北向山不動院

天台宗の単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。 大治五年(1130)、鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教(こうきょう)大師を開山としたのが当寺の起こりである。 本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。 そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。 久寿二年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領として、藤原忠実が中興に当たった。 その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。 朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。 現在の本堂は、正徳二年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。 境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深(にほんさいしん)親王の御銘があって、元禄七年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。

仏国寺

天王山と号し、黄檗宗万福寺に属する。 延宝6年(1678)高泉性とん(こうせんしょうとん)和尚がもとこの場所にあった永光寺を復興して仏国寺と名づけたのがはじまりである。 高泉和尚は中国福清の人で寛文元年(1661)隠元禅師の招きで来日し万福寺5世となり、元禄8年(1695)に歿した。 後水尾上皇より「大円覚」の宸筆勅額を賜わり、往時に講堂を完備していたが、明治維新の後、荒廃し、現在本堂と庫裏をとどめるのみである。 本堂には釈迦三尊と毘沙門天を安置する。 境内には、開山高泉碑(重要文化財)があり、正徳元年(1711)鋳造した中国風の銅碑として有名で、高泉和尚の教えをうけた近衛家熈(いえひろ)の撰文である。 また、乞食の郡に交わって有名な桃水和尚らが、江戸初期の代表的茶人、作庭家で伏見奉行でもあった小堀遠州(遠江守政一)の墓などがある。

神川神社

祭神は底筒男命・中筒男命・上筒男命・表津少彦命。 延喜式内社。 難船防止の祈願のため、摂津住吉の神を勧請したのが始まりで、鴨川水運に関連した信仰が篤かった。 周辺の鴨川という地名は、明治10年現社名に改称。

大黒寺

円通山と号し、空海(弘法大師)の開基と伝える真言宗東寺派の寺で、もとは長福寺といった。 豊臣秀吉が深くこの寺を信奉したのをはじめ、武家の信仰が深かったが、元和元年(1615)伏見奉行山口駿河守(するがのかみ)は、薩摩藩主島津家久の命をうけて、この寺を武運長久の祈願所に定め、寺名を大黒寺と改めたという。 本尊聖観音立像と出世大黒天立像は空海が当寺を創立したとき安置したものと伝えている。 幕末に西郷隆盛などの志士が国事を論じたという一室があるほか、明治維新志士の遺墨等を所蔵する。 境内には、西郷隆盛が建てたという有馬新七ら寺田屋殉難九烈士の墓碑をはじめ、伏見義民の文珠九助(もんじゅうきゅうすけ)、木曽川治水工事の犠牲となった薩摩藩家老平田靭負(ゆきえ)の墓がある。

金札宮

750年大きな流れ星が降る異変があり、第46代 孝謙天皇(女帝で在位749~758年)が深く憂慮された時に伏見久米の里に白菊を植え賞でている翁がおり 「この地に日照りが続き、稲が枯れるような時、私が愛でた白菊の露の一雫より清水が湧き出す」 吾は、太玉命で天下の豊秋を喜ぶ。 「人々が一度この白菊の露の一雫より、福運が着き、家運は長く隆盛で、子孫繁栄し、火災のわざわいから除かれるであろう」との事をお聞きになった天皇は、事のほか喜ばれ、天皇みずから筆をとられ社殿造営の指示をだされた。 社殿建築中に、「永く伏見に住み国土を守らん」と書かれた金の札が降り人々が集まって来るうちに、 空から声がし「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命なり、我を拝まんとすれば、なお瑞垣(みずがき)を作るべし」 と聞こえたとの話です。 伏見の金札宮(きんさつぐう)は、伏見で最も古い神社のひとつといわれ、旧久米(くめ)村の産土神として崇敬されてきた。 観阿弥作の謡曲「金札」の題材になっている。

宝福寺

久祥山と号し、曹洞宗の寺でむかし三十石船で伏見港に着いた旅人達がよく参詣したといわれる木挽町の金毘羅さんで知られている。 もとは「伏見久郷」の内の森村にあったが、応仁の乱(1467~77)によって兵火にあい、そのため末寺であった「瑞応院」に寺号を移した。 慶長4年(1599)に薩摩国川辺郷の曹洞宗「宝福寺」の11代住職「日孝芳旭(ほうきょく)大和尚」を招き、「久祥山宝福寺」と改め、曹洞宗開山となり現在に至っている。 また、本堂前にある金毘羅堂は、伏見城内の学文所前に安置されていたのを、元和6年(1620)、寺社奉行の山口駿賀守が、堂と「羅漢像」二体及び、豊臣秀吉・淀君が「子授成就」の祈願をし、嫡子秀頼が授かったという「陰陽石」とその秘物を当寺に置いたものといわれる。