満足稲荷神社

祭神、倉稲魂命。文禄年間(1592~96)、豊臣秀吉が伏見城の守護神として伏見稲荷大社の祭神を勧請。 後1693年(元禄6)現在地に遷座した。 秀吉の崇敬が篤く、社名の満足の二字は、秀吉が祭神の加護にすこぶる「満足」したことに由来するとされる。 節分祭、2月2日・3日。 初午祭、2月初午の日。 例祭、5月8日。神幸祭、5月5日。火焚祭、11月8日。 文化財、宝舟之図(橋本関雪筆)。 豊公詣満足神社文図(猪飼肅谷筆)

鷺森神社

貞観年間(859-77)創建と伝えられ、もと修学院離宮地にあったのを元禄年間(1688-1704)に現在地に遷座。スサノオノミコトを祀り、修学院、山端地区の産土神である。 また境内には触れると夫婦和合や良縁が授かるという「八重垣」の石がある。 5月5日の「さんよれ祭」は少年達が着物姿に紅たすき、菅笠姿で手には扇子を持ち‘さんよれ、さんよれ’のかけ声で鉦、太鼓で神輿とともにねり歩く。 巡行コースは赤山禅院発→氏子町→鷺森神社着。 参道は紅葉の美しさでも知られている。 建立:平安時代(貞観年間(859-77)) ◆由緒 当神社創建は貞観年間にして今より壱千百年余り前 比叡山麓の赤山明神の辺に祀られてあったが応仁の乱の兵火に罹り社殿焼失し、今の修学院離宮の山中に移し祀られてあった後水尾上皇この地に離宮を造営されるに当たり此の鷺森に社地を賜り元禄2年(西暦1689年)遷座(せんざ)相成り修学院山端地区の氏神神社として現在に至っている。 後水尾上皇も霊元法皇も修学院行幸の砌(みぎり)には当神社へも参拝され霊元法皇享保14年2月3日行幸の御時 をりふるを見し 鷺森 すぐかてに わけきて今日はむかふ神垣    との御製あり 毎年5月5日の神幸祭には霊元法皇乗御の鳳輦を改装した神輿の渡御(とぎょ)と共に”さんよれ”という踊と囃が珍しく少年達に菅笠に紅だすき姿で練り歩く風情が古風豊かで可憐である。 現本殿は安永4年(西暦1775年)に改築されたもので緑濃き神域には桜樹、楓も多く四季幽鳥の声を聞く閑静な境内であり御祭神の御神徳により広く人々の崇敬を集めている。 御祭神 素盞嗚命 神号を鬚咫天王と称し奉る 御神徳 家内安全、旅行安全、諸願成就 例祭日 5月5日

圓通寺 (円通寺)

元幡枝離宮 大悲山勅願所行幸御殿圓通院と号し、臨済宗妙心寺派の寺である。 圓光院文英尼公(圓光院殿瑞雲文英尼大師)は園基任の女、後水尾天皇御生母中和門院に侍した方で、帰洛してのち延宝6年(1678)輪王寺宮守澄法親王の尽力を得て一宇を興し、妙心寺龍泉菴の祖、景川宗隆(本如実性禅師)を勧請開山とされた。 尼大師が変相普門品(観音経)を印造して中国の寺院に贈ったことは有名である。 又、東山天皇の御宇に三十三所の観音・一宇の堂・潮音堂の名を賜り、後水尾天皇は大悲山号圓通寺の勅額を賜い、霊元天皇は勅願寺と定め梵鐘を納進し、しばしば行幸になった。 なお、霊元天皇宸翰(しんかん)御消息は重要文化財に指定されている。 庭園は比叡山を借景とした枯山水平庭で趣があり、後水尾院の幡枝離宮の庭をそのまま今に伝え、国の名勝に指定されている。 ◆由緒 洛北幡枝の地にひそやかにたたずむ圓通寺。借景の庭、柿、つつじの寺として親しまれている当寺は、江戸時代初期(1639)、後水尾天皇が造営された幡枝離宮のあとであり、幡枝小御所、幡枝茶園とも呼ばれていた。 その後の修学院離宮完成後、後水尾上皇長年の念願とされた禅院開創の気運が熟し、やがて輪王寺宮門跡や幕府要職の尽力により、ここに贈左大臣園其任第三息女、文英尼公(圓光院殿瑞雲文英尼大師=後光明院御母壬生院の姉上・霊元天皇御母新広義門院の叔母)を開基として迎え、上皇より大悲・円通の勅額を賜り、霊元天皇の勅願所となった。 以来、皇室の祈願所として御水尾天皇以降の歴代皇族の御尊碑が皇室ゆかりの殿舎である御幸御殿に祀られている。 庭園は霊峰比叡山を借景とした枯山水平庭で四季折々の風情があじわえ後水尾院の幡枝離宮の庭をそのまま今に伝えている。

