長谷寺 登廊

◆仁王門(重文) 長谷寺の総門で、額は後陽成天皇の御宸筆、楼上に十六羅漢、両脇に仁王像を安置。初めは平安時代、一条天皇の御代。幾度か火災にあい、現在のは明治十八年(1885)の再建。 ◆登廊(重文) 百八間、一二九九段、回廊形式の登廊。初めは後朱雀天皇の長暦三年(1039)春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒御礼に寄進したもの。現在の第一、第二登廊は明治二十二年(1889)の再建。長谷型灯籠が気品をそえています。

長谷山口神社

当神社鎮座地は字手力雄とい い、景勝の地で、隠口(こもりく)の泊瀬山 長谷山の鎮護の神として延喜式 神名帳に見え、六所山口社の一 社にあたる古社であって、ご祭 神は大山祇神、天手力雄神、相 殿に豊受姫神を祀っている。 当社の由緒は極めて深く、霊 験あらたかにして、あまねく人々 の安泰繁栄と五穀豊饒の守護神 として崇拝されている。 祭礼は、正月、八月三十一日

三輪明神 大神神社

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ)が、自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおものぬしのかみ)(詳しくは(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと))の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。 5068

長谷寺 五重塔

当山は山号を豊山(ぶざん)と称え、寺号を長谷寺(はせでら)と申します。 「こもりくの泊瀬山」と万葉集にうたわれていますように、この地は昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬(はつせ)などと美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。 朱鳥(あかみどり)元年(686)道明上人は天武天皇のおんために銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置され、のち神亀四年(727)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩をおまつりになられました。 上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳であり、当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれであります。 現在長谷寺は真言宗豊山派の総本山として、また西国三十三観音霊場第八番札所として、全国の末寺三千余ケ寺、檀信徒はおよそ三百万人といわれ、四季を通じ「花の寺」として多くの人々の信仰をあつめています。

狭井神社

当神社は、第十一代垂仁天皇の御世(約二千年前)に創祠せられ、ご本社大神神社で大物主神「和魂」をお祀りしているのに対して「荒魂」をお祀りしています。 「荒魂」とは進取的で活動的なおはたらきの神霊で、災時などに顕著なおはたらきをされます。特に身心に関係する篤い祈りに霊験あらたかな御神威をくだされ、多くの人々から病気平癒の神様として崇められています。 今「くすり祭り」と知られる鎮花祭は、西暦834年施行の「令義解」に「春花飛散する時に在りて、疫神分散して瘟を行ふ。その鎮遏の為必ず此の祭りあり。故に鎮花といふ也」と記され、万民の無病息災を祈る重要な国家の祭りとして定められております。 予って、別名、華鎮社・しずめの宮と称されています。 又、御社名の「狭井」とは神聖な井戸・泉・水源を意味し、そこに湧き出る霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています。 御例祭   4月10日 鎮花祭   4月18日 狭井神社の霊泉この霊泉は神体山・三輪山から滾々(こんこん)と湧き出た御霊水で清澄且つ一種の風味を称え遠近より拝受に来る者四時絶える事がありません 酒造家は醸酒製薬業者は製剤に、更には書画に精進される方はその用水にいずれも広大な霊徳を頌して当狭井神社の御神威とともに天下に伝承せられています ◆御神水についてのお願い この御神水は神体山・三輪山から湧き出た御霊水です。古くから霊験あらたか「くすり水」として病気平癒、身体健康、福寿延命等の願いを込め毎日大勢の方々が受けておられます。 正に御神水は信仰のお水であり神様からの贈り物であります。湧き出る水量に限りがあり時と場合によっては渇水が心配されます。皆さんで等しく分かち合って戴かれることを願っております。 然しながら近年ミネラルウォータ感覚で大量にお持ち帰りになる方を見受けます。お一人で大量に汲まれますと水量が底をつき他の参拝者にご迷惑を及ぼします。宜しくご理解ご協力の程お願い申し上げます。

