平安遷都後、嵯峨野に野宮という社ができ、伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が1年間ここに籠って精進潔斎をする習わしがあった。 4640
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妙心寺
全国に3400の寺院を持つ臨済宗妙心寺派の大本山。 1337(建武4)年花園法皇が関山慧玄を招いて開山。 この地にあった法皇の離宮を禅寺に改めた。 応仁の乱で多くの堂塔を焼失したが、細川勝元・政元親子らの援助で再興。 その後、豊臣、徳川家をはじめ諸大名が帰依し、隆盛を極めた。南から三門、仏殿、法堂と重文の伽藍が一直線に、その周囲に46の塔頭が並ぶ。 大灯国師墨跡(国宝)をはじめ、仏像、絵画、障壁画、庭園など多くの文化財を所蔵。梵鐘(国宝)は最古の銘を持つ。 建立:開創1337(建武4)年 中興1432(永享4)年 正法山と号し、臨済宗妙心寺派の大本山である。深く禅に帰依された花園法皇が開山慧玄を開山とし離宮萩原殿を改めて寺とされたのが当寺の起りで、室町初期に一時中断し再興後応仁の乱で再び焼失したが、乱後雪江宗深が再建、弟子にも名僧が出て寺運はさかんとなり、塔頭が相次いで建てられ、地方へも当寺の勢力は発展した。 現在末寺3,500余、臨済宗各派中最大である。勅使門より北へ三門・仏殿・法堂・寝堂・大方丈が一直線に並び、その東側に浴室・浴室鐘楼・経蔵が並ぶ。室町後期から江戸初期の建築で、近世禅宗伽藍の最も完備した形を示している。 大方丈の二面の庭園は清楚な名園である。法堂内に収蔵されている鐘は黄鐘調の鐘といわれ、698年の作、我国最古の在銘鐘で、形・音色にすぐれている。 寺宝には当寺の歴史に関する多くの文化財を蔵する。また、塔頭は40余に達し、禅宗本山として堂々たる寺容をほこっている。 ◆由緒 洛西、右京区花園、北には衣笠山などの美しい山々を望み、西には兼好法師ゆかりの双ケ丘、東南は開けて京の街々、遠く宇治、淀のあたりまで見わたす景勝の地、桓武天皇の遠い古へから、ここ花園の地はその名の如く、四季とりどりの花咲きにおう遊園の地であった。その一画に翠嵐ひときは濃かに、静寂さながらの聖地こそ、わが大本山妙心寺である。 いまその開創の古へをたずぬるに、花園天皇(1297~1348)いたくこの地の風光を愛でさせられ、離宮を営まれた。 天皇は仏教特に禅宗に深く帰依せられ、大徳寺の開山大燈国師の法嗣である関山慧玄を、美濃の伊深からお召しになり、離宮を改めて禅刹となされた。これが即ち正法山妙心寺の起りである。 かくて関山慧玄即ち妙心寺開山無相大師は、簡素溌刺たる禅風を以て、花園に法幢をかかげ、天下禅苑の冠と称せられるに到ったが、延文五年(1360)法嗣授翁に後事を托し入定された。第二世授翁宗弼は南朝の忠臣藤原藤房の後身ともいわれ、第三世無因宗因第四世日峰宗舜、第五世義天玄承、第六世雪江宗深と相承したが、雪江の門下に、景川、悟漢、特芳、東陽の四傑出で、龍泉、東海、露雲、聖澤の四派を生じ、門葉頓に栄えた。その後も逸材傑僧輩出して、関山禅の宗風、全国を風塵するに到り、大師の法孫で、時の朝廷より国師号を拝受したもの、禅師号を賜わったもの実に二六〇余、関係寺院全国に約三、五〇〇カ寺、僧侶約七千。教育機関としては、花園大学、花園高等学校、洛西花園幼稚園があり、禅専門の修行道場は二十一を数える。而して関山一流の禅風は遠く欧米の地にまで及んでいるのである。 本山諸堂伽藍の完備も、禅宗としては全国随一といわれ、七堂伽藍を中心に四十余の子院塔頭が、これを囲繞するさま、実に偉観であり荘厳である。また史跡名勝に指定された庭園、国宝、重要文化財の建造物、歴朝寝翰文書、絵画等の数もおびただしく、ここ花園妙心寺は現代禅の淵叢であると共に、一面わが国文化財の一大殿堂である。 ◆法堂(重要文化財) 入母屋造重層本瓦葺の大建築、明暦2年(1656)の建造、住持の演法や重要な儀式の行われるところ。天井には狩野探幽法眼守信の大傑作雲龍の図がある。 ◆大方丈(重要文化財) 入母屋造単層檜皮葺、承応3年(1654)の建造、方丈はもと住持の居所を意味したが、今は檀信徒の祖先を祀って、その供養を行う所、また説教、講演その他の会合の場所ともなり、多数賓客を応待するところともなる。本尊阿弥陀三尊はもと石清水八幡宮の奥の院に祀ってあったもので鎌倉時代の傑作である。襖の画は狩野探幽と狩野益信の筆である。 ◆妙心寺鐘(国宝) 黄鐘調鐘ともいう。徒然草に「およそ鐘のこえは黄鐘調なるべし…浄金剛院の鐘の声また黄鐘調なり」とあるその鐘で、もと浄金剛院(廃寺)にあったもの、記年銘のあるものとしては日本最古で、文武天皇2年(698)の作である。