目から見た価値判断への転換であった。 難行・苦行などを必要としたそれまでの仏教では、その救済からはずされていた凡夫が、法然上人によってはじめて救済の中心に置かれました。 ◆南無阿弥陀仏とは 「ナムアミダブツ」という梵語(古代インドの文語サンスクリット)を漢字で音写したもので、意味は次の通りです。 「ナム」とは「どうかよろしくお願い申し上げます」という意味。阿弥陀仏に対して帰依と信頼の心をもって唱える。「ミダ」は「量る」という意味で、これに接頭語の「ア」がつくと意味が反対になって「はかり知れない」という意味になる。「ブツ」は仏陀で、悟りを開いた人。 以上のことから「南無阿弥陀仏」とは、「はかり知れない偉大な力を持った阿弥陀仏さま、どうか私を極楽浄土にお導き下さい」とお願いする言葉であるとともに、はかり知れない命・光の中に生かされていることに感謝する言葉です。 ◆新選組と当寺の関係 当寺の門前近くには、新撰組の馬小屋があり、毎日、門前を隊士たちが往来し、その中には新撰組副隊長の山南敬介もいた。山門を見上げれば、瓦に「丸に右離れ三つ葉立葵」の山南家と同じ家紋が目に入った。当時の住職は二十二世 良誉上人で年齢も山南と同じであった。この時代、筵に巻かれた死体が、よく当寺門前に放置されていたという。それは葬式をだせない困窮した人達が、この寺の住職がそのような死人であっても分け隔てなく弔っていたのを知っていたのである。 この住職良誉上人と山南敬介との間に親交が生まれたのは当然の成り行きかもしれない。その山南の紹介で、屯所で切腹した隊士達、三人目には山南自身、その後多くの隊士達関係者が良誉上人に弔われ、埋葬されることになった。 また、当寺には、幕末に平安四名家と呼ばれた京都円山派の絵師 中島来章及びその子 有章の墓がある。来章は、京都御所や二条城本丸等に襖絵を残し、有章は、孝明天皇が将軍家茂や慶喜等文武百官を従えての上賀茂神社・下賀茂神社への行幸を描いた屏風図を残している。