金福寺

864年(貞観6)円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵僧都が創建。 江戸中期に鉄舟和尚が再興し、現在は臨済宗南禅寺派。 松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵は荒廃したが、のち与謝蕪村が再興。紅葉が美しい。 背後の丘に与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。 また、舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロイン村山たか女は文久2年、勤皇の志士によって三条河原でさらし者にされたが、3日後助けられて金福寺に入り尼として明治9年まで14年間すごし、当寺で生涯を終った。 法名は清光素省禅と云う。 本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できる。 庭園は皐月の築山と白砂の簡素な枯山水。 3段の生垣ごしには素朴な趣の芭蕉庵の萱葺き屋根が見える。 3月は紅梅とあせびの花、11月はさざんかと特に紅葉が美しい。 芭蕉庵からは洛中が一望できる。

百萬遍 知恩寺

長徳山功徳院と号し、浄土宗四本山の一つである。 もと賀茂社の社領とされた今出川の北(今の相国寺の辺)に賀茂社の神宮堂あるいは賀茂社の河原屋(かわらや)と呼ばれる草庵があって、法然上人もこの庵に止宿し、布教の地としたが、上人の死後、勢観房源智上人(せいかんぼうげんちしょうにん)は尊師法然上人を敬慕し、そのゆかりの地賀茂社の河原屋に御影堂を建て、功徳院知恩寺と名付けたのが当寺のおこりである。 元弘元年(1321)疫病が流行した際、宮中で七日間百万遍の念仏を唱え疫病を退散させたので、後醍醐天皇から百万遍の寺号を賜った。 その後、転々として寺地を変えたが、寛文元年(1661)この地に移った。 本堂には、本尊として法然上人四十三才の時の自作と伝える木像を安置し、その東南の御堂には釈迦如来座像を、西方の阿弥陀堂(念仏堂)には阿弥陀如来立像をそれぞれまつる。 墓地には法然上人やその弟子源智の廟や画家土佐光起(とさみつおき)の墓などがある。

八大神社

永仁二年(1294)に創建された。 御祭神には一乗寺の産土神、氏神として素盞嗚命、稲田姫命、八王子命を祀っている。 禊祓い、農耕・水、森林・山、縁結び・和歌、方除・厄除、学業・教育と様々な御神徳をそなえている。 境内には慶長九年(1604)宮本武蔵が吉岡一門と決闘せし当時の下り松の古木がある。 宮本武蔵が吉岡一門との「一乗寺下り松の戦」の前に八大神社に立ち寄った縁から、由緒ある下り松の古木が本殿西に保存されることとなった。 現在の本殿は大正十五年造営。 ◆由緒 当社は永仁2年3月15日勧請(今より約700年前)(西暦1294年)祇園八坂神社と御同神に坐し古来より北天王(北の祇園)と称し皇居守護神12社中の一にして都の東北隅表鬼門に位置し、方除、厄除、縁結び、学業の神として世の信仰厚く、後水尾天皇、霊元天皇、光格天皇、修学院離宮行幸の砌り御立ち寄り白銀等御奉納あり 明治6年10月5日 藪里午頭天王社(永享10年11月28日勧請)(西暦1438年) 明治7年3月5日  舞楽寺八大天王社(永享10年9月朔日勧請)(西暦1438年)   を合祀す。大正13年幣帛供進神社に指定せられる。 因みに、剣聖宮本武蔵が、吉岡一族と決斗せし当時の”下り松”の古木は本殿西に保存してある。 ◆剣聖『宮本武蔵』と八大神社 武蔵が一乗寺下り松に立って多数の敵にまみえた日のまだ朝も暗いうちに、彼は、死を期したこの危地へ来る途中で、八大神社の前で足を止めて、「勝たせたまえ、きょうこそは武蔵が一生の大事」と彼は社頭を見かけて祈ろうとした。拝殿の鰐口へまで手を触れかけたが、そのとき彼のどん底からむくむくわいた彼の本質が、その気持を一蹴して、鰐口の鈴を振らずに、また祈りもせずに、そのまま下り松の決戦の場所へ駆け向ったという。 武蔵が自分の壁書としていた独行道のうちに、 我れ神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず  と書いている その信念は、その折ふと心にひらめいた彼の悟道だったにちがいない。 武蔵にこの開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果し合いはただの意趣喧嘩とはちがう一つの意味を持ったものと僕はそう解釈する。 吉川英治「随筆 宮本武蔵」より

