織田信長を祀る神社で、通称「けんくんじんじゃ」とも呼ばれる。 天下を統一した信長の偉勲を称え、明治2年(1869)明治天皇により創建された。 同8年(1875)別格官幣社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。 船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武に擬され、造営の基準点にされた所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅許を受け、主君である信長の廟所を定めている。 信長着用の紺糸威胴丸(こんいとおどしどうまる)、桶狭間の合戦の際の義元左文字の太刀、太田牛一自筆本の「信長公記(しんちょうこうき)」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。 10月19日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄11年(1568)初めて入洛した日を記念したものである。 ◆由緒 天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建。 1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀した。建勲の神号は明治天皇が下賜。明治8年別格官幣社指定。 なお船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点となり、また、平安時代は大宮人の清遊の地として名高い。 応仁の乱の際は西方の陣地となる。国の史跡で眺望絶景。 10月19日の大祭は「船岡祭」といい、祭神・織田信長が1568年(永禄11)、戦国の世を終わらすべく初めて入洛した日を記念した祭典。 神殿祭のあと信長公ゆかりの敦盛の舞舞楽奉納があり、年により信長公ゆかりの宝物などの公開や火縄銃の実射等の奉納がある。
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龍源院
本院は大徳寺南派の本庵で、文亀2年(1502)大燈国師八世の法孫東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登(石川県)守護畠山義元が創建したものである。 方丈・唐門・表門はいずれも創建当初の建物で、大徳寺山内最古の建物であり、禅宗方丈の典型的な形式を示している。 本尊釈迦如来像は建長2年(1250)行心の作、以上いずれも重要文化財に指定されている。 そのほか、方丈襖絵に室町時代等春筆「列仙の図」がある。庭園は各様式からなり、特に方丈北庭は室町時代相阿弥(そあみ)作と伝えられる須弥山式(しゅみせんしき)枯山水の名園、方丈東庭は珍しい壺石庭(つぼせきてい)で有名。また、方丈前庭にはもと大宮御所にあった桃山型石燈籠があり、さらに聚楽第の礎石を配した阿・吽(あ・うん)の石庭等もある。 寺宝には、他に豊臣秀吉、徳川家康が対局した四方蒔絵の碁盤、天正11年(1583)在銘の種子島銃などがある。 龍源院の方丈北庭は青苔の中に点在する石組が印象的。方丈南庭は白砂と石組の枯山水。 方丈の東には、5個の石のみで構成された簡素な壷庭「東滴壷」。
地蔵院 (椿寺)
