当寺は、慧光無量山本妙興隆寺(略して本隆寺)と称し、日蓮門下京都十六本山の一で、法華宗真門流の総本山である。 開山は中山大納言親通卿の子、日真で、後柏原帝より大和尚の称号を下賜された。 長享2年(1488)堂宇を四条大宮に創立したが、四代日映のとき、天文法乱のため諸堂焼失、1542年、杉若若狭守旧地の現在地に建立した。 十代日遵の時、京都御所の炎上により類焼、明暦3年(1657)名匠坂上作左衛門が再建、以来享保15年(1730)、天明8年(1788)の二度に京都大火は、西陣一帯を焼野原としたが、当寺は、奉祀している鬼子母神の霊験によって焼失をまぬがれ、「不焼寺」として有名である。 境内3300坪に西陣五井の一の名井「千代乃井」及び七代目脩に由来する「夜泣止松」がある。 本堂、祖師堂、客殿、三光殿、鐘楼、経蔵、宝蔵、南門、塔頭八ヶ院等の諸堂を有し、宝物には、日蓮上人真筆大曼陀羅、法華玄論、十六羅漢絵像、名器三管、法華経七万字版木等がある。
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清和院
第五十六代清和天皇(在位八五八~八七六)ゆかりの寺で、真言宗智山派に属する。 平安初期にその後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸宅「染殿第」の南に仁寿年間既に創建されていた仏心院を基に、清和天皇譲位後の後院として清和院が設けられたのが始まりである。 清和院は代々皇子や親王が住し、また在原業平らの歌会の場ともなったが、徳治三年(一三〇八)に再建、仏寺化された。 今も京都御所の東北に「染殿第跡」や清和院御門が現存し、その名残をとどめている。 本尊は木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代・重文)で等身大・玉眼入り、極彩色の精緻を極めた見事な尊像である。 清和天皇が清和源氏の祖であったことから、室町将軍足利氏も深く帰依し、その保護を受けて栄えたが、寛文元年(一六六一)の御所炎上の際に清和院も類焼し、後水尾院と東副門院によって現在地に移転再興された。 また、一条鴨川西岸にあった河崎観音堂が消失後合併されたため、洛陽観音霊場の結願所でもある。
泉妙院(尾形光琳菩提所)
勝福寺(親鸞聖人旧蹟)
寺伝によれば,当寺はもと「清水(しみず)庵(あん)」、「一條坊(いちじょうぼう)」と呼ばれ、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(一一七三~一二六二)が一時期住居とした旧蹟である。 親鸞聖人は布教のため関東にて約二十年を過ごしたが、故郷の京都に戻ってきたのは、六十歳を過ぎた頃といわれる。帰洛後は主に「教(きょう)行(ぎょう)信証(しんしょう)」(親鸞の集大成的著作)の補筆完成に精進すると共に、都での教化活動にも力を注いだ。 帰洛後の住まいについては、洛中を転々としたが、嘉(か)禎(てい)二年(一二三六)に一条附近にあった清水庵に居住したという。 当寺に残る「御生(ごしょう)骨(こつ)縁起(えんぎ)」によると、この寺で教化している時、親鸞聖人の歯が抜け落ち、 「秋はつる 落葉は冬ぞ いざさらば 無量寿国の春ぞ なつかし」 と一首詠んだ。 四季の移ろいの中に自らの老いを重ねるというその歌に感動した、弟子の真仏房(しんぶつぼう)平(へい)太郎(たろう)は、聖人に対し、形見に歯を所望したところ、聖人はその願いを聴きいれ、自ら彫った木像を共に与えた。それが当寺の伝わる「落葉(おちば)の尊形(そんぎょう)(親鸞像)」であり、その由来である。 永(えい)正(しょう)十六年(一五一九)に本願寺第九世の実(じつ)如(にょ)上人は当時の一條坊善正(ぜんしょう)に対し、「当寺が親鸞聖人の重要な旧蹟であること、また落葉の尊形を子々孫々大事に保管せよ」と書状を与えている。
大応寺
十念寺
本山宥清寺
林光院
五台山 法泉院 竹林寺
護浄院
常施無畏(じょうせむい)寺と号し、天台宗の寺で通称清荒神という。 本尊の清三宝大荒神は千二百余年前、光仁天皇の皇子開成親王の作といわれ、摂津の国にあったのを後小松天皇の勅により僧乗厳(じょうげん)が醒ヶ井高辻の地に勧請し、初めて清荒神といわれた。 その後、慶長5年(1600)ここに移され、後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体を合せ祀って長日の御祈願を行い、元禄10年護浄院を院号を賜わり今日に至っている。 また、一般の家庭では、かまどの上に祀られ火の守護神とされる。 尊天堂内に安置される福徳恵美須神はもと禁裏に奉安せられていたが、明治維新に際しここに移され、京都七福神の一に数えられ、世に尊信が篤い。 なお、荒神町の地名はここより起ったものという。