金地院

臨済宗南禅寺派に属する。 応永年中(1400年頃)南禅寺六十八世大業徳基が北区鷹峰に開いたのが当寺の起りであるが、江戸時代のはじめ、以心崇伝(いしんすうでん)がこの地に移して再興した。 崇伝は徳川家康の信任を受けて政治外交の顧問として活躍し、寛永4年(1627)に当寺の大改築に着手して現在の寺観を整えた。 崇伝はまた僧録司(そうろくし)となって宗教界全体の取締にあたり、以後幕末まで当寺は僧録司の地位にあった。 方丈(重要文化財)は伏見城の遺構と伝えられ柿(こけな)ぶき入母屋造り、書院造りの代表建築で、内部は狩野派諸家のふすま絵で飾られている。 茶室八窓席(はっそうせき)は小堀遠州の設計で、三帖台目(だいめ)の遠州流茶席として有名である。 方丈庭園(特別名勝)もまた、小堀遠州が直接指揮して作庭した確実な証拠を持つ唯一の庭園で、寛永9年に完成した名園である。 境内の東照宮(重要文化財)は寛永5年の建築で地方の東照宮の代表的なものである。このほか寺宝には水墨画の名品なども多く文化財を蔵している。

吉田神社

祭神として健御賀豆知命(たけみかづちのみこと)・伊波比主命(いはいぬしのみこと)・天之子八根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の四神を祀る。 貞観(じょうがん)元年(859)藤原山蔭郷が平安京の鎮守神として藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請したのが当社のはじめである。以来上下の信仰厚く、式外社ではあるが二十二社に加えられ、延文元年(1356)正一位の神階を授けられた。 ついで室町時代の中頃神官吉田(卜部(うらべ))兼倶(かねとも)が吉田神道(唯一神道)を大成し、東南山上に斎場所太元宮(さいじょうしょだいげんぐう)を造営してから、吉田流神道の総家として明治に至るまで神道界に大きな権威をもっていた。 本殿は慶安年間(1648~1651)の建築で朱塗春日造りである。 このほか四脚中門・御廟・神供所などがある。 境内には太元宮のほか、末社、摂社が多く、中でも神楽岡(かぐらおか)社は「延喜式」にも記載された地主神として、また雷除神として有名である。 神竜(かむたつ)社には吉田兼倶を祀っている。 祭礼のうち節分祭(毎年節分の当日を中心に前後三日間にわたって本宮及び太元宮で行われる)は疫神祭(えきじんさい)・追儺(ついな)式・火炉(かろ)祭の三部に分れ、室町時代以来の伝統をほこる神事で多数の参詣者で賑う。 ◆斎場所大元宮 天神地八百万神をまつる大元宮を中心とし、周囲に伊勢二宮をはじめ、全国の延喜式内社3132座を奉祀する。 もと、神職卜部(吉田)家邸内にあったのを文明16年(1484)吉田兼倶がここに移建したもので、吉田神道の根本殿堂をなすものである。天正18年(1590)神祇官八神殿も社内後方に移され、江戸時代より明治4年(1871)に至るまで朝廷の奉幣使派遣のとき神祇官代としてその儀式を執行した。 本殿(重要文化財)は慶長6年(1601)の建築で、平面八角に六角の後方を付し、屋根は入母屋造・茅葺、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後には勝男木をおく特殊な構造をもっている。この形式は神仏習合(神道と仏教の折衷調和)、陰陽五行(万物は陰と陽の二気によって生じ、火木は陽、金水は陰、土はその中間にあるとし、これらの消長により大地異変・災事・人事の吉凶を説明)などの諸説を総合しようとした吉田神道の理想を形に現したものといわれる。 当社に参詣すると全国の神社に詣でたものと同じ効験があるとして、毎年節分の日を中心に前後三日間行なわれる節分祭には多数の参詣者で賑わう。

