赤山禅院(赤山さん)

仁和4年(888)天台座主安慧(ざすあんね)が、師の慈覚大師円仁(えんにん)の遺命によって創建した天台宗の寺院である。本尊の赤山明神は、慈覚大師が中国の赤山(せきざん)にある泰山府君(たいざんふくん)(陰明道祖神(おんみょうどうそじん))を勧請したもので、天台の守護神である。 後水尾上皇の修学院離宮御幸の時には、上皇より社殿の修築及び、赤山大明神の勅額を賜った。 御神体は、毘沙門天に似た武将を象る神像で、延命富貴の神とされている。 この地は、京都の東北表鬼門(おもてきもん)にあたることから、当院は、方除けの神として人々の崇敬を集めている。 また、赤山明神の祭日にあたる5日に当院に参詣して懸(かけ)取りに回ると、よく集金ができるといわれ、商人たちの信仰も厚く、俗に五日払い(いつかばらい)といわれる商慣習ができたと伝えられている。 閑静なこの地には、松、楓が多く、秋には紅葉の名所として多くの人々で賑う。 ◆由緒 慈覚大師ご遺命による創建 天台宗総本山・比叡山延暦寺・赤山禅院は京都の表鬼門に位し、赤山大明神(陰陽道の祖神・泰山府君)を皇城の鎮守として祭祀されています。 第三世天台座主・慈覚大師円仁様が若き日、遣唐使船で中国に渡り「天台教学」を修められ日本への帰路「航路平穏」を守護して下さった出港地の山神、赤山大明神様に感謝し、その勧請をご遺命なさいました。 赤山大明神様が、お大師様の、荒海の日唐渡海・船旅平安をお守りになったからです。 一、都の表鬼門を守護する方除けのお寺。 二、日本最古「都七福神」のお寺。 三、比叡山延暦寺・天台随一の荒行・千日回峰行・赤山苦行(八百日目)のお寺。 四、仲秋名月(旧暦)、阿闍梨様加持御祈祷「ぜんそく封じ・へちま加持」のお寺。 五、紅葉まつり「珠数供養」のお寺。 ◆【夢見の宝船】 宝船を描いたものとしては、七福神舟遊びの図がよく知られている。正月二日や節分の夜に、宝船の絵を枕の下に敷いて眠ると吉夢を見て、七福神の福徳を授かると言われてきた。この習俗は「初夢」を吉善ならしめようとする信仰であり「夢占い」なのである。 一、「夢占い」の願主の欄にお名前を、願文には「心願」をしたためる。 二、そして枕の下に敷き、左記のご墓言を七度唱えてご就寝ください。 ◆ご真言 おん。だきしゃたら。にりそだにえい。そわか。 三、心願成就ご祈念のあと、ご使用の夢見の宝船は赤山禅院へご返送下されば、阿闍梨様御護摩供の折に、お焚き上げ(炎によるお浄め)を致します。 ◆江戸の正月風景「宝船売り」 縁起物の一つ。江戸時代、正月元旦、あるいは二日の夜、米俵を乗せた船の絵に、「回文」の歌を版画に記したものを、枕の下に敷いて寝ると、良い初夢を見ると信じられ、「おたから、おたから」と呼びながら、その版画を売り歩く「宝船売り」は、江戸の正月風物の一つでありました。 宮中では、米俵と宝物とを乗せた船の帆に「摸」(ばく)の字を描いた絵を、宮家や堂上家に賜るのが例で、「猿」は「貘」とも書き、悪い夢を喰うと、日本で昔から言われてきた想像上の動物であります。 ◆都七福神 天海大僧正、七つの福徳を 家康公の器量になぞらえられ 徳川家康公の崇敬を一身に受けていた、比叡山の名僧・慈眼大師天海様は、しばしば国政の機務に参与し、家康公の人柄をよく知りぬいていた。そこで天海様は、乱世を治める器量を備えた家康公を、七福神の七つの福徳になぞらえて示されました。 一、長寿→寿老人  五、愛敬→弁財天 二、富財→大黒天  六、威光→毘沙門天 三、人望→福禄寿  七、大量→布袋尊 四、正直→恵比寿(以上、七福神) これを聞き知った家康公は大いに喜び、絵師・狩野法眼に命じて、七福神遊行図を描かしめたと伝えられています。 境内に彩りを添える、手描きの、愛らしい「お姿みくじ」が、ご参詣の方々に喜ばれておりますが、「福禄寿神」をイメージしたもので、胎内に、おみくじが収めてあります。