その秀高なる形態流麗なる唐草文様まことに天下の名鐘の名に恥じない。 ◆浴室(重要文化財) 三門の東側一に位置する浴室(明智風呂)は天正15年(1587)塔頭太嶺院(廃寺)の密宗和尚が、明智光秀の菩提を弔うために創建したものである。そののち明暦2年(1656)に改建された。一重切妻造本瓦葺、浴室内中央に浴槽と洗場があり、その南側に休息室が設けられてある。また東背面には竈室がある。 浴槽は蒸風呂形式で簀子板敷の隙間から蒸気を出し四壁は正面に出入口と調節窓をもち、他の三方は板壁で閉ざされている。入口正面には位牌棚があり、その中央に跋陀婆羅尊者画像(狩野宗信筆)が掲げられている。 ◆妙心寺 三門 臨済宗妙心寺派大本山で、46の塔頭寺院をもつ京都最大の禅寺。建武4(1337)花園法皇が離宮を禅寺に改めたのが始まりである。約10万坪の境内に一直線に建ち並ぶ典型的な禅宗伽藍のなかでも、三門(重文)は、唯一鮮やかな朱塗りの建物。七堂伽藍を一望する楼上には、観音菩薩像や十六羅漢像が安置されており、天井には天女や飛龍、楽器などが色鮮やかに描かれ、柱や組物一面の絢爛たる彩色が美しい。 ◆妙心寺法堂 雲龍図 狩野探幽筆 妙心寺の現在の法堂は、明暦2年(1656)に再建されたものである。その堂内の天井には周囲を霊雲でとりかこんだ円相内に、八方にらみの巨龍が描かれている。 禅宗の法堂の天井は、板が一面に張られた平たい天井に鏡天井ともいわれ、そこには必ず丸龍が描かれるならわしである。古来より龍は仏法を守護する瑞獣であるとされており、この雲龍は、上堂説法が行なわれ禅風が挙揚される。また、この法堂の空間を守る大切な役目を果たしているのである。
常寂光寺
慶長年間に本圀寺の日しん上人の穏退所を寺にした。 紅葉の美しい小倉山の中腹にあり、常寂光土に遊ぶような風情があるとこの名がつけられた。 高さ12メートル余の多宝塔(重文)が美しい。 小督局の遺品などがある。日蓮宗。 建立:1604(慶長9)年 日蓮宗の寺院である。慶長元年(1596)本圀寺十六世究竟(くきょう)院日禛(にっしん)が、この地に隠棲して開創した。寺域が小倉山の中腹を占め、幽雅閑寂で、日蓮宗教義にいう常寂光土の観があるところから常寂光寺の寺名がつけられたという。 多宝塔(重要文化財)は元和六年(1620)の建立で、並尊閣といい、前面に霊元天皇の勅額を掲げている。本堂は伏見城の建物の一部を当寺二世通明院日韶(にっしょう)が移転修造したものといわれる。 仁王門はもと本圀寺客殿の南門を移転、妙見堂は能勢妙見を分祀し、謌僊祠には、藤原定家・家隆、徳川家康の木像を安置する。 また、時雨亭は定家山荘がこの付近であるとして建てられたものである。 ◆由緒 開山は究竟(くきょう)院にっしん上人。権大納言広橋国光の息男として永禄4年(1561)出生す。幼にして六条の日蓮宗大本山、本圀寺(ほんこくじ)十五世日栖(にっせい)の門に入り、わずか十八才で同寺の法灯を継ぐ。 宗学と歌道への造詣深く、三好吉房(秀吉の姉婿)、瑞竜院日秀(秀吉の実姉)、小早川秀秋(木下長嘯子(ちょうしょうし)の実弟)、加藤清正、小出秀政、その他京都町衆の帰依者多し。 文禄4年(1595)、秀吉建立にかかる東山方広寺大仏殿千僧供養の砌(みぎり)、上人は不受不施(ふじゅうふせ)の宗制を守って出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出てこの地に隠栖し、常寂光寺を開創す。 当時歌人としても著名なりし上人に、歌枕の名勝小倉山に隠栖処として提供せし人は、角倉栄可(了以の従兄にして舅)と了以(りょうい)なり。その後慶長11年(1606)、了以の大堰川(おおいがわ)浚鑿(しゅんさく)工事の行われるや、上人は備前伊部(いんべ)の本圀寺末檀家たりし瀬戸内水軍の旗頭、来住(きす)一族に書状を送り、熟達せる舟夫の一団を招き、了以の事業を支援せり。これ即ち保津川下りの濫觴(らんしょう)なり。 上人は元和3年(1617)この地に遷化(せんげ)、時に五十七才なり。 苔衣(こけごろも)きて住みそめし小倉山松にぞ老いの身を知られける(にっしん)
天龍寺
龍安寺