正しくは昆陽山地蔵院といい、浄土宗の寺である。神亀3年(726)に、行基菩薩が聖武天皇の勅願によって摂津国の昆陽野池のほとりに建立した地蔵院が始まりという。 その後、平安時代に衣笠山麓に移され、室町時代初期に戦災で焼失したが、足利義満が金閣寺建立の余財で再建し、天正17年(1589)に豊臣秀吉の命によって現在地に移った。 地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、行基作の当初からのものと伝え、また、堂背後の板扉はもと北野神社にあった多宝塔の遺構とされる。 書院の前庭には、かつて、有名な「散り椿」(文禄の役(ぶんろくのえき)(秀吉の朝鮮侵略)の際に加藤清正が朝鮮蔚山城(うるざんじょう)から持ち帰って秀吉に献上し、さらに北野大茶会のときに当寺に献木されたもの)があったが、惜しくも枯死し、現在は樹齢約百年の二世椿が花を咲かせている。 境内には、忠臣蔵で有名な天野屋利兵衛(あまのやりへえ)の墓といわれるものや、与謝蕪村(よさのぶそん)の師にあたる夜半亭巴人(やはんていはじん)の墓などもある。
正伝寺
鎌倉時代、東巌慧安禅師が一条今出川に仏殿を構え、1282年(弘安5)今の地に移った。 本堂(重文)は承応2年(1652)に伏見城御成御殿を移建。内部の襖絵は狩野山楽筆。 廊下に血天井がある。 小堀遠州の作と伝える庭園は、江戸初期の枯山水。臨済宗。 ◆由緒 洛北西賀茂の正伝寺は鎌倉時代我国に来朝された宋の兀菴普寧禅師の法をつがれた東巌慧安禅師が創立せられたのであリます。 弘安5年に加茂の祠官森経久が西加茂の地に荘園を寄附して諸堂伽藍を造営して壮観を極めたと伝えられています。 爾来皇室の御信仰厚く五穀豊穣国家安泰を祈願する道場とされ、今日まで法燈700年余の歴史が続けられております。 ◆方丈(重要文化財) 伏見桃山城にあった遺構で御成殿と称せられていました、承応2年当山に移建して本堂としたものであります。 ◆襖絵 狩野山楽筆(重要文化財) 方丈の襖絵は淡彩山水図で中国杭州西湖の真景であります。この障壁画は山楽の数少ない作品の内の傑作として美術史上特筆するもので、彼の格調高き風趣を偲ふに足るものがあります。 ◆血天井 桃山城遺構 方丈の広縁の天井は関ヶ原の戦の直前伏見城に立籠った徳川方の重鎮鳥居彦エ門元忠以下千二百余名がその落城の際割腹し果てた廊下の板を天井としたものであります。今尚板上に残るおびただしい血痕は当時の悲惨な武士道を物語っています。 景近血液学の権威として知られている古畑種基博士の研究によって、368年以前の人間の血液であると云い伝えているこの斑点より反応のある科学的証明をされました。今日菩提追善の念を新たにするものであります。 ◆獅子の児渡し庭園 小堀遠州 白砂敷平庭でつゝじの刈込によって七五三調を表現した枯山水ではるかに比叡の霊峰を取り入れた借景式の庭園で、その枯淡な風格は禅苑の心のしずけさを味わしめるものがあります。
大田神社
古くは恩多社(おんたしゃ)と呼ばれたこともあり、上賀茂神社の攝社である。祭神には天鈿女命(あめのうずめみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀っており、延喜(えんぎ)式内の古社で、この付近の沼沢池を開墾して栄えた賀茂氏の崇敬をうけた神社である。 右方東側の沢地を「大田の沢(おおたのさわ)」といい、野生のかきつばたが美しい。藤原俊成(しゅんぜい)卿の古歌に 神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ と詠われ、平安時代からこの付近の沢地にはかきつばたが咲きみだれて、名勝となっていたようである。 今日でも5月中旬頃には、濃紫、鮮紫の花が美しく咲く。このかきつばたの群落は現在天然記念物に指定されている。 例祭は4月10日と11月10日である。
瑞峯院
大仙院