また相生明神様の「おしどり絵馬」赤山大明神様を梵字で表した絵馬にあらず「字馬」もお珍しいものだそうで、収集家からの問い合わせもございます。 「おしどり絵馬」を奉納して良縁の願いを、祈念しましょう。 ◆慈覚大師様と大文字送り火 京都の夏の風物詩、観光名物「大文字送り火」は、平安時代は「秋の宗教行事」でした。 偉大な足跡を残された慈覚大師様のご遺徳を偲んで、お大師様の「大」をお山に刻して点火。帝、百官を始め都人が合掌して伏拝するうちに、やがて次第に火勢が細まり、横の月待山から大きな満月(旧暦八月十六日)が現われ、あたかも「お大師様」の御霊がそれに乗り憑って中空に昇天なさる・・・それはまさに、平安の大宮人達の壮大なロマンだったのであります。 古来より「紅葉寺」として世人に親しまれて参りました赤山禅院では十一月中紅葉まつりの出店や露店が賑わいを添えております。 尚11月23日に催される「珠数供養」では、古いお珠数ご持参の方々ご自身の手による「お珠数のお焚上げ」をして頂いております。 紅に映える紅葉の境内は、「寛老池」がひときわ美しく、平安の音、時の南淵大納言・小野年名卿が、当代の「老七賢」たちを小野山荘(赤山禅院)に招き、池に舟を浮かべて詩歌管弦の宴・尚歯会を催したとある。尚歯会(しょうしえ)は、即ち我が国「敬老会」発祥の由縁なのでございます。 五日・いつか(何日) の・申(猿)の日に 一年の中でも滅多にない「申の日」の五日に「赤山さん」に詣でると、吉運に恵まれると言われだし、江戸時代、「赤山さんは掛け寄せ(集金)の神さんや」 との噂がたつようになりました。五日講ご縁日に、商売繁盛を願うお詣りが多かった由縁でございます。 この五日講ご縁日詣でが「五十払い(ごとばらい)」風習の源になり商売繁盛を願って早朝、集金前にお詣りなさる方々のお姿をお見かけします。

蓮華寺

1057年(天喜5)藤原康基が、木喰単称上人作の石造五智如来像を本尊として開創。 広沢の池畔から鳴滝音戸山へ、さらに1928年(昭和3)現在地へ移転。 離散していた石仏を集めて境内に安置された石仏群は壮観で、五智如来像5体が、観音坐像11体とともに並んでいる。 真言宗。 ◆由緒 蓮華寺は、元西八条塩小路付近(今の京都駅付近)にあった浄土教系の古寺で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文2年(1662)加賀前田家の老臣今枝民部近義が祖父今枝重直の菩提の為に、この地に移し再興したものである。 再興の際に石川丈山、狩野探幽、木下順庵、黄檗の隠元禅師等当時の著名文化人が協力している。 尚本堂、鐘楼堂、井戸屋形、庭園は創建当時のままであり、小規模ではあるがいずれも文人の残した貴重な文化遺産であった。

曼殊院

曼殊院は、もと伝教大師の草創に始まり(八世紀)、比叡山西塔(さいとう)北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。天暦元年(947)、当院の住持、是算(ぜさん)国師は菅原氏の出であったので、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した。また天仁年間(1108~9・平安後期)、学僧、忠尋座主が当院の住持であったとき、東尾坊を改めて曼殊院と称した。現在の地に移ったのは明暦二年(1656)で、桂宮智仁親王の御次男(後水尾天皇)良尚法親王の時である。 親王は当院を御所の北から修学院離官に近い現在の地に移し、造営に苦心された。庭園、建築ともに親王の識見、創意によるところ多く、江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深い。歴代、学徳秀れた僧の多かった名刹である。(国宝、黄不動尊・古今和歌集曼殊院本を蔵する。) ◆由緒 最澄が比叡山に建立した一坊を起こりとする天台宗の寺院で、青蓮院(しょうれんいん)、三千院、妙法院、毘沙門堂(びしゃもんどう)と並ぶ天台宗五箇室門跡の一つに数えられる。