三千院

天台宗の門跡寺院で、伝教(でんきょう)大師が比叡山に一宇を建てたのに始まり、その後、近江東坂本・その他に移り、天正年間(1573~1592)この地に移った。 本堂往生極楽院(重要文化財)は、寛和元年(985)の建造と伝え、舟底の天井で名高く、内陣に金色丈六の阿弥陀如来坐像・観音勢至の両脇侍(重要文化財)を安置する。池泉廻遊(ちせんかいゆう)式の庭園有清園は、茶人金森宗和の作庭といい、宸殿の虹の襖絵は下村観山の丈作で、客殿の襖絵は竹内栖鳳(せいほう)等、近世画家五氏の筆である。 ◆由緒 大原の地一帯は、千有余年の昔から魚山と呼ばれ、天台声明(仏教音楽)の修行の地として信仰を集めた所です。 三千院は別名を梶井門跡、梨本門跡、円融院門跡とも呼ばれる天台宗五箇室門跡のひとつであります。 門跡寺院とは、皇子皇族が住職になられた御寺で、当院は宮門跡であります。開基は伝教大師最澄上人(767~822)で、本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)です。 移りゆく自然と歴史のなかで、御参拝の皆様には心安らかなひとときが得られることと存じます。ようこそお参り下さいまして、ありがとうございます。 ◆往生極楽院 平安時代の寛和2年(986)に建立された三千院の源ともいえる簡素な御堂。恵心僧都が父母の菩提のために姉安養尼とともに建立したと伝えられます。御堂内部の、船底天井および壁画は極楽の花園の図を、極彩色で描いております。単層入母屋造柿葺で、阿弥陀如来座像を中心に、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩。いずれも正座しています。 それはちょうど、掌をあわせて皆さんをあたたかくお迎えして、「どうぞ私の掌にお乗り下さい。苦しみの世界から楽しみの世界にお連れいたします。」と言っているお姿なのです。 ◆庭園 客殿・見所台からは聚碧園、宸殿からは往生極楽院に通じるところに有清園の庭園がそれぞれみえます。とくに杉木立と苔、紅葉は見事です。 ◆客殿・円融房・宸殿 客殿には鈴木松年、竹内栖鳳など明治の京都画壇を代表する日本画家の襖絵や古文書を観ることができます。また客殿から見所台を通って法話を聞いたり、希望者は写経ができる円融房があります。 宸殿内仏には恵心僧都の阿弥陀如来、救世観音菩薩、不動明王(いずれも重文)をお祀りしております。玉座の間は虹の間とも呼ばれていて、下村観山の筆になるものです。 宸殿は歴代住職、有縁無縁の方のご回向法要を行います。とくに毎年5月30日には、後醍醐法皇から伝承されている御懺法講(声明による法要)を奉修する道場でもあります。 ◆金色不動堂 平成元年に建立されたご祈願の根本道場。堂内には、長い間秘仏であった金色不動明王(智証大師作)を本尊としてお祀りしています。 ◆観音堂 二十五菩薩を中心に、補陀落浄土に模した石庭のかたわらに、身の丈3メートルの観音像が奉祀され、またご縁の方の小観音像がその両側に安置されています。奉安のご希望の方は係員までお申し出下さい。

八瀬天満宮

祭神として菅原道真(すがわらのみちざね)(八四五~九〇三)を祀る。 道真が亡くなった後、師である叡山(えいざん)法性坊阿闍(ほうしょうぼうあじゃ)梨(り)尊(そん)意(い)(八六六~九四〇)の勧請(かんじょう)により建立されたと伝えられ、社殿の背面扉の内側には、十一面観音絵像が祀られている。 十一面観音は道真の本地仏(仏としての姿)である。 道真が若い時、自己研鑽のため比叡山へ通う折り、此の地で休息したといわれ、江戸時代まで「矢(や)背(せ)天神宮」とも呼ばれたこの辺りの風情は、壬申(じんしん)の乱(六七二)の際,此の地で矢傷を癒した天武(てんむ)天皇以来の歴史を偲ぶことができる。 天満宮社には九つの摂社が祀られ、本殿南側の秋元(あきもと)神社は、宝(ほう)永(えい)七年(一七一〇)比叡山との境界論争勃発の際、八瀬村の利権(租税の免除)を認めた裁決の報恩として、時の幕府老中で,この訴訟の担当者であった秋元(あきもと)但馬(たじまの)守(かみ)喬(たか)知(とも)を祀り、以来毎年「赦免(しゃめん)地踊(ちおど)り」が奉納されている。 また裏山中腹には、足利(あしかが)尊(たか)氏(うじ)に追われ比叡山へ逃れた後(ご)醍醐(だいご)天皇の行(あん)在所(ざいしょ)(天皇が外出した時の仮の御所)があった「御所谷」、境内には、「後醍醐天皇御旧跡」、「復租紀恩碑」、「皇后陛下御歌碑」、「弁慶背比べ石」、「菅公腰掛け石」等の史蹟がある。 天満宮社の例祭は五月五日。 秋元神社の例祭「赦免地踊り」(八瀬郷土文化保存会執行)は十月体育の日の前日夜に実施される

