浄教寺

浄土宗。山号多聞山。 堂号燈籠堂。承安年間(1171~75)平重盛が東山小松谷の邸内に築いた燈籠堂が前身で、四十八間の精舎を建て、各柱間毎に一体ずつ計48体の阿弥陀仏を安置し、48個の燈籠を掲げ、燈籠堂と称されたのが始まり。 荒廃していた堂を立誉上人が東洞院高辻(当時の五条)に移し、浄教寺を開山(1449年/宝徳元年)。 この際「浄教寺」の名を花園天皇より賜った。 1591年(天正19)現在地に移転。本堂に本尊阿弥陀如来、重盛像を安置する。 境内には重盛の碑が立っている。

大善院

真宗佛光寺派。佛光寺の塔頭。 本尊・阿弥陀如来。南北朝期の建武年間(1334~38)武田明信が東山今熊野に創建し南坊と称していた。 1583年(天正11)本山に移転して塔頭となり、1634年(寛永11)大善院と改称した。 1864年(元治1)の禁門の変で焼失したが、のち再興された。

長香寺

浄土宗。山号常照山。本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作と伝えられる。 慶長13年(1608)徳川家康の側室おこちゃの本願により、信誉称阿を開山として創建。 寺名はおこちゃの法号長香院に因んでいる。 伽藍の建立には、京都所司代板倉勝重、大工頭中井家の初代正清、金座の後藤庄三郎など幕府の役職が参画。 のち中井家の菩提寺となり、中井利清の女が8代将軍吉宗を生んだことから、幕府の援助を得た。 境内に中井家歴代の墓がある。「絹本着色観経十六観変相図」(重文)を所蔵する。

明王院不動寺

平安京遷都の前103年(691年)、今から約1320年前創建の寺である。空海作「石像不動明王」が本尊である。 平安京造営時(794年)、桓武天皇は王城鎮護のため平安京の東西南北に四つの磐座(石倉)を定めたが、明王院はその一つで、「南岩倉」と称したと伝えられている。 天暦年間(947~957年)の賀茂川氾濫による堂舎流没や、応仁の乱で荒廃し、石像も塵芥の中に埋もれてしまった。 天正年間(1573~1592年)豊臣秀吉は、聚楽第造営に際して苔むした本尊不動明王を得て霊験を感じ、旧知に堂舎を建立してこれを再び奉安したという。 太平洋戦争末期京都にも空襲が来ると言われて、本尊を本堂下の磐座に避難させた。それから約70年やっと元の厨子に安置し、2012年11月24・5日、牛若丸・弁慶の旧「五条大路」活性化の一環としてご開帳を盛大に執行した。

火除天満宮

当社は天正7年(1579)、九州での兵乱を避けるため、筑紫国大宰府(つくしのくにだざいふ)から一人の老神官が菅原道眞の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりといわれる。 天正15年(1587)、烏丸二条の地に大雲院が開創される際に、鎮守社として迎えられ、その後、慶長2年(1597)現在地に創建された。 元治(げんじ)元年(1864)の蛤御門(はまぐりごもん)の変では、この一帯だけが奇跡的に類焼を免れた。 これ以降もしばしば火難から救われたという伝承があり、学問成就とともに火除の神として多くの信仰を集めている。 なお、境内には天満宮25社第9番の石碑がある。

大行寺

真宗佛光寺派(宗祖、親鸞聖人)に属し、佛光寺の山内寺院。1821年(文政4)権少僧都信暁学頭が、佛光寺高倉西奥之町の月見御殿(豊臣秀吉が月を賞した御殿)跡に創建。 1853(嘉永6)に現在地に移寺。 開祖信暁学頭は、佛光寺版教行信証、御勧章の開版に尽力され、著書も多く特に「山海里」36巻は有名。 ご本尊は鎌倉時代初期の代表的な仏師、快慶晩年の作で、国の重要文化財。仏足跡(石)は、安政3年、信暁学頭によって建碑。

五條天神社

祭神として、大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。 社伝によれば、延暦13年(794)、桓武天皇の平安遷都に当たり、大和国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請(かんじょう)したのが当社の始まりといわれる。 当初は「天使の宮」(天使社)と称したが、後鳥羽天皇の時代に「五條天神宮」と改めた。 創社の頃は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来度々火災に遭い、元治元年(1864)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で社殿は焼失した。現在の社殿は近時の再建である。 当社は古来、医薬・禁厭(きんえん)(まじない)の神として広く崇敬され、今なお節分には、厄除け祈願のために参詣する人が多い。 例祭は、毎年5月10日に行われる。

光圓寺

光圓寺は、もとは九条兼実の別邸のあった場所。 ここで親鸞が、晩年、妻である玉日君(九条兼実の娘)と過ごした。 門前に、「親鸞聖人御入滅之地」の石碑がある。 親鸞聖人寓居跡、御入滅の地。

聖光寺

錦綾山(きんりょうざん)と号し、浄土宗鎮西派に属する寺である。 寺伝によれば、当地には平安時代後期、仏師康慶(こうけい)の居宅があり、その後園に浄土宗第二祖聖光房弁長(しょうこうぼうべんちょう)(鎮西上人)の草庵があったといわれている。 弁長は、ここから8年間、法然上人の許に通い、浄土宗の法灯を受け継いだと伝えられている。 当寺は元久元年(1204)、弁長の帰郷に際し、康慶がその別離を悲しみ、弁長自身の真影をこの草庵に奉安し、聖光庵と名付けたことに始まるといわれている。 本堂には、鎌倉時代の作と伝えられる嵯峨式釈迦如来立像を安置し、寺宝としては清海曼荼羅(せいかいまんだら)、当麻曼荼羅(たいままんだら)の二幅を蔵している。 また、境内には大石良雄の母と、綿屋善右衛門好時(わたやぜんえもんよしとき)(天野屋利兵衛(あまのやりへい))の墓がある。