出世稲荷神社

寛文年間(1661-73)、聚楽第のなかにあった社を移した。 倉稲魂命ほかを祭る。 社名は豊臣秀吉の出世にあやかったもの。 本殿には6代目清水六兵衛作の神像、堂本印象の‘登り竜’天井図。 また尾上松之助寄進の石鳥居、新門辰五郎寄進の狛犬が、境内にある。 ◆由緒 足軽から関白太政大臣へと世にも希な立身出世を成し遂げられた豊臣秀吉公は幼少の頃から稲荷五柱の信仰が篤く、天正十七年(1587)に聚楽第を造営する際、天下統一の成就は稲荷信仰のおかげと感謝して邸内に稲荷社を勧請されました。 これが当出世稲荷神社の始まりです。翌年、聚楽第行楽の折に稲荷社に参拝された後陽成天皇より『出世』の称号を賜り、諸大名が開運出世祈願する社として大いに栄えました。 寛文三年(1663)にこの地に移されてからは秀吉公の出世にあやかって出世開運を願う人々がいつも絶えず、江戸時代後期には鳥居の数も三百二十九本に達したと伝えられています。 境内には秀吉公と北の政所をお祀りした豊の社があります。 出世稲荷には『開運出世の福』『衣食住の福』『地位名望の福』『農工商その他一切の生業に大繁栄の福』等の十種の神徳があるとされています。 境内の水天宮には水難・火難・病難・盗難除けのご利益があるとされ、寿石、福石、禄石の三つの石を御神体にした三石大神はかつて「勝石・取り石・打出し石』などと呼んで大変信仰した勝負運の神様です。

住吉神社

祭神は天照皇大神、田霧姫神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、神功皇后、武内宿禰命。 末社の熊丸稲荷神社の祭神は速秋津比売大神。 人丸神社の祭神は柿本人麿朝臣。 建立は保元2年、後白河天皇の勅旨を受け、藤原俊成による。 歴代天皇が歌道伝授の際に勅使を派遣し、代拝したと伝えられる。 現在の社殿は明治32年、正三位伯爵冷泉為紀卿が広く寄付を募り、同年11月に建立された。 毎年5月に例大祭が執り行われる。(5月第3日曜日、神幸祭。第4日曜日、還御祭)

天道神社

当天道神社は、延暦13年(794)、桓武天皇が都を平安京に遷都のとき、もともと長岡京に鎮座されていた天道神社を万民豊穣、子孫繁栄、悪疫退散を祈願され、三条坊院東洞院(現在の東洞院御池上る付近)の地に勧請されました。 当時の境内は1町四方におよぶ広大で荘厳な宮でしたが、その後、応仁の乱など度々の兵火に包まれました。 天正2年(1574)織田信長公により五条坊門猪熊の地を授かりここに鎮座され今日に至ります。 主神は伊勢皇大神宮の天照大神、左右に正八幡大神、春日大明神、の三柱の神々を祀る。境内社に洛陽二十五社天道天満宮、約束稲荷神社、祇園八坂神社、弁財天厳島神社を祀る。 また歴代皇室の崇敬篤く境内には明治天皇の皇后昭憲皇太后の御胞衣(おえな)を埋納した塚がある。 毎年11月3日に例大祭併神幸祭が盛大に斎行されます。 5月17日に執行される「天道花神事」は国宝上杉本「洛中洛外図屏風」にも描かれている伝承的行事であり今や天道神社でしか見られません。

火除天満宮

当社は天正7年(1579)、九州での兵乱を避けるため、筑紫国大宰府(つくしのくにだざいふ)から一人の老神官が菅原道眞の像を背負って入洛し、六条通周辺に祀ったのが始まりといわれる。 天正15年(1587)、烏丸二条の地に大雲院が開創される際に、鎮守社として迎えられ、その後、慶長2年(1597)現在地に創建された。 元治(げんじ)元年(1864)の蛤御門(はまぐりごもん)の変では、この一帯だけが奇跡的に類焼を免れた。 これ以降もしばしば火難から救われたという伝承があり、学問成就とともに火除の神として多くの信仰を集めている。 なお、境内には天満宮25社第9番の石碑がある。

五條天神社

祭神として、大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。 社伝によれば、延暦13年(794)、桓武天皇の平安遷都に当たり、大和国宇陀郡から天神(あまつかみ)を勧請(かんじょう)したのが当社の始まりといわれる。 当初は「天使の宮」(天使社)と称したが、後鳥羽天皇の時代に「五條天神宮」と改めた。 創社の頃は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来度々火災に遭い、元治元年(1864)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で社殿は焼失した。現在の社殿は近時の再建である。 当社は古来、医薬・禁厭(きんえん)(まじない)の神として広く崇敬され、今なお節分には、厄除け祈願のために参詣する人が多い。 例祭は、毎年5月10日に行われる。

御所八幡宮

応神天皇、神功皇后、比売(ひめ)神の三神を祭神とする。もと御池堺町西南角御所八幡町にあったが、太平洋戦争中、御池通の強制疎開によってこの地に移転した。 この八幡社を御所八幡宮と呼ぶのは、足利尊氏が邸内の守護神として勧請したと伝えられる由緒によってであり、尊氏の法名によって等持寺八幡とも、また高倉八幡とも呼ばれて親しまれてきた。 特に安産と幼児の守り神として有名で、三宅八幡とならんで「むし八幡」と呼ばれて世間の信仰を集めている。

岬神社(土佐稲荷)

祭神は「倉(うか)稲(の)魂(みたまの)命(みこと)」と「石(せき)栄(えいの)神(かみ)」の二柱(柱は神様を数える 単位)。 農耕・商売・土木・金工など諸業の繁栄、火難除けなどの 災厄除けにも御利益がある。 社伝では、室町時代初期、鴨川の中州の岬(突端)に祠を建てたのが由来とされている。 その後、祠は鴨川の西岸など数度遷され、江戸時代初期、この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなった。 一般に「お稲荷さん」の愛称で親しまれる「倉稲魂命」を祀るため、「土佐稲荷」と呼ばれるようになる。 以降、土佐藩士のみならず、先斗町・木屋町など周辺の町衆からも「産土(うぶすな)神(のかみ)(地域土着の神)」として熱心な信仰を集め,わざわざ土佐藩邸内に,一般人が自由にお参りするための通路を確保したほどである。 藩士たちの信仰も厚く、坂本(さかもと)龍(りょう)馬(ま)や中岡(なかおか)慎太郎(しんたろう)らも詣でていたと考えられる。 その後、明治維新により土佐藩邸が売却されると共に、神社も移転を余儀なくされ、その後幾多の変遷を経て現在地に鎮座、大正二年(一九一三)には近隣の氏子たちによって現在の社殿が建立された。 氏子地域は、北が三条通、南は四条通、東は先斗町、西は新京極。 例祭は六月十日。近年、氏子たちの力が結集された崇敬会が発足し、明治十年(一八七七)から伝わる神輿も修復され、例祭に巡幸する。