法起院

法起院は奈良県桜井市初瀬に所在する長谷寺の塔頭寺院である。宗派は真言宗豊山派。本尊は徳道上人。西国三十三所番外札所である。 御詠歌:極楽は よそにはあらじ わがこころ おなじ蓮の へだてやはある。 寺伝によれば奈良時代の天平7年(735年)に西国三十三所を創始したと伝えられている徳道がこの地で隠棲した事に始まるとされる。徳道は晩年、境内の松の木に登り法起菩薩となって遷化したと言われる。当院の名称はそれに由来する。境内には徳道の廟と伝えられる十三重石塔がある。 江戸時代前期の元禄8年(1695年)長谷寺化主の英岳僧正が寺院を再建し、長谷寺開山堂とした。

安倍文殊院

当山は西暦645年(大化元年)に「安倍(あべ)一族」の本拠地の中心地であったここ阿部の地に、大化改新新政府の左大臣(現在の内閣総理大臣)となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)公が安倍一族の氏寺(いわゆる現在の私立)「安倍寺」を建立したのが始まりです。 七世紀頃における安倍一族は、その中頃に倉梯麻呂公が左大臣となられ一族の勢力は最高潮を迎えた。かくしてその一族の力を誇示する意味も含めて、安倍寺は現在当山のある南西三百mの地に法隆寺式七堂伽藍配置の大寺院として五重塔を聳えさせ威風堂々の姿で建立されたのである。(古文書・・東大寺要録末寺の章に記述有り)(現在「安倍寺」跡は国指定の史跡公園として保存されている) 安倍寺の地においては奈良時代に「天の原ふりさけ見れば春日なる…」の万葉歌で有名な「阿倍仲麻呂公」や平安時代には大陰陽師として有名な「安倍清明公」がご出生されるなど、当地出身者には歴史上有名な人物の枚挙にいとまがない。 創建当時の安倍寺は国家鎮護並びに安倍一族繁栄の祈祷が主であったが、平安時代に当山で安倍清明公がご出生され、没後に「魔除け災難除けの神」として祀られるようになると一般庶民を含めた祈祷の寺の色彩を強めていった。 平安時代中期頃の安倍寺の勢力を窺う資料としては「大鏡(下巻)」に「奈良十五大寺」の一つとして挙げられており、寺坊四十九坊の存在が記録として残されている。又平安時代の末には現在の当山の在る地に本山安倍寺の別所(現在の当山)が建立されるなど、寺運は益々隆昌であった。しかし当時隣接して勢力を誇った「多武峯妙楽寺」(現在の談山神社)衆徒(僧兵)の襲撃によって「安倍寺」は全山消失の憂き目に遭うのである。 かくして本山の安倍寺は再建される事無く別所寺院の現在地に統合された。鎌倉時代の初期に現地に移転後は、安倍清明公の本家寺と言う意味合いもあって「魔除け・災難除け祈祷の寺」としての色彩が益々強まり、清明公没後、彼は「文殊菩薩の化身」と言う信仰が世間に広まった事から、当山に当時でも最大級の文殊菩薩像が快慶仏師によって造られ、これ以降、文殊菩薩は当山本尊として全国的信仰を得ていくのである。 嘉吉元年(1441年)の古文書・興福寺官務牒疏には当時なお二十八坊の存在が記されており、寺運は依然として隆昌であった。しかし、永禄六年(1563年)二月、戦国大名・松永弾正の兵火に遭い一山ほとんど烏有に帰する災を受けた。この時本尊文殊菩薩の脇士四体の内一部が消失を余儀なくされたが、幸い文殊菩薩他三体の像は災を免れた。その後、寛文五年(1665年)四月に到って本堂(文殊堂)と礼堂(能楽舞台)が再建された。現在の本堂は即ちこれで、入母屋造り本瓦葺き七間四面の建物で前に礼堂を従えている。本堂の右には釈迦堂、左に大師堂、本坊、庫裡が並び庭園を隔てて方丈客殿に連なっている。 江戸中期中頃発刊された「和漢名数」の文書には「日本三文殊」の霊場寺院として当山が記載されており、当山本尊文殊菩薩の庶民信仰が、清明信仰と表裏一体の形で益々厚く全国的に広まっていった様子が窺える。 創建以来すでに一三六〇余年の星霜を経ているが、特に安倍清明公が当山にて出生されて以来の壱千年間は「あらゆる願いを叶えるご祈祷の寺」として常に一般道俗の信仰を集め今日に到っている。日本最大の文殊菩薩を本尊とする安倍文殊院こそ「安倍の文殊は智恵文殊」と歌われるように、我が国文殊信仰の霊域であり、仏徒の巡拝すべき道場である。 ◆白山堂縁結 室町時代に当山の鎮守として造られたお堂で重要文化財です。このお堂は日本最古の縁結びの神様をおまつりしています。 当山の白山堂は加賀の国(石川県)の霊峰「白山」をご神体とする白山神社の末社です。 ご祭神は全ての祖神といわれる白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)と申し別名を菊理媛神(くくりひめのかみ)とも申されます。この菊理姫は日本神話において国造りをされた伊邪那岐尊と伊邪那美尊の縁を取り持たれた神様です。「菊理姫」(くくりひめ)の「くく」とは糸をくくり整えるように男女の縁を取り持つ縁結びの神様として古来より厚く信仰されています。 この為現代でも全国から恋愛成就・良縁成就を始め「人間関係における良い縁」を頂くために参拝される方が後を絶ちません。一方、この白山堂が室町時代に当山に建立された由来は、霊峰「白山」がわが国、修験陰陽道の大霊地として厚く信仰されてきたことにあります。当山は平安時代の大陰陽師・安倍清明公が出生された寺院で陰陽道発祥源流の寺です。この為、清明公と霊峰白山は古来より深く結びつき信仰されてきました。こうした訳で、霊峰白山の末社が当地に勧進され、爾来縁結びはもとより安倍清明公に因み、方位災難除けの守護を祈願する人も多く訪れます。 ◆ぼけ酒について 「ぼけ酒」は当山が「陰陽師・安倍晴明公」出生の寺院であることから、2004年の「安倍晴明公 一千回忌」を記念して、参拝者に供する為に料理する「健康薬膳精進料理」に添える食前酒として、境内植え込み他特別栽培の「木瓜(ぼけ)の実」を採取し、特別に醸造した薬膳酒でございます。 尚、この「ぼけ酒」を醸造するにあたっては、奈良県工業技術センター並びに今西酒造株式会社に製品開発を依頼し、この度完成したものでございます。

