源空寺

宝海山(ほうかいざん)と号する浄土宗の寺で、円光大師(法然)の霊場25ヶ所の一つに数えられている。 寺伝によれば、建久6年(1195)忍空(にんくう)上人によって、はじめ炭山(すみやま)(宇治市)の地に創建されたが、慶長年間(1596~1615)当地に移された。 本堂には、円光大師座像を安置し、二層からなる山門の階下両脇には、石仏六体地蔵、愛染明王像及び朝日大黒天像を祀っている。 この大黒天像は、豊臣秀吉の持念仏で、もと伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあったものを、一時京町大黒町に預けられたのち当寺に移されたもので、この経過により、当地はもと新大黒町とも呼ばれていた。

恋塚寺

利剣山(りけんざん)と号する浄土宗の寺院である。 寺伝によれば、平安時代の末期、北面の武士遠藤(えんどう)武者盛遠(もりとう)が、渡辺佐衛尉源渡(みなもとのわたる)の妻、袈裟(けさ)御前に横恋慕し、誤って彼女を殺してしまった。 盛遠は己の非道を深く恥じ、直ちに出家して文覚(もんがく)と名乗り、彼女の菩提を弔うため墓を設け、一宇を建立したのが、当寺の起りといわれている。 本堂には、本尊阿弥陀如来像の外、袈裟御前と源渡、文覚上人の三人の木像を安置している。 境内には、恋塚と呼ばれ、袈裟御前の墓と伝える石塔が建てられている。その傍の六字名号石は、法然上人の筆で文覚上人が建立した石板と言われ、この筆蹟は、人倫の大道を教えるものとして、古来より詩歌、謡曲などで知られている。 ◆由緒 袈裟御前の物語は古来より貞女の鑑という意味で世に傳えられ、その理想像として世人に知られているところである。 それは渡辺の橋が完成したその供養の日のことである北面の武士あった盛遠は、その日警備にあたっていた年は若干17才、はち切れそうに逞しい青年武士である盛遠には青春の血潮が燃え盛っていた。だからこの日橋のたもとで一目見かけた渡の妻、袈裟の姿に、今まで持っていた情熱が、黄恋慕というかたちであらわれたのである。 そのうえ袈裟は、 青黛の眉渡たんくわの口付愛々敷、桃李の粧芙蓉の眦最気高して、緑の簪雪の膚、楊貴妃、李夫人は見ねば不知、愛敬百の媚一つも闕ず、さしも厳女房の、心さへ情深して、物を憐咎を恐事不斜、毛嬙西施が再誕歟、観音勢至の垂跡歟 といわれるほどの美人であってみれば、心を奪われたのも当然であった。ただ盛遠の、今見出したこの恋への執念は、みさかいのない高まりにまでなっていった。 思案のすえ、盛遠は袈裟の母、衣川の許もとに行き、やにわかに刀を引き抜くや  袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞給はず、渡が許へ遣たれば、此三箇年人しれず恋に迷て、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消なんとす、恋には人の死ぬものかは、是こそ姨母の甥を殺し給なれ、生て物を思ふも苦しければ、敵と一所に死なんと思ふ也 この強迫にしかたなく衣川は袈裟を呼び寄せることを約束する。しかし約束はしたものの、もし盛遠と袈裟を合わせば渡の怨を受けることは明らかであり、約束を破れば本当に盛遠は衣川を殺すであろう。迷った衣川は娘のもとに仮病を使って手紙を出す。