本院は、大徳寺北派の本庵である。 永正6年(1509)に六角近江守政頼がその子古岳宗亘(こかくそうこう)を開祖として創立した。 本堂は、入母屋造(いりもやづくり)・銅板葺で、我国最古の方丈建築遺構といわれ国宝である。 書院も入母屋造・銅板葺で重要文化財である。 庭園は、室町時代の枯山水(かれさんすい)を代表する石庭といわれ、狭い庭に無数の岩石を配して、山と滝と渓流とを表わしており、史跡・特別名勝に指定されている。 ◆由緒 大徳寺北派本庵大仙院は、永正6年(1509)正法大聖国師古岳宗亘禅師が開かれた数ある大徳寺塔頭中でも特に由緒ある名刹であり、室町時代の代表的な枯山水庭園及び方丈建築を有している。襖絵もまた相阿彌(弥)、元信、之信と貴重なものばかりである。大仙院歴代中、三世古渓和尚は、千利休の首を加茂の河原から持ち帰ったことで、七世沢庵和尚は宮本武蔵との関係で有名である。 また、利休を中心とする茶人の系譜は大仙院歴代と密接な関係があり、とりわけ利休と大仙院との関係は種々の逸話によって語り継がれている。 庭園(特別名勝および史蹟) 作者 大聖国師(大仙院開祖 古岳宗亘禅師) 作庭年代:永正6年(1509)約490年前(応仁の乱後の作庭である。) 形態:鶴島と亀島の間に蓬莱山があり、そこから滝の流れ落ちる。石橋の下をくぐり透渡殿の下をくぐった水に一旦堰に落ちて大河となり、石の宝船が浮かび小亀の泳ぐ景色を見せて遂に方丈南側の大海に至る。同じ蓬莱山の滝の水が亀島の前を通って西行すれば方丈北の中海に至る。 ◆枯山水の成立 禅宗の影響 :鎌倉初期に日本に渡来した禅宗の思想が作庭に具体的影響を持ってきたのは室町時代初期頃からである。作庭が禅思想の影響を受けると、庭園の形態が極めて抽象的となる。例えば白砂を敷いて水流を表現する。石を立てて滝の音を現す。大仙院庭園は中期のもので極めて傑作である。 水墨山水画の影響 :同じく禅思想の影響を絵画が受けるとと破墨山水の如き象徴的表現となる。しかし逆に室町時代の絵画の主流であるこの山水画の手法が庭園に影響を与えたとも言える。 政治的経済的影響 :室町時代の文化の担い手であった足利幕府を中心とする貴族・大名等の指導階級が室町中期近くなると、いわゆる下克上と言われるように、政治的に従来の権威を失墜してくると同時に経済的にも逼迫してくる。これに対応して従来のように規模壮大にして自然のままをとり入れた庭園(例-大覚寺の嵯峨離宮の庭園・西芳寺の苔庭・金閣寺の庭園等)を造営することが困難となる。 ◆建築・襖絵 国宝大仙院の方丈は室町時代のものでわが国最古の方丈建築として貴重なものである。 北の書院拾雲軒も沢庵が宮本武蔵に剣道の極意を授けた処として喧伝されているが室町時代の代表的書院建築である。 襖絵には相阿弥(~1525)の瀟湘八景・狩野元信(1476~1559)の花鳥図・同之信(1513~1575)の四季耕作図と何れも室町期障壁画中の名作として世界美術史上欠く事の出来ない存在である。現在、重要文化財に指定されて居る。
敷地神社(わら天神)
祭神のコノハナサクヤヒメは北山天神丘に古代から祭られていたが、1397年(応永4)足利義満が金閣寺造営のさい鎮守神として現在地に遷座した。 昔から安産の神として‘はら帯天神’、‘わら天神’と称えられた。 摂社の六勝神社は開運、学問の神としても知られる。 ◆由緒 敷地神社(わら天神宮)の起源は、太古山背国葛野郡衣笠村に降臨された北山の神です。 六国史を菅原道真が分類編纂した「類聚国史(るいじゅうこくし)」によれば、天長5年(828)に都に大雨、地震があったおり、時の淳和(じゅんな)天皇が勅使を遣わして北山の神に幣(みてぐら)を奉ったと見られることから、その創建は平安建都以前と推測されます。 この地に氷室が設けられることとなり、その夫役として加賀国の人々が移住してきました。彼らは菅生石部神社(現 石川県加賀市)の崇敬者であり、移住にあたりその分霊を勧請し、御祭神を菅生石部神の御母木花開耶姫命と定め、北山の神の西隣に祀りました。 