臨済宗妙心寺派に属する。 もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、義天玄承(ぎてんげんしょう)を請じて禅院とし、義天はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を奉じて開山として、自らは2世となった。 一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)、細川政元が再興、その後名僧が相ついで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭(たっちゅう)23を数えるほど寺運は栄えた。 しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興しなかった。 方丈庭園(特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の名園として有名である。 長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず、象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。 あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。 その他、寺宝には、太平記12冊(重要文化財)などがある。 ◆由緒 臨済宗妙心寺派の寺院で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて禅院とし、玄承はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を開山として、自らは創建開山となった。一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)に細川政元が再興し、その後、名僧が相次いで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭(たっちゅう)23を数えるほど寺運は栄えた。しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興していない。 方丈庭園(国の史跡及び特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の名庭として有名である。長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず、象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。 方丈の東には、水戸光圀の寄進と伝えられる「吾唯足知」と刻まれた石造りの手水鉢がある。そのほか、寺宝として、太平記12冊(重要文化財)などを所蔵している。 現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したものである。方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し禅苑の名刹である。 ◆石群の鑑賞 石の象(かたち)、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、 信条によって多岐に解されている。 ◆庫裡 石段の正面の建物が庫裡で、禅宗寺院建築の簡素にして重厚、特に木組と白壁の調和がま た静寂の内に構成美をかもしだしている。 ◆鏡容池 この池は徳大寺家によって築かれたもので、かってはおしどりが群れ遊んだところからお しどり池と呼ばれた。石庭鑑賞後のひとめぐりも、何がなしぽっと心が和むのを覚えるの は、水の効果というものだろう。池の堤防からは龍安寺全景の山々が古来の姿そのままに 眺望され、四季それぞれの美しさは又格別である。 ◆つくばいと佗助椿 方丈の北東に据えてある銭形のつくばいは、一見“五、隹、止、矢"の文字に読まれるが、 中心の口を共用すれば、“吾唯足知“(ワレタダタルヲシル)と成り、禅の格言を謎解き に図案化された無言の悟道である。徳川光圀の寄進といわれている。秀吉が賞讃したと今 も伝えられる佗助の老樹が枯淡で景趣をそえている。 ◆茶室蔵六庵(非公開) 方丈から東庭を隔てた東北隅の茶室を蔵六庵という。蔵六という語は亀の別名で、頭・尾 ・四肢の六つを甲羅の中に隠すのでこの名がつけられた。江戸初期の茶人不遠庵僖首座の
仁和寺