鞍馬寺

奈良唐招提寺(とうしょうだいじ)の開山鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟で、慈悲の権化といわれた鑑禎上人が、宝亀元年(770)正月4日に、白馬(あおうま)が鞍を置いて雲中にあるかのようなたたずまいを、この山容に感じて霊地と定め、さらに毘沙門天を感得してその姿をまつったのがこの寺のはじまりである。 4600

宝泉院

宝泉院の庭園は、竹林越しに大原の山並みが美しい借景庭園。建物と自然が一体となり額縁庭園とも。 客殿正面には樹齢 700年を越える巨大な五葉松。 ◆由緒 平安初期、比叡山に天台仏教を開いた最澄の高弟・円仁が唐に渡り、十余年間の仏教修学を終え、帰国し、叡山に密教、五会念仏、等またその法要儀式に用いる仏教音楽「声明」を伝えた。 後、長和二年(1012)寂源は大原寺(勝林院)を創建し、法儀声明を盛んにした。 平安末期、良忍が出るに及んで大原は、法儀声明の修学地(声明の里)として有名になる。 当院は、大原寺(勝林院)住職の坊として平安末期頃よりの歴史をもち、現在に至っている。 ◆建物 室町時代文亀二年の再建といわれるが、建物等の形式からみて江戸初期頃の再建だと思われる。 ◆額縁庭園 客殿の西方、柱と柱の空間を額に見たてて観賞する。竹林の間より大原の里の風情を満喫できる。庭の名前は盤桓園(立ち去りがたい意)と称する。 ◆鶴亀庭園 江戸中期作、部屋の中から格子ごしに観賞する。池の形が鶴、築山が亀、山茶花の古木を蓬莱山とみる名園である。 ◆血天井 慶長五年関ヶ原合戦前、徳川の忠臣・鳥居元忠以下数百名が豊臣の大軍と戦い伏見城中で自刃した。その武将達の霊をなぐさめ、供養のために、自刃した場所のものを天井にして祀ったものである。 ◆石盤 サヌカイトといわれる美しい音が出る石である。当院の住職で声明の大家であった深達僧正(明治時代)が音律を調べるために愛用されたものである。

寂光院

寂光院の庭園は心字池又は汀の池、千年の姫小松、苔むした石、汀の桜等、平家物語当時の面影を残している。 北庭園は、四方正面の池がある回遊式庭園で林泉木立、水清き池で古き幽翠な名作の庭である。 三段の滝は玉だれの泉水といい、高さ角度とも絶妙なバランスがとれ、そのひびきはそれぞれ異なった音色が一つに合奏しているようである。

由岐神社

大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っている。 天慶3年(940)御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請(かんじょう)したのが当社の初めといわれ、天皇の御病気や世上騒擾(そうじょう)のとき、社前に靭(ゆぎ)(矢を入れる器具)をかかげて平安を祈ったため靭社の名がついたと伝え今日では由岐神社とかえている。 拝殿(重要文化財)は別名を荷拝殿または割拝殿といい、桁行六間・梁間二間・入母屋造桧皮葺(いりもやづくりひはだぶき)で、慶長15年(1610)豊臣秀頼によって再建された。 崖にのぞんで建てられ、後方は崖上に出て、前部は舞台造となっている。 このほか石造の狛犬(こまいぬ)一対も重要文化財に指定されている。 有名な鞍馬の火祭はこの社の例祭で、毎年10月22日夜行われ、祭神遷座の時、葦のかがり火をたいたという故事にかたどり里人が大小さまざまの松明(たいまつ)をかついで鞍馬街道から当社へ参詣するので一面火の海となって壮観を極める。 ◆御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)(別称 大国主命) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 相殿 八所大明神 ◆御由緒 天慶3年(940)旧暦9月9日に天下泰平・万民の守護神・都の北方の鎮めとして朱雀天皇の詔により御所に御祀りされていた由岐大明神がこの地に御鎮座なされました。 その様子を遺し伝えたのが『鞍馬の火祭』の起源であります。その後、豊臣秀吉公の崇敬も厚く御本殿、拝殿は豊臣秀頼公によって再建されました。現在は、拝殿(国の重要文化財)のみが残っております。 ◆御神徳 御祭神は国を治め、人民の生活をお教えになり、特に医薬の道をお授けになった医薬の祖神であります。そのため商売繁盛・病気平癒・縁結び・安産・厄除火難除の神様として古くより信仰をあつめております。 御神階 天正17年(1589年)御陽成天皇正一位宣下 例祭 10月22日「鞍馬の火祭」

