粟嶋堂(宗徳寺)

当堂は、西山浄土宗に属する宗徳寺の一堂で、堂内に粟嶋明神を祀ることから粟嶋堂の名で知られている。 寺伝によれば、応永年間(1394~1428)南慶和尚が紀伊国(和歌山県)淡嶋から粟嶋明神を勧請して上洛する際、当地あたりで急に御神体が重くなったので、神意としてここに祀ったのが起りといわれている。 以来、宗徳寺の鎮守社、粟嶋神社として祀られてきたが、明治時代の神仏分離により粟嶋堂と改められた。 粟嶋明神は、古来より婦人の守護神とされ、婦人病平癒や安産祈願に御利益があるといわれ、当堂にも婦人の参拝者が絶えない。与謝蕪村も当堂を訪れ、娘の病気回復を祈願した。 その時詠んだ句が、境内石碑に刻まれている。 また、当堂北の庭内にある石灯籠は、応永28年(1421)の刻名のある弥陀板碑(みだばんひ)が用いられている。

天道神社

当天道神社は、延暦13年(794)、桓武天皇が都を平安京に遷都のとき、もともと長岡京に鎮座されていた天道神社を万民豊穣、子孫繁栄、悪疫退散を祈願され、三条坊院東洞院(現在の東洞院御池上る付近)の地に勧請されました。 当時の境内は1町四方におよぶ広大で荘厳な宮でしたが、その後、応仁の乱など度々の兵火に包まれました。 天正2年(1574)織田信長公により五条坊門猪熊の地を授かりここに鎮座され今日に至ります。 主神は伊勢皇大神宮の天照大神、左右に正八幡大神、春日大明神、の三柱の神々を祀る。境内社に洛陽二十五社天道天満宮、約束稲荷神社、祇園八坂神社、弁財天厳島神社を祀る。 また歴代皇室の崇敬篤く境内には明治天皇の皇后昭憲皇太后の御胞衣(おえな)を埋納した塚がある。 毎年11月3日に例大祭併神幸祭が盛大に斎行されます。 5月17日に執行される「天道花神事」は国宝上杉本「洛中洛外図屏風」にも描かれている伝承的行事であり今や天道神社でしか見られません。

住吉神社

祭神は天照皇大神、田霧姫神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、神功皇后、武内宿禰命。 末社の熊丸稲荷神社の祭神は速秋津比売大神。 人丸神社の祭神は柿本人麿朝臣。 建立は保元2年、後白河天皇の勅旨を受け、藤原俊成による。 歴代天皇が歌道伝授の際に勅使を派遣し、代拝したと伝えられる。 現在の社殿は明治32年、正三位伯爵冷泉為紀卿が広く寄付を募り、同年11月に建立された。 毎年5月に例大祭が執り行われる。(5月第3日曜日、神幸祭。第4日曜日、還御祭)

浄教寺

浄土宗。山号多聞山。 堂号燈籠堂。承安年間(1171~75)平重盛が東山小松谷の邸内に築いた燈籠堂が前身で、四十八間の精舎を建て、各柱間毎に一体ずつ計48体の阿弥陀仏を安置し、48個の燈籠を掲げ、燈籠堂と称されたのが始まり。 荒廃していた堂を立誉上人が東洞院高辻(当時の五条)に移し、浄教寺を開山(1449年/宝徳元年)。 この際「浄教寺」の名を花園天皇より賜った。 1591年(天正19)現在地に移転。本堂に本尊阿弥陀如来、重盛像を安置する。 境内には重盛の碑が立っている。

大善院

真宗佛光寺派。佛光寺の塔頭。 本尊・阿弥陀如来。南北朝期の建武年間(1334~38)武田明信が東山今熊野に創建し南坊と称していた。 1583年(天正11)本山に移転して塔頭となり、1634年(寛永11)大善院と改称した。 1864年(元治1)の禁門の変で焼失したが、のち再興された。

火除天満宮

当社は天正7年(1579)、九州での兵乱を避けるため、筑紫国大宰府(つくしのくにだざいふ)から一人の老神官が菅原道眞の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりといわれる。 天正15年(1587)、烏丸二条の地に大雲院が開創される際に、鎮守社として迎えられ、その後、慶長2年(1597)現在地に創建された。 元治(げんじ)元年(1864)の蛤御門(はまぐりごもん)の変では、この一帯だけが奇跡的に類焼を免れた。 これ以降もしばしば火難から救われたという伝承があり、学問成就とともに火除の神として多くの信仰を集めている。 なお、境内には天満宮25社第9番の石碑がある。

大行寺

真宗佛光寺派(宗祖、親鸞聖人)に属し、佛光寺の山内寺院。1821年(文政4)権少僧都信暁学頭が、佛光寺高倉西奥之町の月見御殿(豊臣秀吉が月を賞した御殿)跡に創建。 1853(嘉永6)に現在地に移寺。 開祖信暁学頭は、佛光寺版教行信証、御勧章の開版に尽力され、著書も多く特に「山海里」36巻は有名。 ご本尊は鎌倉時代初期の代表的な仏師、快慶晩年の作で、国の重要文化財。仏足跡(石)は、安政3年、信暁学頭によって建碑。

五條天神社

祭神として、大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。 社伝によれば、延暦13年(794)、桓武天皇の平安遷都に当たり、大和国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請(かんじょう)したのが当社の始まりといわれる。 当初は「天使の宮」(天使社)と称したが、後鳥羽天皇の時代に「五條天神宮」と改めた。 創社の頃は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来度々火災に遭い、元治元年(1864)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で社殿は焼失した。現在の社殿は近時の再建である。 当社は古来、医薬・禁厭(きんえん)(まじない)の神として広く崇敬され、今なお節分には、厄除け祈願のために参詣する人が多い。 例祭は、毎年5月10日に行われる。

光圓寺

光圓寺は、もとは九条兼実の別邸のあった場所。 ここで親鸞が、晩年、妻である玉日君(九条兼実の娘)と過ごした。 門前に、「親鸞聖人御入滅之地」の石碑がある。 親鸞聖人寓居跡、御入滅の地。

瑞雲院

日蓮宗本圀寺の元塔頭。 1602年(慶長7)日求が小早川秀秋(1582~1602)の菩提を弔うため、玉陽院を改めて開創したと伝わる。 秀秋の祭祀料として徳川家康が寺領100石を与えたのに因み、百石寺とも称する。 また、豊臣秀吉の姉日秀尼が、安土城内の秀頼旧邸を移し方丈とし、秀秋追善のために建立、100石を施入したとする説もある。