嘉祥寺(深草聖天)

嘉祥4年(851)2月、文徳天皇は先帝、仁明天皇の菩提を弔うために、その陵の傍らに清涼殿の建物を移して寺とし、年号をとって嘉祥寺とした。開山は真雅。元慶2年(878)には定額寺となって官寺の扱いを得、寺域も広大な大寺であったが、平安時代の後期には衰微して仁和寺別院となり、更に室町時代の応仁、文明の大乱により焼亡した。 しかし、寛文年間(1661~1673)に、かつて深草十二帝陵の管理に当たっていた安楽行院を空心律師が再興し、その際、同院境内に聖天尊を祀って嘉祥寺も再興され、更に元禄12年(1699)、勅許を得て本堂が上棟された。 ただし、再興された嘉祥寺は位置も旧寺域とは離れているため、その名を継ぐだけとなっている。なお、堂内には十一面観音や不動明王像が安置されている。 俗に深草聖天と呼ばれ、開運招福祈願の信仰がある。

寺田屋

寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。 慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。

醍醐寺三宝院

醍醐寺塔頭・三宝院は永久3(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。 醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊です。現在の三宝院は、その建造物の大半が国宝や重文に指定されている。 大閣秀吉が槍山で花見をしたときの建物を移築したものといわれています。 襖絵の桜・紅葉は、平成に入って日本画家・浜田泰介画伯が描いたものです。 ◆由緒 真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる聖宝・理源大師は貞観16年(874)醍醐山上に草庵を結び、准胝・如意輪の両観音像を彫刻し、堂宇に安置した。これが醍醐寺の始まりである。 開創後、醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依によって、次第に堂塔が建立され、天暦5年(951)には五重塔が完成。山上山下にまたがる大伽藍が整った。 開山以来、醍醐寺は日本仏教史上枢要な位置を占め、伝えられたものの多くは国の国宝・重要文化財に指定されており、平成6年(1994)には世界文化遺産に登録された。 ◆下醍醐 醍醐山の西麓一帯に広がる堂塔、諸院を総称して下醍醐と呼ぶ。 西大門(仁王門)をくぐると京都府下では最古の建造物である五重塔(国宝)が、堂々たる姿を現す。五重塔の北側にある金堂は、紀州(和歌山県)湯浅から豊臣秀吉の命によって移築されたものだが、平安末期の様式をよく残しており、国宝に指定されている。 この他、清瀧宮本殿(重文)、祖師堂、不動堂、真如三昧堂などがある。 ◆上醍醐 下醍醐から約1時間、山道を登ると山上の堂宇に出合う。この醍醐山上に広がる堂宇を総称して上醍醐と呼ぶ。この上醍醐こそ醒醐寺草創の地である。上醍醐には西国11番札所・准胝堂があり、巡礼の人の姿が絶えない。五大堂は、餅上げ競技で有名な「五大カさん」の本尊を祀るお堂で、毎年2月23日に下醒醐・金堂で授与されるお札「御影」は、このお堂で1週間にわたって祈願される。この他、薬師堂(国宝)、開山堂(重文)、如意輪堂(重文)、清瀧宮拝殿(国宝)などがある。 ◆三宝院とその庭園 三宝院は永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正の創建。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主の住房である。現在の三宝院は、その殿舎の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は、寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されている。 また、菊と桐を大胆に意匠した唐門は、伏見城から移築されたと伝えられるもので、国宝に指定されている。 国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3年(1598)豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して、自ら基本設計をした庭であり、桃山時代の華やかな雰囲気を伝えている。