そして「返々忍びて只一人おはしませ」と書き添える。 驚いて飛んで来た袈裟を前に、衣川は涙をながしながらいきさつを話し、小刀を取り出して、「武者の手に係りて亡びんよりは、憂目を見ぬ前に、和御前我を殺し給へ」とさめざめと泣く。袈裟もこの無理難題には驚くが、年老いた母の命には代えられない。渡の事を想えば胸張り裂ける気持であったが盛遠の申し出を承諾する。 もはや死を決した袈裟は、 誠に浅からず思し召すならば、只思い切って左衛門尉(渡)を殺し給え、互いに心安からん、去らば謀を構ん・・・我れ家に帰って、左衛門尉が髪を洗わせ、酒に酔せて内に入れ、高殿に伏たらんに、ぬれたる髪を捜って殺し給え と話す。盛遠は大いに喜び、夜討のしたくをして日の暮れるのを待った。 家に帰った袈裟は夫渡と二人だけの酒盛をもうけ、いつもより多くの酒をかれに勧め、酔いつぶれた夫を張台の奥に休ませると、自分の髪を濡らし、烏帽子を枕元に置き 露深き浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき と辞世の句を書き終えるや、燭台の火を吹き消すのであった。運命の時が至るのを、激しく乱れ打つ胸の鼓動を静めながら袈裟は待ったのである。 一方盛遠は今宵首尾よくいけば、念願の袈裟御前が自分のものになる。そう思えばおのずと浮き立つ心をしずめながら、打ち合わせたとおり闇夜にまぎれて、今は渡に身をかえている袈裟の枕元にそれとは知らずに近づくのであった。手を伸ばせばしめし合わせた通りのぬれた髪ざわり「シメタ」とばかり、かれは唯一刀のもとに首をはね、袖にくるんで持ち去ったのである。しかし月明りのもとに照らし出されたその首は恋しい袈裟その人であった。 盛遠は袈裟の首を前にしてはじめて、自分の罪業深き身と世の無常をつくづくと感じ、ついに出家して文覚と改めたのである。頼朝に挙兵をうながしたという荒法師文覚は、この盛遠の後の姿であった。 本寺は利剣山恋塚寺と称し、境内に高さ数尺の宝筐院塔あり恋塚と称し、袈裟御前の首塚と傳えられる。また縁起石碑あり、表には渡辺左衛門尉源妻袈裟御前秀玉善尼之墓所天養元年六月文覚上人開祖恋塚根元之地、嘉應二年建立とある。 本寺の縁起物語は古来より人口に膾炙し、人倫の大道を教えるものとして、物語、小説などによって傳えられている。 古くは「源平盛衰記」より近くは芥川竜之介の「袈裟と盛遠」にいたるまで十指に余るほどである。 また、芝居、映画、舞台等にもしばしば企画され、グランプリ映画「地獄門」は本寺の物語を映画化したものであることは周知の事実である。 ◆下鳥羽 下鳥羽は昔、草津ともまた木津今津ともいった。名跡志には、草津は下鳥羽なるが、古桂川は下鳥羽の南より辰巳に流れ、淀に合す。鳥羽殿の南門に近かりき、法然上人左遷の時、南門より草津の船に向える。その様子が傳記に載せられている。 また、新拾遺集に、隆信朝臣は美福門院かくれさせ玉ひける御供に、草津と云う所より船にて漕出る。暁の空のけしき浪の音折から物かなしく読侍る。 朝ぼらけ漕行く跡にきゆるなみのあわれ誠に 浮世なりけり 名勝志には、下鳥羽今渡海場、自是乗船古草津者此所也平家物語には、治承四年、上皇(高倉)厳島御幸あり、鳥羽に立寄り法皇(後白河)に御対面あって、草津より御舟に乗玉う。とあって下鳥羽は古来より交通の要路であった。