勝林院(問答寺)

1186年(文治2)法然上人を招き、諸宗の学僧と浄土の宗義を論談した「大原問答」はここで行われ。 寺は寂源法師が長和2年(1013)に国家安穏の為に当院を建立して声明等を興隆し、山号を魚山(ぎょざん)と号した。 寺院で行われる法要儀式の中で、仏教の経典などに節をつけて仏教音楽である天台声明(しょうみょう)の発祥の地。 天台宗。法然上人25霊場めぐりの第21番目の霊場。 ◆由緒 魚山(ぎょざん)と号する天台宗の寺院である。 円仁(えんにん)(慈覚大師(じかくたいし))が唐から持ち帰り、比叡山に伝承した法儀声明(ほうぎしょうみょう)の修練道場として、弟子の寂源(じゃくげん)が長和二年(1013)に創建し、後に天台声明(しょうみょう)の根本道場となった。声明とは、インドで始まったバラモンの学問の一つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。 文治(ぶんじ)二年(1186)に、天台宗の顕真(けんしん)が浄土宗祖の法然(ほうねん)を招き、専修念仏について論議した「大原問答」が行われた所でもある。伝説では、その際に、本尊の阿弥陀如来が手から光明を放って念仏の衆生済度(しゅじょうさいど)の証拠を示したといわれ、本尊は「証拠(しょうこ)の阿弥陀」と呼ばれた。 本尊を安置する本堂は、鐘楼とともに、京都市の有形文化財に、また、創建当時の梵鐘と境内東側の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、国の重要文化財に指定されている。 

貴船神社

創建年代不詳。水の供給を司る神「たかおかみのかみ」を祀り、歴朝はじめ現在も農漁業、醸造業者らの信仰が厚い。 社殿は1055年(天喜3)元々の御鎮座地より現在の本宮の遷へ移されたという。 元々の御鎮座地は奥宮としてお祀りされている。古くから「氣生根(きふね)」とも表記され、氣力の生ずる根源の地であると信仰される。御神徳は運気隆昌、諸願成就。 また、平安時代の女流歌人、和泉式部も参詣し、不和となった夫との復縁祈願が成就した逸話があり、えんむすびの神としても若い世代より絶大な崇敬を集めている。 水徳神高おかみの神(たかおかみのかみ)を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書いたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。 延喜の制には名神大社となり、二十二社の一つに列せられた。弘仁9年(818)以来歴朝の奉幣、祈願がたびたびあり、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬または赤馬が献ぜられるのが例であった。 江戸時代には賀茂別雷社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以後独立した。 本殿、拝殿、権殿(ごんでん)等があり、本殿は文久3年(1863)に改修された。川に沿って上ると奥の宮がある。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船石といって船の形に積んだ石墨がある。

光雲寺

霊芝山(れいしざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する。 南禅寺北ノ坊とも呼ばれる。 もと摂津(大阪府)にあったが、寛文年間(1661年頃)後水尾天皇及び中宮東福門院(徳川家康の孫娘和子)が南禅寺の英中禅師に深く帰依され、当寺をこの地に移して再興された。 本尊には、東福門院(とうふくもんいん)の釈迦如来と観音菩薩を賜って安置した。 歴代皇室の尊崇あつく、元久邇(くにの)宮家の菩提所となっている。 もと境内は広大であったが、火災に遭い、また明治の初めの変革により縮小された。 本堂には、本尊のほか左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者東福門院の坐像を安置する。 書院南の庭園は、昭和の初め造園家小川治兵衛が作庭した。 疏水の水を引き、背景の山を借景とした池泉廻遊式の名園となった。 朝鮮伝来の碼碯(めのう)の手洗鉢が庭の東北隅にあって有名である。 寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。