門跡とは皇族や摂関家(せっかんけ)の子弟が代々門主となる寺院のことで、当寺では明応(めいおう)四年(1495)に、伏見宮貞常親王(ふしみのみやさだつねしんのう)の子、慈運大僧正が入手したことに始まる。 初代門主の是算国師(ぜさんこくし)が菅原家の出身であったことから、菅原道真を祭神とする北野天満宮との関係が深く、平安時代以降、明治維新に至るまで、曼殊院門主は北野天満宮の別当職を歴任した。 数度の移転を経た跡、天台座主(ざす)(天台宗最高の地位)を務めた良尚法親王(りょうしょうほうしんのう)により、江戸初期の明暦(めいれき)二年(1656)に現在地に移された。良尚法親王は桂離宮を造った八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)の子で、父宮に似て、茶道、華道、書道、造園等に優れ、大書院や小書院(ともに重要文化財)の棚や欄間、金具など、建築物や庭園の随所にその美意識が反映されている。 大書院の仏間には本尊の阿弥陀如来立像が安置され、小書院の北側には、八つの窓を持つ明るい茶室、八窓軒(はっそうけん、重要文化財)がある。優雅な枯山水庭園は国の名勝に指定されており、寺宝として、「黄不動」の名で知られる不動明王像(国宝)を蔵するが、現在は京都国立博物館に寄託されている。 ◆名勝庭園 曼殊院門跡 桂の離宮・修学院離宮・曼殊院門跡は後水尾天皇と特別深い関係がある。桂の離宮が造営された八条宮智仁親王の次男、良尚親王(後水尾天皇猶子)が13才でご出家なされると、父君、智仁親王は喜んでこの地における曼殊院造営に助力された。 建築・作庭の基本理念は細川幽斉から伝授された古今和歌集(国宝)、古今伝授(重文)、源氏物語(重文)、伊勢物語、白氏文集等の詩情を形象化することであった。それが当院の大書院・小書院・枯山水の庭園となって実を結んだ。 良尚親王(1622~1693)は25才より29才まで天台宗の座主(管長)として一宗を司り、黄不動尊(国宝)に祀って密教を極めた。一旦下山し、御所において後水尾天皇を始め、親王、皇子の方々にお茶やお華を指導なされた。明暦2年35才の時、現在の曼殊院の堂宇の完成をみて永住、40年間、茶道・華道・香道・書道・画道を仏道修行の具現と悟達、それを通して人間の完成に精進された。その努力の遺跡が当院であり、芸術の香り高い江戸公家文学の遺芳なのである。 ◆虎の間 (重要文化財) (大玄関)襖は狩野永徳筆と伝えられる。(桃山時代) ◆竹の間  (次の玄関)襖は江戸時代の版画。 ◆孔雀の間 (江戸時代中期) 岸駒(がんく)筆。 ◆大書院 (重要文化財) 江戸時代初期の書院建築。 奥の仏間は、もと書院の上段の間であったが、大書院西方にあった宸殿(しんでん)とりこわしの際(明治初め)、現在の場所にうつしたものである。本尊は阿弥陀如来。歴代の位碑を安置する。 なお、建築は、桂離宮との様式の類似に注意すべきで、引手等に種々の意匠をこらしている。(瓢箪、扇、等) ◆滝の間  障壁画は狩野探幽筆。(江戸時代初期)床の間の中央に滝の絵があった。欄間は、月型、卍(まんじ)くずしである。 ◆十雪の間(じゅせつのま)   障壁画は狩野探幽筆。違い棚は、様式、用材ともに桂離官のものと同じで、同時に作られたものという。 ◆庭園(名勝庭園指定) 遠州好みの枯山水(かれさんすい)である。庭の芯に滝石があり、白砂の水が流れ出て、滝の前の水分石(みずわけいし)からひろがり、鶴島と亀島とがある。鶴島には五葉の松(樹令約四百年)があって、鶴をかたどっている。松の根元にはキリシタン燈籠があり、クルス燈籠又は曼殊院燈籠と呼ばれる。亀島には、もと地に這う亀の形をした松があった。庭園右前方の霧島つつじは、五月の初旬、紅に映えて見事である。