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福智院
福智院の寺院明細帳(明治3年・25年)には、 天平八年聖武天皇御建立、開祖玄昉。地蔵菩薩ヲ本尊ト成シ、国家鎮静ヲ祈リ清冷院ト号ス、後ニ福智院ト改称ス云々、宗祖西大寺開山興正 とあって、福智院は聖武天皇の御世に、僧玄昉が建立した清水寺の遺鉢を受けた寺として、受け継がれてきました。 本尊胎内に「建仁三年六月願文」と「建長六年供養」の二種の墨書があります。他の資料と考え合わせると、本尊は福智庄(現奈良市狭川町)において建仁3年(1203)に造立されたが、その後、まもなく興生菩薩叡尊上人に依って現在地に移され、建長6年(1254)福智院が創建されたと見ることが出来ます。 「清水寺」は現存せず遺跡も発見されておりませんが、「奈良坊目拙解」に、清水の三町は奈良清水寺の古跡で、後に福智院と称す。 天平年間、僧玄昉(~746) 行基、良弁等と共に岡寺の義淵に学び、726年入唐、735年に五千余巻の経典と仏像を持って帰朝)が、この清水の地に地蔵菩薩を本尊とした清水寺を創建、中世に廃壊し、建長六年、興福寺大乗院実信僧正が、福智院地蔵堂の造立供養をしたが、これは清水寺の再興であると述べています。 ◆地蔵菩薩さま(重要文化財) お地蔵さまは老若男女から、子供にいたるまで最も親しまれ、愛されている仏さまです。 この地蔵菩薩の信仰の源は、釈尊以前のインド神話の中に求められ、大地を神格化したもので、梵語ではキシチ=ギャルバと云います。 キシチは大地、ギャルバは胎、すなわち包蔵するの意味で、地蔵とは大地の如く万有の母体であり、全てのものを育成し、成就させる働きがあるという意味です。 地蔵尊は経典の中で説かれているように、釈尊の依頼を受け、無仏世界の六道という地獄・飢餓・畜生・修羅・人間・天上に亘っての、慈悲無類の菩薩さまです。 地蔵菩薩を信仰する、あらゆる人々の苦悩を削減してくださり、土地は豊かに、家宅は永安であり、願いは成就するなどの十種の利益と恵みを与えてくださいます。
浄教寺
率川神社
喜光寺
当寺は、養老5年(721)天平の僧行基菩薩によって創建された寺である。 この地は、平城京の右京三条三坊にあたり、通称菅原の里といわれ、寺名も菅原寺と呼ばれていた。 行基菩薩は東大寺造営にあたり、この寺の本堂を参考にしたことから、本堂は「大仏殿の試しの堂」としても知られている。 天平20年(748)、聖武天皇は菅原寺に行幸された折、ご本尊より不思議な光明を感得され、そのことを喜ばれ、「喜光寺」の寺額を与えたという。以後、菅原寺を喜光寺と改名したといわれている。 天平21年(749)2月2日、当寺の東南院において行基菩薩は入寂された。遺言により火葬とし、母の墓所のほとりに埋葬された。 その後、喜光寺は広い寺領を所有していたが、平安末期から鎌倉時代にかけて荒廃衰退した。 本堂(金堂)は室町時代初期(1400年頃)に再建され、現在国の重要文化財に指定されている。 ご本尊は、平安時代後期の造像で丈六の阿弥陀如来坐像である。国の重要文化財として信仰されている。 ◆本堂(重要文化財 室町時代) 当寺は、明応8年(1499)に焼失しましたが、その後再建されたのが、現在の本堂です。重層の本堂は薬師寺の東塔や金堂と同様に裳階を付けた美しい復古建築であります。上層支輪のあたりに天窓を造り、西方の光が入り、阿弥陀如来の来迎を彷彿とさせ、浄土信仰にふさわしい阿弥陀堂といえます。 ◆阿弥陀如来像(重要文化財 平安時代) 創建当初のご本尊が何であったかは不明ですが、現在は平安時代に像造された丈六の阿弥陀如来がご本尊であります。