応永4年(1397)、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便になったことから、両社を合祀して現在地に遷座、社号を菅生石部神の通称である敷地神社とし、爾来600年になります。当社は単に「天神宮」とも称していました。また、古来より稲わらで編んだ籠でもって神饌を捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。後にそのわらを切り取り、安産のお守りとして妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらのお守りの珍しさから「わら天神宮」という名称が広まり定着しました。
高桐院
大徳寺塔頭。1601年(慶長6)利休七哲の一人細川忠興(三斎)の創建。 利休邸移築の書院につづく茶室松向軒は秀吉の北野大茶会に用いられたものを移したと伝える。 江戸初期につくられた庭に三斎とガラシャ夫人の墓がある。 寺宝の李唐筆「絹本墨画山水図」2幅は南宋初期山水画の名作で国宝。 ◆由緒 高桐院は細川幽斎公の長子忠興三斎公により慶長6年(1601)に建立された大徳寺塔頭の一で、開祖玉甫紹踪和尚は幽斎公の弟であった。 細川三斎公は正保2年12月2日、83才の高齢で卒去、遺言によって遺骨は高桐院に埋葬された。法名の松向寺殿三斎宗立は茶席松向軒の名として接されている。 三斎公は織田・豊臣・徳川の三時代に、一貫した精神で身を処した戦国時代切っての智将であるが、公はまた利休七哲の一人として茶道との深いえにしによって有名である。 茶道の奥義を究め、歌道をたしなみ、文武両道に秀でた哲理の人であった。 正室細川ガラシャ夫人が織田の反逆者明智光秀の息女という不利の時代も光秀にくみしなかったのは、三斎公が武人として時代を超えた明晰な洞察を持っていたゆえである。 ◆庭園 高桐院参道は表門から鍵の手に磨門を望む自体石の敷石道である。春夏の青葉・枕の紅葉を天蓋に頂く一直線の参道は幽玄の気に満ちている。客殴南庭は江戸時代初期の造園。 楓樹を主とした野趣に富む庭であるが、青葉の清列・紅葉の華麗・冬の静寂と四季折々、自然の風雅をたくまずに含めた横囲は見事というほかない。茶室鳳来の西部露路の降りつくばいには、朝鮮の王城の礎石をもちかえったという蒙壮な袈裟型の手水鉢が置かれている。 高桐院の庭園美は、四季共にさまざまな変化の美しさを特色として杖引く人の眼を歓ばせている。 ◆建造物 高桐院の建造物には客殿・書院・庫裡などがある。書院は千利休居士の邸宅を移築したもので、この書院に続いて二帖台目の名茶席松向軒がある。松向軒は寛永5年(1628)三斎公の手で建立されたもの。 清巌和尚によるその由来には、常に松声を聞き且つ趙州無舌の茶味を嗜む因って松向と名づく云々とあって、茶室に珍しい黒壁は瞑想の場の感があって、簡素な中にも幽玄の雅味をたたえた名席である。 更に高桐院客殿西北部には、八帖円能斎好みの大らかで優美な茶室鳳来がある。洗練された豊かな風雅を感じるこの茶席もまた、高桐院の伝統の一面を伝えて爽やかである。 ◆墓所 三斎公及びガラシャ夫人の墓石は、生前愛好した石灯篭をもってそれに当てた。細川家の墓所の中にこの鎌倉時代の美しい灯篭墓石は、苔を褥に静かに据わっている。 これはもと利休秘蔵の天下一の称ある灯篭であったが、豊太閤と三斎公の両雄から請われて、利休はわざと裏面三分の一を欠き、疵物と称して秀吉の請を退けた。のちに利休割腹の際、あらためて三斎公に遺贈したもので無双という銘を持ちまた別名を欠灯篭ともいう。 更に蕨手・灯口・横が欠けているのは、後日完全を忌む公自身が欠いた、という記録があり、三斎公の面影が偲ばれる逸話である。三斎公の墓石とともに当院には、清巌・大心両和尚などの墓がある。 清巌和尚は、大徳寺170世の名僧で、三斎公には少なからず影響を与えた人物である。 高桐院にはまた、歌舞伎の始祖として名高い出雲の阿国、共に名を残した名古屋山三郎や、また森鴎外の著作で有名な興津弥五右衝門などの墓もある。 静かに永眠する英雄豪傑才女の歴史をしのんで、墓所には香華の紫煙が流れている。 ◆宝物 高桐院寺賓国宝李唐筆山水図双幅は、右幅に李唐画と署名のある唯一の傑作で楊柳観音図を添える。 また重文牡丹図は銭舜挙筆の名画でこの図は我が国に伝わる牡丹図中の王座を占める大作で豊公北野大茶会に使用されたものである。 ◆高桐院開祖忌 6月8日(拝観中止)・宝物曝涼展 10月第2日曜日