この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある。 ◆小書院 (重要文化財) 大書院とともに書院建築の代表的なものといわれ、とくに小書院は、その粋を示すものである。屋根は、大、小書院ともに柿(こけら)ぶき。釘かくしは富士の形に七宝の雲を配したもの。小書院入□の梟(ふくろう)の手水鉢は、下の台石は亀、傍の石は鶴をかたどっている。なお、奥に茶室「八窓席」がある。(非公開) ◆富士の間 襖は狩野探幽筆。額は、松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)筆。(「閑静(かんじょうてい)亭」)欄間は菊を型どったもので、元禄模様の先駆をなすといわれる。 ◆黄昏(たそがれ)の間 上段の間(玉座)。襖は探幽筆。違い棚は、曼殊院棚とよばれ、約十種の寄せ木をもって作られたもの。 ◆丸炉(がんろ)の間 日常用の茶所。この奥に親王の日常の間がる。 ◆中庭 一文字(いちもんじ)の手水鉢、井戸があり。庭の芯は松の根元の石。 ◆庫裡 (重要文化財) 現在の通用口。石造の大黒天は鎌倉時代のもの、甲冑(かっちゅう)を帯びた姿で仏教の守護神となす。入口の大妻屋根の額「媚竈(びそう)」は良尚親王筆。論語はちいつ(はちいつ)篇に「その奥に媚(こ)びんよりは、むしろ竃(かまど)に媚びよ」とあるによる。

天授庵

1339年(暦応2)光厳天皇の勅許により虎関師錬が南禅寺開山無関 普門(大明国師)の塔所として建立。1602年(慶長7)細川幽斎が再興した。 方丈の襖絵は長谷川等伯の筆で重文。池泉を主にした庭と枯山水と二つの庭園がある。 ◆由緒 天授庵は南禅寺の開山第一世大明国師無関普門禅師を奉祀する南禅寺の開山塔であり、山内で最も由緒のある寺院である。 凡そ七百年前の文永元年(1264)亀山上皇は当地の風光を愛されて離宮を営まれ、禅林寺殿と号された。たまたま正応年間(1288年頃)妖怪の出現に悩まされ給ふたが、これを一言の読経を用ふるでなく、唯だ規矩整然と坐禅するのみで静められた当時の東福寺第三世大明国師の徳に深く帰依されて自ら弟子の礼をとり法皇となられ、正応4年(1291)離宮を施捨して禅寺とされ、大明国師を奉じて開山となし給ふた。これが南禅寺の開創である。 国師は離宮を賜はって禅寺とされたが既に老境にあり、未だ寺としての構造が整はざるに先立って正応4年12月東福寺に於いて病を得られ同月12日80歳の生涯を終わられた。 此の時亀山法皇は東福寺の龍吟庵に国師の病状を見舞われ御手づから薬湯をすすめられた事が侍従として御供された実躬卿の日記に記されている。 大明国師は入寂に先出ち規庵祖円禅師を推挙して第二世とされたが、離宮を改めて禅寺として構基を整備されたのは、尽く規庵禅師南院国師の功績であったため大明国師の開山としての功績は殆ど湮滅の状態となり、このためこの後数十年間は開山塔の建設さえなかったのである。 暦応2年(1336)虎関師錬が南禅寺第十五世にでるやいたくこの状態を気に留め、同年朝廷に上奏して開山塔建立の勅許を請い同年9月15日光厳上皇の勅許を得、塔を霊光と名付け菴を天授と名付くとの勅状を賜って建設に着手し、翌3年始めて南禅寺に開山塔の建立を見るに至った。これが天授庵の開創である。然るに文安4年4月2日(1447)の南禅寺大火に類焼し、幾ばくもなく再び応仁の兵火に見舞われた後は復興の事もなく後輩のまま130年余を経過した。 慶長年間に至り世情の安定と共に伽藍の復興が盛んとなるに及び一山の僧達は協議の結果開山塔天授庵の復興を当時五山の間に屈指の名僧と言われた当時の南禅寺住持たる玄圃霊三和尚に一任するに至った。 霊三はその弟子雲岳霊圭をして天授庵主とし、知友であった細川幽斎に天授庵に復興を懇請したのである。 