談山神社

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。 たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。 藤原の姓はここに始まります。鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立した。 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。 ◆由緒 大化改新発祥之地 大和国多武峯鎮座 御祭神 藤原鎌足公 藤原鎌足公は、推古天皇二十二年(613)、中臣御食子卿の長子として大和国高市郡大原に生誕され、幼名を鎌子と称した。中臣氏の祖は天児屋根命にて、代々神事を司どる家柄であり、公はその二十二代孫に当られる。 公は至誠一貫朝廷に仕え、皇極天皇の御代には中大兄皇子(後の天智天皇)と共に当神社本殿裏山の談山に於て国家革新の大業を計り、ついに大化元年(645)「大化改新」を成しとげられ、更に近江大津遷都などの国家事業に尽くし、わが国の隆昌と安泰の為に偉大な功績をのこされた。天智天皇八年(669)内大臣に任ぜられ藤原の姓を賜り人臣最高の位大織冠を授けられ、同年十月十六日薨ぜられた。白鳳七年(679)、公の長子定恵は、この多武峯の山頂に父の墓を造り、十三重塔を建て父の御霊を弔った。のちに大宝元年(701)、方三丈の神殿を建立し、御神像を奉安したのが当神社の創祀である。当神社は古来国家鎮護の神、子孫繁栄の神また全国藤氏一族総氏神として朝野野尊崇をうけ現代に至っている。

長谷寺

当山は山号を豊山(ぶざん)と称え、寺号を長谷寺(はせでら)と申します。 「こもりくの泊瀬山」と万葉集にうたわれていますように、この地は昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬(はつせ)などと美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。 5067