木彫の上に下地漆を塗り、その上を金箔仕上げにして造られていますが、今は,お顔にその一部を残すのみでお顔の表情は実に静かで穏やか、そして肩から胸にかけて衣文の線は流麗であり、彫りはやや浅くそれがかえって阿弥陀如来の慈悲深さを感じさせています。 ◆南大門 平成22年(平城遷都1300年)に「いろは写経」勧進と、「南大門復興奉賛会」初め多くの方々のご結縁により、450年振りに復興されました。南大門には、彫刻家(文化勲章受章者)中村晋也氏が制作された仁王像が祀られ、また上層内陣には納経された「いろは写経」が永代供養されています。 ◆行基菩薩 行基菩薩は、喜光寺を東大寺の大佛建立勧進の拠点として全国を行脚されました。また天平21年(749)、ここ喜光寺にて入寂されました。 行基菩薩は、師・道昭菩薩の教えを継ぎ、民間伝道や社会福祉に傾注し、民衆から「菩薩」と仰がれ、信仰を集めました。天平17年(745)には、聖武天皇から日本で最初の大僧正に命ぜられた奈良時代を代表する名僧です。
采女神社
不空院
春日山・不空院はその名が示す通り、春日山を背に不空羂索観音を本尊とする真言律宗の古刹でございます。奈良・高畑は春日大社の神職が住まい、多くの文化人に愛された地でもあります。 春日の杜から高円山へと続く門前の小道は、古き奈良の風情を残し、今日も古都を旅する人々が静かに往き交います。ここに足跡を残された弘法大師(空海)を偲ぶ土地の人たちの信仰により「福井之大師」(福井は 不空=福 に発する旧土地名)の別称で呼ばれ、「女人救済の寺」としも知られる所でございます。 「大乗院寺社雑事記」には、ここは鑑真和上の住居があった旧跡である上に、興福寺南円堂建立にあたっては弘法大師が入られ、南円堂の雛型として当山が建てられたと記されます。また境内に残る井上内親王の荒魂を祀った御霊塚は、高畑に内親王の邸があったからであろうなど、歴史上に残る由縁を今に伝えております。 南都(奈良)に戒律復興の機運が昂じた鎌倉時代には、不空院・円晴 西大寺・叡尊 唐招提寺・覚盛 西方院・有厳 の自誓受戒四律僧が、ここで戒律を講じ多くの衆生に戒を授けました。その頃には八角円堂を初め鎮守社や僧坊など複数の堂宇を有する寺観であったようです。特に弁財天女の信仰はさかんでした。 しかし後の戦乱で寺は衰退し、八角円堂以下の堂宇のほとんども、安政の大地震(1854)によって倒壊しました。再興果たせぬまま迎えた明治の神仏判然令(1868)、それに端を発する仏教排撃運動の昂りで、当山も無住職の荒廃した寺となりました。 再興を遂げたのは大正時代。橿原の久米寺より三谷弘厳和尚が当地に入られ、倒壊した八角円堂礎石の真上に現在の本堂を建立し寺域が整えられました。南市・元林院など奈良町の芸妓たちは、美と長寿・芸事精進の祈願に弁財天女を参り、不幸な身の上の女性が「縁切り・縁結び」の祠に手を合わせるなどの信仰を集めました。また妻からの離縁が難儀な時代でしたので、苦しむ女性が駆け込む「縁切り寺」の役も果たしてきました。昭和の初め、照葉という名の芸妓から出家し、嵯峨・祇王寺に入られる波乱の人生が有名な高岡智照尼が、悪縁を逃れて最初に駆け込んだのも当山でした。女人救済の寺として知られ、今日に至っております。 ◆不空羂索観音菩薩坐像(重要文化財) 「春日山」の山号が表すように、当山と春日大社には深い縁があります。当山本尊の不空羂索観音は春日第一神である武甕槌命変化のお姿であります。このために御前には鏡を配し白鹿が控えております。お身体に纏った衣が鹿皮であるところにも、春日大社を庇護した藤原氏との因縁が見て取れます。 当山本尊の坐像は東大寺・三月堂(法華堂)の立像 興福寺・南円堂の坐像とともに「三不空羂索観音」と称されております。 