古御香宮

日本第一安産守護之大神とされる「神功皇后」を始め九柱の神をまつる当社は、深草大亀谷敦賀町を中心とする「峠」一帯の氏神として深く信仰されている。 文禄三年(一五九四)、豊臣秀吉は伏見築城にあたり、城内鬼門除けの神として伏見九郷の石井村にあった「御香宮」をこの地に遷し、本殿等を造営して社領三百石を寄進した。 秀吉の没後、天下人となった徳川家康は慶長十年(一六〇五)城下町の人心の安定を企って、この神社を再び元の地に戻した。秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、その後に建てられたのが現在の本殿である。(平成十年五月解体修理) こうした経緯から地元の人々より「古御香宮」と呼ばれ、十月御香宮神幸祭には神輿の御旅所として神輿渡御がある。 秀吉がここに神社を祀ったのは、隣接する「桓武天皇陵墓参考地」を保護する必要上とも伝えられている。 尚、明治維新、すふぃみの戦いに際して、一時御香宮の御神霊が遷御された。

安楽寿院

真言宗の寺 保延三年(一一三七)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。 開基は鳥羽上皇、覺法法親王を同志に落慶した。保延五年(一一三九)本御堂(ほんみどう)と呼ばれる三重塔が建立され、続いて九躰阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。 保元元年(一一五六)鳥羽法皇(上皇)が本御塔に葬られた。 鳥羽天皇安楽嘉院陵はそのあとである。 保元二年(一一五七)、皇后美福門院は新御塔を建立、ここは後に近衛天皇の遺骨が納められた。 近衛天皇安楽嘉院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長十一年(一六〇六)豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたものである。 現在の安楽嘉院は真言宗智山派に属し、本阿弥陀如来座像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念寺仏と伝えられ、胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。 境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊石仏、鎌倉時代の石造五輪塔(重要文化財)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像(いずれも鎌倉時代、重要文化財等)を所蔵する。 なお、当院は鳥羽伏見の戦いのおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところである。

乃木神社

当神社は、明治天皇に殉死した陸軍大将乃木希典(まれすけ)(1849~1912)を祀り、伏見桃山御陵のそばの当地に大正5年(1916)有志の人々によって創建された。 うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり 表門は四脚入母屋造(いりもやづくり)、門扉は樹齢3000年の紅檜一幹で、巾6尺3寸余(約1.9メートル)の一枚板である。 境内には、日露戦争のときに第三軍司令部に用いたという中国風の民家、乃木将軍の遺墨、遺品、ゆかりの人々の品などを陳列した宝物館、そして、長府(山口県)にある将軍の生家を模した建物がある。 ◆由緒 大正元年九月十三日、明治天皇の崩御に殉じて乃木将軍御夫妻が自刃された。その誠烈に感激して乃木邸へ来観する人々は日を追って数を増した。そこで当時の東京市長阪谷芳郎男爵等が旧邸を保存し且つ御夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠となさんことを期し、中央乃木会を発足、明治神宮の御鎮座に続いて(大正十二年十一月一日)乃木神社御鎮座祭を執行する。昭和二十年五月二十五日、空襲により本殿以下社殿が焼失したが、全国崇敬者の熱誠により、昭和三十七年九月十三日復興した。 ◆御神徳 乃木将軍の御高徳を一語にして表すならば、忠誠に尽きる。また、明治という光輝ある時代の象徴として御祭神は祀られている。幾世代と時代が変遷しようとも、乃木将軍の自らに対し、そして国に対し誠を以て生涯を貫かれた御事蹟は、稍もすれば忘れがちな、「日本」は我々一人一人の精神の中にあるのだ、という御神訓として生きつづけるであろう。 また、乃木将軍は文武両道の神である。武に於いては一振り振り下ろせば全てを打ち払う王者の剣であり、文に於いては学習院院長時代の御事蹟が示すように教行両全の真の学問の神であらせられる。

伏見神宝神社(神宝さん)

伏見稲荷大社の千本鳥居を抜けていく途中の丘に鎮座。 天照大御神を主祭として稲荷大神を配祠、十種の神宝を奉安。創祀 は平安期にさかのぼり、かつては稲荷山上に祀られていた。 仁和年間(885~89)宇多天皇は、大神宝使を発遣するなど、皇室の信仰も篤かったが、政変などにより中世以降は廃れていった。 1957年(昭和32)に再建される。 社名の「神宝」は奉安の十種の神宝(沖津鏡、辺津鏡 、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼)をいい、物部氏の祖神、饒速日尊が天上よりもたらしたとされる。 4/18神宝大祭鳴動神事、 7月土用中の日鎮魂大祭、11/3御火焚祭。

與杼神社

豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、高皇産霊神(たかみおすびのかみ)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀り、古くは、淀姫(よどひめ)社、又は水垂(みずたれ)社とも呼ばれていた。 社伝によれば、応和年間(961~64)、僧千観内供(せんかんないぐ)が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まると伝えられている。 当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)に淀川改修工事のためここに移された。 境内には、本殿、拝殿、神輿庫(みこしぐら)をはじめ、日大臣(ひだいじん)社、長姫(ながひめ)社、川上社、豊丸社などの各社殿が建てられている。 中でも拝殿は、慶長12年(1607)に建造されたもので、国の重要文化財に指定されている。 毎年11月に行われる例祭は、「淀祭」と呼ばれ、多くの人々で賑う。