大豊神社

この社は少彦名(すくなひこなの)命(みこと)・応神天皇・菅原道真(みちざね)を祀っている。 社伝によると、仁和三年(887)、宇多天皇の病気平癒のため尚侍藤原淑子が勅命を奉じた勅願所であり、朝野の信仰が篤かった。 建武の内乱・応仁の兵火などに遭って焼失したが、本殿・末社・拝殿・絵馬堂が再建され、鹿ケ谷、法然院、南禅寺一帯の土産神(うぶすなのかみ)として信仰を集めている。 特に、末社の大国社の狛鼠、日吉社の狛猿、愛宕社の狛鳶は、それぞれの神のお使いとして有名である。 また、神花として椿、枝垂れ紅梅、紫陽花や山野草が四季折々、参拝者の心を和ませている。 更に、椿の名所としても知られている。 由緒 鹿ケ谷・南禅寺一帯の産土の神、氏神様 枝垂紅梅、椿、四季折々の山野草が心を慰めてくれます。 社伝によると、仁和3年(887)宇多天皇の御悩平癒祈願のために、贈正一位尚侍藤原淑子が勅命を奉じて、少彦名命を東山三十六峰、第十五峰目の椿ヶ峰に奉祀して創建されました。後に応神天皇と菅原道真公が合祀されました。昭和29年には、京都市よりいにしえの都の古刹として「名勝地」に指定され、又、哲学の道の「ねずみの社」として全国より多くの参拝者を迎えることとなりました。 御神徳としては、治病健康、福徳長寿、学業成就、縁結び、子授け安産があります。

瑠璃光院

ここ「八瀬」は「矢背」とも記されるように、壬申(じんしん)の乱(六七二)で背に矢傷を負った大海人(おおあまの)皇子(おうじ)(天武(てんむ)天皇)が「八瀬のかま(竈)風呂」で傷を癒したことから、平安貴族や武家の時代を通じて「やすらぎ」の郷として長く愛されてきた。 この地には、当初、明治に建てられた別荘があり、三条(さんじょう)実(さね)美(とみ)はこれを「喜(き)鶴亭(かくてい)」と名づけ、直筆の命名額が当院に残されている。 「喜(き)鶴亭(かくてい)」は茶室名として現在も受け継がれている。 その後、昭和初期にかけて、一万二千坪の敷地に東山を借景とした築庭と延べ二百四十坪に及ぶ数寄屋造りに大改築された。 建築にあたった棟梁は、京数寄屋造りの名人と称された 中村外二(なかむらそとじ)、築庭は、佐野(さの)藤(とう)右(え)衛門(もん)一派の作と伝えられている。 その後現在まで、日本情緒あふれる名建築・名庭として著名人をはじめ多くの人々に親しまれ、近年では囲碁本因坊や将棋名人戦の舞台にもなったことが知られている。 山門を入ると、数十種類のもみじや苔、数百本の馬酔木(あせび)、比叡山の伏流水が、主庭「山(やま)露(ろ)路(じ)の庭」、「瑠璃の庭」、「臥(が)龍(りょう)の庭」を四季折々の趣で彩っている。 ◆瑠璃の庭 八瀬逍遥、風雅有情。 花馬酔木と青もみじがまばゆい春、一面錦に彩られる秋…。 豊かな自然と日本情緒あふれる建造物や名庭があやなす四季折々の興趣。 ◆山門 叡山電鉄の八瀬比叡山口駅より高野川の清流に沿い、橋を渡ると瀟洒な姿が目に入ります。 ◆山露路(やまろじ)の庭 苔むした庭から見え隠れする茶庵と十三重の石塔。よく手入れされた数十種のカエデが、春の青もみじ、秋の錦繍を競い合います。 ◆玄関 池に掛かる石橋から、泳ぐ鯉を見下ろせば、すぐそこは玄関。数寄屋造りの優雅さに期待が弾みます。 ◆書院 典雅な中にも匠の技が光る名建築。「瑠璃の庭」を一望して、至福の一時がゆるやかに流れます。 ◆瑠璃の庭 一面に苔の絨緞で覆われた当寺の主庭。苔の間をぬって一条のせせらぎが優美な曲線を描き、清らかに流れます。 ◆臥龍(がりょう)の庭 今にも天に駆け昇ろうとする龍を水の流れと石組で躍動的に表した池泉庭園。佇む人の心を解き放ち、昇運の兆しをもたらします。 ◆茶庵「喜鶴亭」 三条実美公ゆかりの由緒ある茶室。和敬静寂の精神を映す千家第六代覚々斎原曼好みの佇まい。 ◆花馬酔木と紅葉 春は白いつぼ形の可憐な花を咲かせる樹齢百年を超える花馬酔木の花。秋は異なる種類のカエデの木々が錦織の景観を見せてくれます。 ◆八瀬名物「かま風呂」 日本式蒸し風呂の原型であり、有名な「八瀬のかま風呂」の現存する希少な遺構。ご見学も可能です。