真言宗御室派総本山。 886年(仁和2)、光孝天皇の勅願により創建、888年(仁和4)に完成。 年号を寺名とした。宇多天皇が落髪入寺し寺内に御室(御座所)を設け、御室御所とも呼ばれた。 以後、明治維新まで代々皇子皇孫が門跡となり門跡寺院の筆頭にあった。 堂塔伽藍は応仁の乱(1467-77)で多くを焼失、寛永年間(1624-44)に再興した。 金堂(国宝)は御所紫宸殿を移築。御影堂(重文)も旧清涼殿の材を用いて建立した。 霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、孔雀明王像(国宝)、三十帖冊子(国宝)など多くの寺宝を所蔵。 遅咲きの‘御室桜’は有名で名勝。 旧御室御所御殿の御所風たたずまい、豪華な襖絵が見事。 1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。 ※孔雀明王像と弘法大師の真筆三十帖冊子については展示予定無し 真言宗御室派の総本山で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 平安時代前期に光孝天皇が創建に着手した後、仁和4年(888)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名付けた。宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊を営み、30余年間修行に専心したため、法皇が御座する室(僧坊)ということから「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。 以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡西麓に仮御所をもうけた時期もあった。 現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸殿を移して金堂(国宝)をはじめ、御影(みえ)堂・観音堂・鐘楼・五重塔・経蔵・二王門(いずれも重要文化財)などは当時の建物である。仁和寺境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。 西門から成就山の麓にかけて、四国八十八ヶ所霊場を縮小した「御室八十八ヶ所巡りの霊場」があり、中門の左手には、遅咲きの桜の名所として有名な「御室(おむろ)の桜」(名勝)が見られる。 ◆名勝御室桜 中門を入ると左手に、湧き上がる雲のような御室桜が目に飛び込んできます。 御室桜の特徴は樹高が低く、根元より単弁の香りの高い白花を咲かせることです。 開花は4月20日前後と遅く、京都の春の終わりを飾ります。品種は大半が有明で、他には車返し、欝金(うこん)など十数種類の里桜があり、境内に二百余株植えられています。起源は古く、平安時代にまでさかのぼりますが、現在のものは江戸時代初期に植えられたもので、大正13年に名勝に指定されています。 ◆由緒 仁和2年(886)第58代光孝天皇は、都の西北大内山の麓に「西山御願寺」という一寺の建立を発願された。 天皇は翌年崩御されたが、次の宇多天皇が先帝の意志をつがれ、仁和4年(888)にこの寺が創建され、年号をとって「仁和寺」と命名された。宇多天皇は在位10年、寛平9年(897)醍醐天皇に譲位、2年後に出家得度され、わが国最初の「法皇」となられた。さらに延喜4年(904)には、仁和寺の中に法皇の御所である「御室(おむろ)」を建立され、承平元年(931)崩御されるまで、27年の間ここに住まわれたのである。 仁和寺の住職は「門跡(もんぜき)」と呼ばれている。「門」とは天皇を指し、宇多法皇から、慶応3年(1867)勅命によって退任された小松宮まで30代、およそ千年の間、仁和寺は皇室の寺院として知られるところとなった。 応仁2年(1468)兵火により全てが焼失、その後、双が丘の西麓に仮御所を設け法灯を護持していた。 仁和寺第21世覚深法親王(1588~1648)が三代将軍徳川家光に、仁和寺再興の申し入れを行い、約180年後再建されることとなった。 この時、御所から紫宸殿、清涼殿、常御殿、などが仁和寺へ移され、山門、中門、五重塔、観音堂などは新築された。仁和寺再建は、正保3年(1646)に完了した。 ところが、明治20年(1887)5月、火災により、仁和寺御殿を構成する大部分を焼失した。 明治23年(1890)に、現在の白書院などが建てられ、明治42年(1909)から本格的な再建が開始され、京都府技師亀岡末吉氏の全く新しい構想によって大正3年(1914)に完成をみた。 今日、金堂をはじめとする多くの建物は、国宝や重要文化財に指定されている。また、仁和寺の伽藍と御殿は、昭和12年(1937)史蹟名勝記念物保存法により、「史蹟仁和寺御所址」に、境内の桜は「名勝御室桜」にそれぞれ指定されている。さらに、平成6年に国連の「世界文化遺産」に登録された。 なお、仁和寺は、真言宗御室派の総本山として、また、御室流華道家元としても知られている。