『不空羂索神呪心経』には「この観音様を念ずれば、人災天災の難を逃れ優れた利益を享受でき、臨終にあっては阿弥陀浄土へ往生する」と解かれています。 不空とは「空しからず」余すところなく人々に利益を施すという、この仏の本願の言葉です。羂索とは本来、鳥獣魚を捕る道具ですが、仏が手にすると人々を救済する象徴となります。 「一面三目八臂」お顔が一つ、眼が三つ、腕は八本のお姿で、額の第三の眼「仏眼」は一切を見通す悟りを開いた者の眼です。 正面の手は合掌し、他の四本に 羂索・払子・蓮華・錫杖 を持ち、外の二本は掌を空に向けて開いておられます。観音は悟りを求める修行の姿といわれますが、不空羂索観音は仏眼を持ち、手にする蓮華も開いております。今まさに悟りを開かれたお姿なのでしょう。 ◆宇賀弁財天女 室町時代に作られた本像は、元は当山の鎮守社・御祭神として人々に親しまれた弁財天女。現在は本堂の脇檀で厨子にお納めし、特別の折のみ扉が開かれる秘仏とされております。 豊穣福徳の宇賀神と、才智を掌る弁財天が、習合した日本独自の形である宇賀弁才天は、頭上に鳥居型宝冠と宇賀神「頭は老人で体は蛇」を乗せ、八臂(八本の腕)のそれぞれに武器と財宝の象徴を持つのが特徴です。弁財天信仰がさかんであった頃は、多くの人々が当山を参拝したので、「不空」転じて「福院」とも呼ばれたようです。女性の救済と庇護に力を尽くされる弁天様です。
若宮神社
十二月十五日~十八日に執行される春日若宮おん祭(重要無形民俗文化財)は、1136年折りからの長雨のため全国に疫病や飢饉が蔓延し、これを鎮めるために始められた祭典で、平安時代より現在に至るまで絶えることなく奉仕され続けている、日本を代表するお祭の一つです。 このお祭は神様が本殿から御旅所にお遷りになり、再びお還りになる古代の祭を伝える遷幸・還幸の儀や華やかな時代絵巻が繰り広げられるお渡り式をはじめ、平安朝以来の貴重な芸能が数多く演じられる御旅所祭などが行われます。 ◆御祭神:天押雲根命 若宮様は平安の中頃、長保五年(1003)に大宮第四殿に神秘な御姿で出現された水を司る神様。当初は第四殿の内に、 その後獅子の前にお祀りされていましたが、保延元年(1135)に現在地に神殿を造営して遷宮が行われました。 毎年、十二月十五日から十八日にかけて行われる若宮神社の御例祭春日若宮おん祭は保延二年(1136)、折からの長雨のため全国に疫病や飢饉が蔓延したのを鎮めるために始まり、以来一度も途絶えることなく現在まで奉仕され、神様が本殿から御旅所にお遷りになり、再びお還りになるなど古来の祭を伝える貴重な祭事です。 また華やかな時代絵巻が繰り広げられる御渡り式や平安朝以来の貴重な神事芸能が数多く演じられる御旅所祭等があり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている日本を代表するお祭の一つです。
不退寺
仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守加戯郡部朝臣の建立になる不退寺は大同4年(809)平城天皇御譲位の後、平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五子業平朝臣(825-880)相承してこゝに住した。 業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御神鏡を賜り「我れつねになんじを護る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和14年(847)詔を奉じて旧居を精舎とし、自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩薩を弔うと共に、衆生済度の為に『法輪を転じて退かず』と発願し、不退転法輪寺と号して、仁明天皇の勅願所となった。 