霊圭は若狭国熊川の城主山形刑部少輔の子で細川幽斎の室光壽院の俗姪であり五山の間に知られた名僧でもあったので幽斎の快諾する処となり、此処に幽斎の寄進によって慶長7年8月(1602)現存の本堂、正門、旧書院を始め諸堂尽く重建せられ旧時の面目を復興し今日に至ったのである。 ◆本堂 前述の如く幽斎の重建する処である。優雅な柿皮葺屋根をもつ建築であり光厳帝御銘の霊光塔を復興したものである。 中央に開山大明国師等身大の木像を安置し、一隅に幽斎夫妻を始め細川家歴代の位牌所がある。 棟札には玄圃霊三の自筆によって慶長七歳舎八月吉日、住山霊三、復興沙門霊圭、大工木工藤原宗正、坂上新左衛門吉家と記されている。 ◆本堂襖絵(非公開) 桃山画壇の偉才長谷川等伯の筆であり、三十二面全て重要文化財に指定されている。 本堂重建の慶長7年に制作されたもので、等伯64才晩年の傑作である。 中央の室に禅宗祖師図、上間に高士騎馿図、下間に松鶴と夫々趣きの変わったものが描かれている。 等伯は画題の多彩な事で知られているが、当庵の禅宗祖師図の如く禅宗の祖師の行状、逸話を題材とし禅の鋭く且つ厳しいはたらきを描き出したものは他に類例を見ず恐らく当庵のものが唯一であろうと思われる。 豪放とも表現しがたい筆致の上に等伯晩年の作風を伝えるものとして有名である。 ◆庭園 本堂前庭(東庭)と書院南庭とに分かれる。東庭には枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳を軸として配するに数箇の石と白沙を以てし、これに緑苔を添えたものである。二条の石畳の中で正門より本堂に至るものは恐らく暦応4年当庵建設当初のものと思われるが一方の短いものは幽斎の廟所に向ふもので、慶長15年幽斎没後に設けられたものである。 書院南庭は庭園の根本的構想或は設計とも言うべき地割の上から見ると明らかに鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えている。特に中央の出島にそれが顕著である。即ち書院側より長大な出島を作り、向い側からやや小さい出島を配し、之等をさながら巴形に組み合わせることによって東西大小の二池を区切って居る処、また大小の出島を作り池庭の汀の線に多くの変化を見せている事、或いは東池を西池より小にし之になだらかな斜面の堤を設けるなど、東池瀧組付近の石組に残る手法と共に暦応4年本庵創建当時に作庭されたものであることを物語っている。 東方築山付近わずかに慶長重建の際に改造したらしい趣きが見られるのと、更には西池蓬莱島を設け石橋を作るなど明治初年に著しい改造を行った為一見すると明治調が強く感じられるのが惜しまれる。 幸いにも改造が庭の生命ともいうべき地割にまで及ばなかったのがこの庭の風趣をして南北朝の古庭らしい高雅さを保持せしむる所以であって、最初作庭の時最も苦心した地割の美しさを入念に味得して欲しい処である。 ◆その他 当庵には少なからぬ古美術品を所蔵するが中でも国内唯一といわれる大明国師自讃の肖像は国師の筆跡としてこれのみで重文に指定されている。聖一国師自讃像一幅、平田和尚自讃像二幅、細川幽斎夫妻像二幅等はいづれも重文指定である。 墓地には幽斎夫妻の墓、細川忠利遺髪塔の外、細川家の墓多数があり、幕末の勤王詩人梁川星巌夫妻、幕末の学者で維新政府の参議であった横井小楠、近くは京都新聞創刊の功労者村上作夫、堀江純吉等の墓もある。

実相院