高山寺
栂尾(とがのを)山と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって開創され、当初、神願寺都賀尾(とがを)坊と称したが、建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣によって、明恵(みょうえ)上人が華厳宗復興の道場として再興し、寺名を高山寺と改めたと伝えられている。 広い境内(史跡)には、石水院(国宝)、開山堂、金堂などが建ち並び、中でも石水院は、鎌倉時代初期の寝殿風住宅建築で、後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。 寺宝としては、鳥羽僧正筆の鳥獣人物戯画(国宝)をはじめ、数多くの貴重な文化財を蔵している。 また、境内の茶園は、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えたところで、ここから全国に茶が普及したといわれている。 この由緒から、毎年11月8日には、宇治の茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。 ◆由緒 後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」で知られる当山は、774年(宝亀5年)光仁天皇の勅願によって開創され、神願寺都賀尾坊といったが、814年(嵯峨天皇の弘仁5年)、栂尾十無尽と改称された。 その後、876年(貞観18年)には後の十三台天台座主となり、天神縁起絵巻で菅公の怨霊を鎮めたといわれる法性房尊意僧正が、11才より4年間当山で修行し、大いに法力を得たと伝えられている。 鎌倉時代、明恵上人(成弁、後に高弁と改名)が出て、後鳥羽上皇・近衛・鷹司・西園寺家等の帰依により堂坊を復興し中興開山した。 明恵上人は、後鳥羽上皇の院宣によって南都東大寺の華厳を根本とし戒密禅を兼ねた寺とし、1206年に勅額「日出先照高山之寺」を賜ったので、寺号を「高山寺」と改称した。 その後、当山は仏道実践の霊域として護持され、いつの時代も上下の崇信を受け、特に藤原氏一門には、氏神鎮守社春日明神とならび氏寺のごとく保護された。 室町末期の戦乱にまきこまれて堂坊の多くを焼失したが、江戸時代になり、1636年(寛永13年)永弁・秀融上人が堂坊の再興にあたり旧観をやや回復した。 明治維新後、寺運の衰えたこともあったが、昭和6年、明恵上人七百年遠忌記念として、茶祖上人の茶恩に報い、その遺香を後世に伝えるため全国の茶道家の懇志を集めて茶室遺香庵が建てられた。 また、昭和34年には、国宝や重要文化財、史学上の文献等の永久保存のために収蔵庫が建設され、昭和36年には、菩提心の勧発の拠り所として、開山堂横に聖観世音菩薩像が安置された。 昭和56年の750年遠忌には、春日明神社が篤志家により金堂横に復興された。 ◆明恵上人 紀州有田郡吉原に生まれ、父は平重国で高倉院の武者所、母は豪族湯浅権守藤原宗重の四女である。八才の時母は病死し、父も頼朝との戦いで戦死して孤児となり、九才の時文覚上人及び叔父上覚上人を頼って高尾山神護寺に入り、仏道修業に努め、 さらに東大寺や建仁寺にも学び、華厳、真言、禅等の奥義を体得し、東大寺において学頭として華厳学を講じられたこともあった。上人は限られた宗派や教説にとらわれることなく、ひたすら本師釈迦牟尼世尊に随順し、その教えのままに生き、清純無私な無我の行者、真の仏弟子として生涯を貫かれたのである。 世俗面においても、上人は北条泰時に政治の肝要として無欲を教え、承久の乱の公家方未亡人に、善妙尼寺を造って教化救済をされた。建礼門院が上人によって受戒されたことなどは有名である。 遺訓に「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようわ)の七字があるが、これは人間日常の簡短にして深奥なる教えである。 ◆石水院 国宝。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜った建物で、上人時代の唯一の遺構である。 金堂の東の位置にあったものを、明治二十二年現在地に移した。簡素な中に優雅さを保ち、きわめて機能的な構造をもっており、生活の知恵の結晶ともいえる住宅建築の傑作である。 「阿留辺幾夜宇和」の厳しくも合理的な精神が今もなおうかがわれる。 南面長押の上の後鳥羽院の勅額「日出先照高山之寺」、西面に鉄斎の額「石水院」が掛けてある。