略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一として、法燈盛んであった。その後時代の推移と共に衰頽したが慶長7年(1602)、寺領50石を得て、一時寺観を整え南都に特異な存在を示した。昭和5年(1930)4月久宮邦英殿下が御来山なされ、修理進捗の記念に、香炉1基を下賜されたことが、寺史に精彩を加えている。 ◆南門(重要文化財) 切妻造本瓦葺の四脚門で、方柱には大きな面を取り左右身柱の上に豪壮な板蟇股を載せ、中央冠木の上には束を中心に、笈形風にいろいろと飾り立てているのが特異である。鎌倉末期の建築で、昭和九年の修理により墨書銘を発見確認されている。笈形を盛んに用いた室町・桃山の建築様式の先駆をなしたともいえる最古のものである。 ◆本堂(重要文化財) 桁間五間、梁間四間、屋根単層、寄棟造本瓦葺、軒は二軒で二重繁?、斗拱は三斗の枠組、中備に間斗束を配している。軸部は円柱で正面の頭貫を虹梁の様態に扱っている。これが正面中央に虹梁を架けた最初のもので、この方法が鎌倉時代に入って一般となったもので注目すべき点である。内部の柱頭部に三斗を組み、木鼻をつけている特異な構造であって、中央に二条の大虹梁を架け、梁の上に太瓶束を立て・折上組入天井の廻縁を支えている。爾未、桃山・江戸・昭和と三回の修理を経て現在に至ったもので、その様式を完全に残している。 ◆多宝塔(重要文化財) 柱は方柱大面取、方一二間で中央の間に板扉を開き、左右には青鎖窓をはめている。斗拱は三斗出組とし、斗拱間には鎌倉時代特有の美しい蟇股を配し、柱頭部には頭貫を通じ、貫端に天竺様の木鼻を附けている。内部は二重折上げの小組格天井をはめ、彩絵を以て装飾している。その一部は修理に際し復原されたものである。この塔には最初上層があって檜皮葺であったことが寛政年間刊行の大和名所図絵によって明らかで、高さは十三メートル六〇、明治以降下軸部のみとなったとはいえ、鎌倉中期の特徴を具え当代の多宝塔としては出色のもので、池を隔てゝ見る姿はまことに優雅である。 ◆聖観世音菩薩立像(重要文化財) 1メートル90(平安初期)、本尊であって木彫一木造りで、全身胡粉地に極彩色の花文装飾を施した豊満端厳な像で、業平朝臣御自作の代表的な名作である。 ◆五大明王像(重要文化財) 木彫着彩、不動明王(中尊)降三世明王(四面八臂)1メートル50、軍茶利夜叉明王(一面八臂)1メートル58、金剛夜叉明王(三面六臂)1メートル46、大威徳明王(六面六臂牛騎)1メートル45の五躯であるが、五大明王がかく完備したのは珍らしいもので金剛夜叉明王は特に傑出している。藤原時代中期の作風をもつ貴重な遺作である。 ◆阿保親王坐像(県指定文化財) 1メートル、木彫、鎌倉時代のもので、肖像彫刻中の佳作で業平朝臣の父である。 ◆地蔵菩薩立像 70センチ、木彫一木造りで、弘仁時代の作で多宝塔に安置された千体地蔵の本尊とも言うべきものであろうと言われている。千体地蔵は現在数体残しており、墨書銘によると(御仏千躰地蔵菩薩安浪御作也…)安浪作の千体地蔵が安置されてあったことが判った安阿彌のかへ字で、名工快慶をいうのであろう。 ◆石棺(5世紀) 庫裡の庭にあって石材は春日砥(砂岩の一種)で、心ない草刈の人たちがこれで鎌を研いだと思われる痕が沢山残っている。附近には古墳が沢山あって、おそらくそこから運ばれたものであろうと言われている。