もと天台宗寺門派の門跡寺院。寛喜元年(1229)、静基(じょうき)僧正の開基。寛永年間、足利義昭の孫に当たる義尊が入寺。 その後、後西天皇の皇子義延親王が入寺。以来、宮門跡が続いた。 客殿・御車寄など、東山天皇の后、承秋門院の薨去に際し、大宮御所の建物を賜ったもので、現存する数少ない女院御所といわれている。 寺宝には、後陽成天皇宸翰(しんかん)「仮名文字遣」(重要文化財)、後水尾天皇宸翰「忍」他、狩野永敬をはじめとする狩野派による襖絵を多数蔵する。 ◆「古文書」 -解き明かされる世界- 平成の世に紐解かれた古文書 実相院にはその歴史や寺格にふさわしい古文書・典籍が伝来しています。その内容は多岐に亘り、天皇・将軍の自筆書状や当時の政治・経済・社会・文化を競わせる古文書、そして「古今和歌集」「新続古今和歌集」「滞氏物語」に代表される国文学資料などがあり、日本史研究や国文学研究の上で重要な資料として認識されています。そのため、現在も各分野の研究者が実相院の書庫を訪れて調査・研究を行っています。 また、江戸時代約260年間の歴代門主の日記が伝来しており、これらには当時の風俗や事件が門跡の目を通して語られています。その意味において、江戸時代の歴史を解明する上で新しい資料を提供するものと期待されています。その中には、赤穂浪士や幕末の池田屋事件に関する記事など、従来知られていなかった新事実も確認されています。 岩倉具視を庇護し、松平春嶽ら幕閣の上洛時の宿所となるなど、幕末の倒幕・佐幕両派と繋がりのあった実相院ならではの記録は、研究者のみならず江戸時代ファンのロマンや興味をかき立てるはずです。 ◆「不動明王」一厳しさの中の慈愛- 衆生を見つめる「まなざし」 実相院の本専は木造立像の不動明王で、鎌倉時代作と伝えられています。その形相は、怒りに髪を逆立て、左目を細めつつ右目を見開いて天地を睨む「天地眼」を備え、口元は右下の牙で上唇を、また、左上の牙で下唇をかみ合わせるものです。 そして、右手には宝剣をとり、左手には羂索(網)を手にして、背後には怒りの象徴である火焔を光背としています。姿は異形・忿怒の恐ろしいものですが、その装い自体は条帛を左肩からかける姿や胸の装飾具など、基本的な菩薩の装いと同じであり、衆生を救う慈愛は菩薩となんらの変わりのないことが知られます。 実相院の不動明王は、厳しい眼差しで激動の歴史を見つめてきました。しかし、その奥には仏の慈愛があふれています。そして、人はその慈愛の「まなざし」に心が救われていくのです。 ◆ 「門跡」-その格式と歴史- 皇族方の御殿・門跡を訪ねる 門跡とは、皇族・貴族が出家し、住んだ特別な寺格のことを意味します。ここ実相院は現在では単立寺院ですが、室町時代から江戸時代にかけては皇子や皇族の入室が続き、天台宗寺門派では数少ない門跡寺院の随一とされていました。 実相院は、寛喜元年(1229)今の京都市上京区小川通今出川に創建され、大納言鷹司兼基の子静基僧正をその開基とし、今の寺地には応永18年(1411)に移されました。 その前身である実相房は園城寺(三井寺)内にあり、文献上、貞元3年(970)頃にはその存在が確認され、その時代を含めれば実に千年にも亘る歴史を誇ります。 そんな歴史的な背景から、今も院内のそこここに、格式の高い歴史を伝える文化遺産が数多く残っています。例えば、四脚門、御車寄せ、客殿などは、20世門主として伏見宮邦永親王の子、義周親王が入室されていた折、東山天皇中宮であった承秋門院の薨去(1720)に際して旧殿を移築したもので、まさに宮廷文化を今に留めています。 また、江戸時代、寺院としては門跡寺院のみに飾ることを許されたとも言われる狩野派の襖絵も、実相院には京・江戸両狩野派がその技を結実させた124面がその華麗さを伝えています。

詩仙堂

正しくは、六六山(ろくろくざん)詩仙堂丈山(じょうざん)寺と号する曹洞宗の寺院である。 当寺は、江戸時代の文人石川丈山が、寛永18年(1641)隠棲のため建立した山荘で、凹凸か(おうとつか)とも呼ばれている。 丈山は、三河国(愛知県)の人で、徳川家康に仕えていたが、禄を辞して京都に住み、詩作に励むとともに林羅山ら一流の文化人とも交わり、茶道においては奥義を極めた。晩年は当地で悠々自適の生活を行い、寛文12年(1672)89歳で没した。 建物は、詩仙堂、嘯月楼(ちょうげつろう)など十の区画からなり、詩仙堂には、狩野探幽(かのうたんゆう)筆による中国の三十六詩人の肖像と詩を描いた額が掲げられている。 