創建養老2年(718)と伝えられ、式内社である。 大歳神 相殿に石作神、豊玉姫を祀ってある。 大歳神は農耕生産厄除を司る神である。 石作神は代々石棺を造っていた豪族の祖神であり、垂仁天皇の后、日葉昨姫おかくれの時石棺を献上し、石作大連公の姓を賜った。 昭和49年愛知県岡崎市石工団地神社に分神する。 例祭は10月21日であるが、10月第3日曜日を氏子祭と定め、江戸中期より引き続き金剛流家元による奉納舞あり。 境内は栢の森と称し、杜を栢の杜とも云う。 平成7年京都市の史蹟となる。
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天鏡院
下桂御霊神社
御祭神として、左大臣橘諸兄より二代後の左中弁従四位上橘入居の御子橘朝臣逸勢公をお祀りしています。 天下に知られる能書家、特に書に秀でていたため、比叡山などの額にも逸勢公が用いられたほどです。 天皇の仰せにより、唐の国に留学もされ、唐にて秀才公と誉められ、帰国しましたが九州の伴之氏謀反(承和の変)の事件に加わっていたとのこで伊豆に追放されてしまいました。 しかし、途中静岡の三ヶ日の郷で逸勢公が亡くなりました。 やはり逸勢公は元住んでいた王城のことが忘れられなかったのか、都では不思議なことが数多く起きたため、天皇の仰せが出て都に帰っても良いとされた時、すぐに逸勢公を御霊八社の内にお祀りしました。 橘逸勢公をお祀りした下桂御霊神社の創建は、876年(貞観18年)と伝承されています。 例大祭は毎年5月第3日曜日に行っています。 樹齢400年のムクロジの樹があります。
ニ尊山 西光院
旧嵯峨街道の北、数分で渡月橋に行き着く道を南に行くと西手にニ尊山西光院がある。 西光院は平安末期の僧であり歌人である西行法師が住したと伝えられる2つの庵を起源にする西光寺と旧街道の南にあった西光庵の二寺が、明治42年に合体し、寺を改築。 山号をニ尊山、寺号を西光院と改称し、現在まで約100年その姿を保っている。 御本尊には、山号の通り旧西光寺の阿弥陀如来立像と旧西光庵の阿弥陀如来立像の二尊を祀り、身丈がほとんど同じ阿弥陀仏は並んで安置されている。 また西光院は室町中期より始まる洛西観音霊場の第29番札所である。 子供の成長と祀られた子育観世音菩薩は脇尊として厨子に安置され今も多くの巡拝者がある。 また、庭に目をやると、山門のすぐ東隣に白塀から旧街道に張り出す、たった一本の桜の老木がある。 西行法師お手植の西行桜と言われ、元々境内の北側にあった桜が長い歴史の中で植継がれ、今も地元の人達の目を楽しませている。
月読神社
十輪寺(なりひら寺)
宝菩提院 願徳寺
地図に載っていない京都一小さな拝観寺院。凛とした観音様がおられます。 本尊は国宝の如意輪観世音半跏像です。 このお寺は、「仏華林山 宝菩提院 願徳寺」といいます。約千三百年前の白鳳8年(679)に持統天皇(天武天皇の皇后)の願いによって向日市寺戸に創建されたお寺です。 徳のある願いによって建てられた寺院故に「願徳寺」といいます。南北800m東西1300mに伽藍があった大寺院で、当時の本尊は薬師如来(現在は太秦の広隆寺に安置)でした。平成15年2月、寺院跡地より湯屋(風日)の跡が発見されました。現存する東大寺の湯屋より古く、9世紀以前のものです。中興の開山としては、平清盛の弟平教盛の子である小川法印忠快という人がおられます。忠快和尚は東山三条の宝菩提院におられましたが、後に宝菩提院と共に願徳寺へ移られました。 平安時代から鎌倉時代にかけては、天台密教の秘法を行い穴太流や西山派を生みだした密教の大寺院でありました。しかし応仁の乱と信長の兵火によって諸堂ことごとく灰尽となり、江戸時代に家康の加護を受けたものの、平安時代の寺院の面影はなくなりました。昭和に入り諸堂の荒廃が進み、本尊如意輪観音及び諸仏は昭和37年に向日市寺戸より勝持寺(花の寺)に移動安置され、本堂と庫裡は48年にこの地に再建されました。34年を経、本尊如意輪観音及び諸仏は平成8年12月に勝持寺より願徳寺に帰座されました。 ◆如意輪観世音菩薩半蜘像(心願成就・子宝授与) 権(カヤ)の一木から彫られています。お顔の相や衣の様子から明らかに唐の様式による像で、中国よりの渡来仏あるいは渡来人の作の両説があります。色彩金箔を施して無く、木そのままのお姿で、1200年の間に自然に木の肌が変わって来ました。座り方は半蜘踏み下げの像・遊戯(華)座とも呼びます。白毫は水品、瞳は黒曜石。上の手は、生老病死などの恐れを取り除く(施無畏)、下の手は、願いを叶える(与願)という印です。 ◆薬師瑠璃光如来(無病息災安産端正) 左手に薬壺を持った藤原時代のやさしい顔のお姿です。体・心の病気、安産・長寿、古くは疫病の知識が少なかったので疫病撲滅や平和でありますようにと国土安泰などお願いしました。現世利益と言って生きている聞のことをお願いします。 死後の極楽往生をお願いする阿弥陀様は、西方極楽世界におられますが、現世利益をお願いする薬師様は東方浄瑠璃世界におられますので、薬師瑠璃光如来とお呼びます。