光悦寺
大虚山(たいきょざん)と号する日蓮宗の寺である。 当地は、元和元年(1615)徳川家康によりこの地を与えられた本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)が、一族、工匠等と移り住み、芸術郷を築いたところである。 光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した。 当寺は、本阿弥家の位牌(いはい)堂を光悦没後に、本法寺(ほんぽうじ)の日慈(にちじ)上人を開山に請じて寺に改めたものである。 ◆由緒 この辺の一帯を鷹ケ峰光悦町と称び、元和元年(1615)徳川家康公が本阿弥光悦翁に野屋敷として与えた土地である。 光悦翁はそこに一族縁者をはじめ、種々の工芸にたずさわる多くの職人と共に住居を構え、光悦翁を中心とする工芸集落を営んだ。 又同時に本阿弥家先祖供養の霊屋として位牌堂を設けたが、光悦翁の歿後、寺として日蓮宗光悦寺となり今日に到っている。 境内の一角には苔むした光悦翁の墓碑が、今も鷹ケ峰の松籟を聞きつつ静かに立っている。 ◆本阿弥光悦 本阿弥家は代々刀剣鑑定、磨砺、浄拭を家業とし、今も尚其の業を続けている家柄である。 光悦翁は永禄元年(1558)本阿弥光二を父とし妙秀を母としてその長男に生まれ幼名を次郎三郎と称した。加賀前田侯の扶持200石を父の代より受け、禁裏を始め将軍家及び諸大名の御用をもつとめたが、本業とは不即不離の芸術面にその豊かな才能を以て多くの作品を遺した事は日本文化の上に大きな功績である。 光悦翁が鷹ケ峰に工芸集落を経営したことは前にも述べたが、その創意と指導のもとに作られた多くの作品には作陶に於ける茶碗や、書道絵画における歌巻、色絵版下を書いて出版した光悦謡本等があり其の他蒔絵に彫刻と凡そ多種多様に渉っている。 然もそのいずれもが前人未踏の斬新的な表現法であり、驚嘆の目を見張らないものはない。 書道は、寛永の三筆と称され近衛信尹、松花堂昭乗と共に名筆にうたわれ、多くの秀れた遺品がある。 寛永14年2月3日その偉大な人生80年の幕をとじたのである。 ◆光悦寺の茶席 光悦翁が茶道に於いても一流儀に偏することなく、古田織部や織田有楽斎にも教えをうけ、又千宗旦とも最も深く交わって茶道の奥義を極めた。 本堂に通ずる廻廊の下をくぐり北山杉の木立ちを行けば右側に古池がある。 池の前方に三巴亭茶席がある。三巴亭の南方は光悦翁終焉の大虚庵茶席で此の席は翁の歿後廃滅したが大正4年に至り現在の大虚庵が復興したのである。 光悦垣又は臥牛垣とも称する特徴のある垣根に囲まれた内露地には石灯籠と手水鉢があり、今も昔を偲ばせている。 建物の外観は切り妻造柿葺で前面に附廂があり、入口には板戸二本引きの、にじり口、内部は五帖台目で床の間は土天井とし隅を塗廻として昔の大虚庵茶室の名残を示している。 大虚庵茶室の前方に了寂軒茶席がある。 徳友庵茶席は光悦翁の号徳友斎から採って名づけられたものである。 本阿弥庵茶席は遙かに京都市内を見下す場所に建てられている。 その他騎牛庵茶席等があり光悦寺境内に形成されている茶席の聚落は茶会の催しともなり又杖を引きて光悦翁の人柄をしたい卓越した芸術の新様式を確立した翁への敬慕に集まる人々の心の休息所となっている。