恵福寺

伏見は醍醐の南、日野の山すそにあり、宇治と隣接している。 近くには法界寺(国宝)、親鸞上人の日野誕生院がある。 また方丈石も歩いて15分ぐらいの山中にある。 創建年代は鎌倉時代後期に天台宗として開かれ、その後慶長3年(1598)に浄土宗となった。 境内には、しだれ桜があり、花見の頃、夜間のライトアップによって近在の人達の楽しみとなっている。 平安時代の木像阿弥陀如来立像と木像地蔵菩薩像がある。 地蔵菩薩像は、寄木造の丈六の巨像で数少ないものである。

羽束師坐高御産日神社

御祭神は「むずび」の霊力をお持ちのタカミムスビノ神、カンミムスビノ神です。 御鎮座は477年です。 この地は桂川、旧小畑川等河川の合流するところで、農耕、水上交通に恵まれ開けてきました。 延喜の制がととのえられて式内大社に列せられ、式内第一の称号をいだき天下泰平の加護を給いました。 羽束師祭(5月)は御創建を祝う伝統ある祭りです。

日野誕生院

本願寺第20代広如宗主の文政11年(1828)9月、宗祖親鸞聖人のご誕生の地を顕彰して、ここに一つの堂宇が建てられた。 これが日野誕生院のはじまりである。 当初、この堂宇を有範堂または宝物堂とも呼ばれたが、第21代明如宗主は、明治11年(1878)この堂宇を日野別堂と改名し、いっそう顕彰に努められた。 さらに大正12年(1923)に立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機として堂宇の一大改造が計画され、第23代勝如宗主の昭和3年(1928)5月に着工、昭和6年3月に別堂が完成し、5月に落慶の法要が営まれた。 このとき日野誕生院と改称され現在にいたっている。 宗祖のご誕生を記念する堂宇であるため、その建築様式は平安時代初期の手法によっており、従来の真宗寺院の形態とは大きく趣を異にし、調度仏具類もみな時代相応の古風によっている。 別堂向かって右側に聖人童形像・歌碑があり、境内地にはうぶ湯の井戸、えな塚がある。 ◆由緒 本願寺第20代広如宗主の文政11年(1828)9月、宗祖親鸞聖人のご誕生の地を顕彰して、ここに一つの堂宇が建てられた。これが日野誕生院のはじまりである。 当初は、宗祖の父君・日野有範卿にちなんで、堂宇を有範堂または宝物堂とも呼ばれたが、その前の本如宗主は、宗祖の顕彰に熱意を示し、学僧にこの地を調査させたり、日野家の菩提寺・法界寺と交渉を持つなどさまざまに尽力されたことがあり、これが次代に実を結んだのである。文久2年(1862)には、その護持のため京都の同行の間に日野誕生講が結ばれた。 その後、第21代明如宗主は、明治11年(1878)この堂宇を日野別堂と改名し、いっそう顕彰に努められたが、さらに大正12年(1923)に立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機として堂宇の一大改造が計画され、第23代勝如宗主の昭和3年(1928)5月に着工、昭和6年3月に別堂が完成し、5月に落慶の法要が営まれた。このとき日野誕生院と改称され現在にいたっている。 宗祖のご誕生を記念する堂宇であるため、その建築様式は平安時代初期の手法によっており、従来の真宗寺院の形態とは大きく趣を異にしている。本堂前庭には三方に回廊をめぐらし、中央に金灯籠をすえ、七間ある本堂前面の中央三間は巻戸、両脇は蔀戸としている。内部には、本尊阿弥陀如来を黒塗の厨子に安置し、右脇壇には宗祖の御影、左脇壇に勝如上人(前門様)の御影。左余間には、父君有範卿の木像を安置している。内陣は折上組入天井で、外陣に相当する両側は襖で区切られ香房の用をなしている。また厨子その他の調度仏具類もみな時代相応の古風によっている。

西岸寺 (油懸地蔵)

油懸山(あぶらかけざん)地蔵院西岸寺と号する浄土宗の寺で、天正18年(1590)雲海(うんかい)上人によって創建された。  地蔵堂には、俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊を安置している。 寺伝によれば、むかし山崎(乙訓郡)の油商人がこの地蔵尊に油を灌(そそ)いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたといわれ、以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いが叶うといわれ、人々からの信仰を集めている。 境内には、「我衣(わがきぬ)にふしみの桃のしづくせよ 芭蕉」と自然石に刻まれた句碑がある。 これは、貞享2年(1685)当寺の第3世住職任口(にんく)(宝誉)上人を訪ねた芭蕉が、再会の喜びを当寺の伏見の名物であった桃にことよせて詠じたもので、碑は、文化2年(1805)に建設された。 なお、地蔵堂は、明治維新の鳥羽伏見の戦いで類焼したため、昭和53年(1978)に再建された。 ◆由緒 浄土宗のお寺で、油懸山地蔵院西岸寺といいます。1590年(天正18年)雲海上人によって創建されました。通称「油懸地蔵」として有名で、町名の油掛町も「油懸地蔵」に由来します。 寺伝によれば、昔、乙訓郡山崎の油商人が当寺の門前で油桶を転がして油を流してしまい、諦めて残りの油を地蔵尊に注いで、そのまま立ち去ったのです。その後、商人は商運に恵まれ、大金持ちになったといいます。それ以来、願いごとがある人は油を注いで祈ると霊験があるといわれ、人々の信仰を集めました。 お地蔵さんは石の仏さまで、立ち姿が浮きでるように彫刻され、右手に錫杖、左手に宝珠を持っています。お顔が美しく、なで肩、大きな胸あきの彫法、錫の部分の大きく立派なことなどから、鎌倉時代の作といわれています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、油が2センチも厚く積もり、調べようがありません。 境内には、芭蕉が当寺三世任口上人を訪ねた折に詠んだ句の碑もあります。

本成寺

妙栄山(みょうえいざん)と号する法華宗大本山本能寺の末寺である。 天正10年(1582)の「本能寺の変」後、同寺の再建に尽力した、本能寺中興日逕(にちきょう)聖人によって、慶長二年(1597)に創建されたのが当寺である。 当初、現在の伏見区上板橋中之町にあったが、その後、寛永13年(1636)、篤信者中村隆運が法華経千部読誦の心願成就を機に、伏見町奉行水野石見守忠貞の協力を得て、現在地に移したものである。 本堂には、創建当初の本尊があり、また、地蔵堂には、小野篁作と伝えられる木造地蔵菩薩像一体が安置されている。 この地蔵菩薩像は、もと伏見区三栖の薬師寺支配の大亀谷地蔵院にあったが、承応元年(1652)に隆閑寺学室に、更に明治三年(1870)に当寺境内に移されたもので、古来「痰切り地蔵」として地域の信仰を集め、かつては縁日に夜店が出て賑ったとのことである。