大悲閣 千光寺
正しくは、嵐山大悲閣千光寺(せんこうじ)と号する禅宗の寺である。 当寺は、慶長19年(1614)角倉了以(すみのくらりょうい)が、二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に請じて建立した寺院である。 了以は、我国民間貿易の創始者として、南方諸国と交易し、海外文化の輸入に功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天龍川、高瀬川等の大小河川を開鑿(かいさく)し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し、開鑿工事に関係した人々の菩提を弔うため、この寺を建てたといわれている。 本堂には、了以の念持仏であった本尊の千手観音像及び法衣姿の木像了以像を安置している。 境内には、了以の子、素庵(そあん)が建立した林羅山(はやしらざん)の撰文による了以の顕彰碑や夢窓国師(むそうこくし)の座禅石と伝える大きな石がある。 嵐山渡月橋から大堰川の右岸を約1km上流に上りますと、大悲閣千光寺にあがる参道の石段が見えてきます。そして、その石段を登ると、嵐山中腹に位置する千光寺に至ります。山門を潜り鐘楼の脇を上がると展望台に出ます。山号を嵐山、寺号を大悲閣千光寺と言い、当初は天台宗、文化五年以降は黄檗宗となり、本尊は恵心僧都作と伝える千手観音です。千光寺は、もと清涼寺の西方中院にあって、後嵯峨天皇の祈願所でしたが長らく衰退していました。 慶長十一年(1606)に保津川開削に成功した嵯峨の土倉業、角倉了以が同十九年に現在地へ移し、大悲閣を建立し、二尊院の道空了椿を請じて中興の開山としました。了以は天台宗を奉じていましたが、子孫の角倉玄寧が文化五年(1808)に大?を迎えて再興したとき、寺は黄檗宗となりました。 ※ 川の流れの方向(下流側)をみて右側が右岸、左側が左岸です。 ◆由緒 大悲閣は禅宗寺院で、大堰川(保津川)の右岸を、渡月橋から溯って、約1kmの嵐山温泉から、さらにつづら折りの石段を登りつめた、山の中腹にあります。 角倉了以(1554-1614)が、河川開鑿工事に協力した人々の菩提を弔うため、嵯峨中院にあった、千光寺の名跡を移して、創建したものです。 角倉了以は大堰川、富士川、天竜川、高瀬川などの、河川開発工事を行い、また豊臣秀吉より、続いて徳川家康よりも朱印状を得て、海外貿易を行いました。 晩年は、この大悲閣に隠棲し、慶長19年(1614)7月、61歳で亡くなりました。 本尊の千手観世音菩薩は、恵心僧都(源信)(942-1017)の作と伝えられ、了以の念持仏でした。 なお、大悲閣とは、観世音菩薩像を安置した仏堂を言いますが、特に、この千光寺の事です。 了以の像は、法衣姿で石割斧を持ち、片膝を立てて太綱の上に座し、今も川の安全を見守っています。 遠く比叡山、大文字山をはじめ東山三十六峰、麓には、京都市街を一望する景色は、了以も愛し、皆さまにも四季折々に楽しんで頂ける、絶景といえましょう。 また、了以の嫡子素庵(1571-1632)は、父に協力し、実務に従事、業績を挙げるかたわら、儒学者、芸術家としても活躍し、嵯峨本の製作者としても有名です。 さらに、角倉一族のひとり吉田光由(1598-1672)は、わが国最初の算術書「塵劫記」を著し、その改訂版、類書等は明治時代まで続くベストセラーとなりました。 この為、この千光寺は、そろばん上達の寺とも呼ばれてきました。最近では、数学、理系上達の寺としても有名です。 ◆夢窓疎石国師の座禅石 夢窓疎石(むそうそせき)が座禅を組んだといわれる ◆桂川 桂川は、亀岡市中域から嵐山あたりまでは保津川(ほづがわ)、嵐山公園あたりは大堰川(おおいがわ)、嵐山を出ると桂川と名を変える。