庭園は、東には滝を、前庭には躑躅(つつじ)、皐月(さつき)の苅込みを配した枯山水庭園で、庭の奥からの丈山愛好の僧都(そうず)(鹿(しし)おどし)の音が風情を添えている。 毎年5月23日には、丈山忌が営まれる。 ◆由緒 現在詩仙堂とよばれているのは、正しくは凹凸か(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。凹凸かとは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれ等各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた″詩仙の間″を中心としているところから呼ばれる。  丈山がこの堂に掲げるべき三十六詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九才の時であった。これは、我国の三十六歌仙にならったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組合せに意味をもたせた。蘇武と陶潜、韓愈と柳宗元等七対は羅山の改定した所である。  建造物は後に寛政年間、多少変更を見たが、天災地変の難を免れ、庭園と共に往時をそのままに偲ぶことが出来る。  丈山はここに”凹凸か十境”を見たてた。入口に立つ (1)小有洞(しょうゆうどう)の門、参道をのぼりつめた所に立つ (2)老梅関(ろうばいかん)の門、建物の中に入り (3)詩仙堂、読書室である (4)至楽巣(しらくそう)猟芸巣(りょうげいそう)、堂上の楼 (5)嘯月楼(しょうげつろう)、至楽巣の脇の井戸 (6)膏肓泉(こうこうせん)、侍童の間 (7)躍淵軒(やくえんけん)、庭に下り、蒙昧(もうまい)を洗い去る滝という意の (8)洗蒙瀑(せんもうばく)、その滝が流れ込む池 (9)流葉はく(りゅうようはく)、下の庭に百花を配したという (10)百花塢(ひゃっかのう)、その他丈山考案の園水を利用して音響を発し、鹿猪の庭園を荒すのを防ぎ、又、丈山自身も閑寂の中にこの帝を愛し老隠の慰さめとしたという ″僧都(そうず)″(添水、一般には鹿おどしともいう) 等は今も残されている。  詩仙堂の四囲の眺めを見たてた″凹凸か十二景〃は画家に絵を描かせ丈山自ら詩を作ったものである。丈山の遺愛の品である〃詩仙堂六物”、多数の硯、詩集である「覆醤集(ふくしょうしゅう)」等多数の品々が残されている。これらは毎年五月二十三日の丈山忌後、二十五日から数日間、「遺宝展」として一般公開している。  現在は曹洞宗大本山、永平寺の末寺である。  詩仙堂の四季にはそれぞれ趣きがあるが、特に五月下旬の ″さつき″、十一月下旬の紅葉等がすばらしい。 ◆石川丈山 石川丈山は、天正十一年(1583年)三河国(現在の愛知県安城市)に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり、丈山も十六才で家康公に仕え、近侍となつた。松平正綱、本多忠勝等はその親族である。三十三才の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後とし徳川家を離れ、京都にて文人として藤原惺窩(せいか)に朱子学を学んだが、老母に孝養を尽くすため、広島の浅野侯に十数年仕えた。 後母を亡した丈山は五十四才の時京に帰り相国寺畔に住居した。寛永十八年(1641年)五十九才で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を清貧の中に、聖賢の教えを自分の勤めと寝食を忘れてこれを楽しんだ。 丈山は隷書、漢詩の大家であり、又煎茶(文人茶)は日本の開祖である。寛文十二年(1672年)五月二十三日、従容として、九十才の天寿を終った。