毘沙門堂 勝林寺

東福寺の塔頭で、天文十九年(一五五〇)に第二百五世住持・高岳令松によって創建された。 仏法と北方を守護する毘沙門天を祀ることから「東福寺の毘沙門天」と呼ばれている。 もと、海蔵院という寺の鬼門に当たった事からその鎮守とされ、やがて東福寺一山の鎮守として祀られるに至った。 本堂は大壇那であった近衛家の大玄関を移して建立され、境内には一切経を埋めた石塔が建てられている。 毘沙門堂に安置する毘沙門天立像は、高さ百四十五・七センチメートルの等身大に近い一木造の像で、左手に宝塔、右手に三叉戟をもった憤怒相、作は平安時代十世紀後半頃に遡ると言われている。 長く東福寺仏殿の天井裏にひそかに安置されていたが、江戸時代に開山・高岳令松の霊告により発見され、勝林寺の本尊として祀られたという。 脇侍の吉祥天像、善膩師童子像はともに江戸時代の作で、衣の色彩も鮮やかに残っている。

龍吟庵

臨済宗東福寺塔頭。 1291年(正応4)東福寺三世大明国師無関普門(南禅寺開山)の住房跡で、多くの文化財を有する。 本尊宝冠釈迦如来。国宝方丈・庭園(重森三玲作庭)・特別公開時のみ。 開山堂に、寄木造、玉眼入り、彩色の等身大で、曲ろくに座す大明国師像(重文)を安置する。 庫裏・表門とも重文、方丈は、現存する最古の方丈建築(国宝)。

清水寺 成就院

清水寺成就院の庭園は、烏帽子石、籬島(まがきじま)石などの奇石を配した借景式・池泉鑑賞式庭園。 蜻蛉(かげろう)燈籠、手毬(てまり)燈籠、誰ヶ袖(たがそで)手水鉢など、他では見られない石造の珍品も。 江戸時代初期の作庭で、心字池に映る月影が見事で、「月の庭」といわれてきた。 向かいの山腹は石燈篭を置き、遠近感を出す工夫が面白い。 国の名勝に指定されている。

新日吉神宮

永暦元年(1160)後白河法皇が、その御所法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王(ひえさんのう)七社(日吉大社)を勧請されたのが当社のはじまりである。 創立当初の社地は今の市立美術大学付近の地で、その後元和元年(1615)豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、さらに明治30年(1897)この地に移った。 祭神は後白河法皇の他、大山昨命(おおやまくいのみこと)など山王七柱を主神とし、相殿に素戔鳴尊(すさのおのみこと)、大年神(おおとしのかみ)を祀っている。 社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、現在の本殿は、天保6年(1835)の改造で、大きな流造(ながれづくり)である。 古くから朝廷の崇敬厚く上皇の御幸(ぎょうこう)は108度に及んだといわれ、また数多く天皇の遺物、宸筆を蔵している。 なお江戸後期の小沢蘆庵(おざわろあん)をはじめ多くの文学者の稿本など近世文学の資料を蘆庵文庫の名で宮司家が保存していることは名高い。

若宮八幡宮

当社はもと六条醒ヶ井(さめがい)にあり、源頼義(よりよし)(八幡太郎義家の父)が八幡の若宮として祀ったものと伝えられている。 当初は六條(ろくじょう)八幡、左女牛(さめがい)八幡とも呼ばれ、源氏一族や多くの武士からの信仰厚く、室町時代には足利歴代将軍の崇敬を集め隆盛を極めた。 しかし、応仁の乱により社殿は荒廃し、以後社地も転々とし、慶長10年(1605)この地に移った。 現在の社殿は承応3年(1654)に再建されたもので、本殿には仲哀(ちゅうあい)天皇、応神(おうじん)天皇及び神功(じんぐう)皇后を祀り、相殿(あいどの)には仲恭(ちゅうきょう)天皇を祀っている。 毎年8月7日から10日までの間には若宮祭とその協賛行事として陶器祭が行われる。 陶器祭は後に合祀された陶祖椎根津彦命(しいねつねひこのみこと)の祭礼で、氏子の陶磁器業者が中心となり、五条坂一帯で盛大な陶器市が開かれる。

長楽寺

805年(延暦24)最澄(伝教大師)が創建、天台宗に属したが室町初期に国阿上人が時宗に改宗。 建礼門院が平家滅亡後、この寺で落飾した。 安徳天皇の御衣で作った仏幡などの寺宝を展示(現物は春季特別展(4/1~5/10)のみ展観)。 頼山陽・頼三樹三郎親子の墓がある。 円山公園の奥。 時宗の祖師一遍上人像他6体の重要文化財の肖像彫刻がある。 相阿弥作庭園。 徳川慶喜ゆかりの「尊攘苑」(水戸烈士墓所)。 市内一望絶景地。

霊雲院

霊雲院は室町時代後期、大永6年(1526)薬師寺備後守国長の室・霊雲院清範尼のもとめにより、大休国師がその師・特芳和尚を開山として創立した妙心寺四派本庵の一つである。 特芳和尚は雪江和尚の弟子で霊雲派の開祖である。 大休国師は識徳一世に高く、後奈良天皇は深く国師に帰依せられてしばしばここに行幸された。 書院(重要文化財)は室町時代末期のもので、西北の間を後奈良天皇御幸の間と伝え、書院造初期の構造を示している。 庭園(名勝史跡)は是庵の作と伝え、室町時代末期の枯山水で極めて狭小な地域に絵画的手法をもって樹石を配置している。 寺宝に狩野元信筆・紙本水墨淡彩・山水花鳥図49幅(重要文化財)がある。 なお、門内左手に哲学者西田幾多郎の墓もある。

仲源寺(目疾地蔵尊)

治安2年(1022)に定朝が四条橋の東北に地蔵尊を祀ったのに始まるといわれます。 安貞2年(1228)の洪水の際、雨が止むように祈願を行い、後堀川天皇の勅願寺ともなった。 本尊の地蔵尊も雨止地蔵と名付けられたという。 雨止地蔵は後に転訛して目疾(めやみ)地蔵となり、眼病に霊験があるとして、江戸期には名地蔵の一つにも数えられた。