手向山八幡宮

この手向山八幡宮は、奈良時代聖武天皇が大仏の造営をされたとき、これに協力のため749年(天平勝宝元年)に宇佐から八幡宮を迎え大仏殿の近く鏡池(八幡池)の東側に鎮座したのに始まる。そして以後、東大寺を鎮守したのである。 鎌倉時代の1250(建長2年)に北条時頼によって現在地に遷座した。 4975

夫婦大国社(春日大社末社)

日本で唯一、ご夫婦の大国様をお祀りしたお社で、縁結び・夫婦円満・商売繁盛の神様として称えられ、古くより厚い信仰をあつめています。 またこのお社には、女神様のもっておられる杓子にあやかった甲福杓子に祈願を記し奉納する風習があります。

海龍王寺

飛鳥時代に毘沙門天を安置して建立された寺院を、天平3年(731)遣唐使として中国に渡っていた初代住持の玄昉が、一切経五千余巻と新しい仏法との両方を無事に我が国にもたらすことを願ったのと、平城宮の東北(鬼門)の方角を護るため光明皇后により海龍王寺としてあらためられました。 玄昉が帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際、乗船に収められていた海龍王経を一心に唱えたところ九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから遣唐使の航海安全祈願を営むようになり、現在も旅行や留学に赴かれる方々が参拝をされています。 また、写経も盛んに行われていたようで、光明皇后御筆とされる自在王菩薩経。般若心経の原本である弘法大師御筆とされる般若心経(隅寺心経)が伝えられています。 創建当時の建物は奈良時代の五重塔として唯一現存する五重小塔(国宝)と西金堂(重文)が残り、本堂(江戸時代・市文)には聖武天皇から賜った寺門勅額(重文)をはじめ、金泥のお姿に装身具と切金文様が美しい鎌倉時代に造立された十一面観音立像(重文)、文殊菩薩立像(重文)などが安置され、同時期に建立された経蔵(重文)とともに、趣き深いたたずまいを創り出しています。 ◆由緒 此の場所には、飛鳥時代より毘沙門天を祀った寺院が在り、藤原不比等が邸宅を造営した際にも取り壊されることなく屋敷の東北に取り込まれる形で存続していましたが、光明皇后の御願により天平三年(731)、新たに堂舎を建立して伽藍をあらためたことで、海龍王寺(隅寺)としての歴史を歩むこととなりました。 海龍王寺が建立されたのは、第八次遣唐使として唐に渡っていた玄昉が、一切経・五千余巻と一切経に基づく新しい仏法を無事に我が国にもたらすのを願ったことと、飛鳥時代から北の方角を護る毘沙門天が祀られていたところに海龍王寺を建立し毘沙門天を祀ることで、平城宮の東北(鬼門)を護るためでありました。 海龍王寺が建立されてから三年後の天平六年(734)十月、唐から帰国の途中、玄昉らが乗った四隻の船団は東シナ海で暴風雨に襲われ、玄昉が乗った船だけがかろうじて種子島に漂着することが出来、翌天平七年(735)三月、帰京を果たしました。 この時、玄昉が持ち帰った五千余巻の経典の中に、海龍王経(かいりゅうおうきょう)という経典が収められており、東シナ海の狂瀾怒涛に漂いながら一心に海龍王経を唱え、九死に一生を得て貴重な多数の経典をもたらした玄昉は、その功績により僧正に任ぜられると同時に海龍王寺初代住持にも任ぜられました。 海龍王経を唱え、九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから、玄昉が起居した海龍王寺において海龍王経を用い、遣唐使の渡海安全の祈願を営んだことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ勅額を賜りました。 この時期、海龍王寺では写経も盛んに行われていたようで、光明皇后が般若心経および自在王菩薩経を一千巻書写され、後の時代には弘法大師空海も自身の渡唐の安全祈願のために一千日間参籠して般若心経一千巻を書写されており、大師の遺巻とされる般若心経の写経(隅寺心経)が残されています。 その後の沿革は余り明らかではありませんが、鎌倉時代の嘉禎二年(1236)、西大寺を中興した興正菩薩叡尊が当寺に起居したことで叡尊との関係が深くなり、正応元年(1288)三月に殿堂坊舎を修造と経蔵の建立、七月には舎利塔を造顕しており、同時代に製作された仏像仏画も多く伝えられています。 これらのことから、真言律宗の筆頭格寺院となった海龍王寺が律法中興の道場として栄えていたことは、西金堂内の五重小塔を戒壇とした受戒の儀式の次第を詳細に記した指図からうかがい知ることができ、また、鎌倉幕府から関東御祈願三十四ヶ寺の一ヶ寺に選ばれ真言宗の特徴である加持や祈祷も盛んに行われていました。 鎌倉時代に隆盛を迎えましたが、京都で応仁の乱が起こると、大和に攻め込んできた軍勢により打ち壊しや略奪に遭い、また、慶長の地震が重なったことで壊滅的な打撃を受けました。江戸時代になると、徳川幕府より知行として百石を安堵されたことで伽藍の修復や維持・管理が行えるようになり、本堂の解体修理や仏画の修復がなされ、「御役所代行所」としての役割も果たしましたが、明治時代になると廃仏毀釈の嵐に呑み込まれ、東金堂や多数の什器を失い荒廃にまかされていましたが、昭和40年から42年にかけて西金堂と経蔵の解体修理が行われ、以降、境内の整備や修復が進められています。 ◆五重小塔(国宝 天平時代前期)  創建当時から西金堂内に安置され細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている  天平時代の建築技法を現在に伝え建築様式の発展をたどる上にも重要である事と建造物としての天平時代の五重塔はこれ一基しか現存していないのでこの点でもこの小塔の価値が高く国宝に指定されている  屋内で安置する事を目的とした為、近くから見た時の工芸的な性格を考え小塔の外部は細部にいたるまで忠実に作られている またこの事は寸法取りにもあらわれ上層部にいくにしたがって塔身が細くなっている事から上層部と下層部の均整を重視した寸法取りを行っている事がうかがい知れる

若宮神社

十二月十五日~十八日に執行される春日若宮おん祭(重要無形民俗文化財)は、1136年折りからの長雨のため全国に疫病や飢饉が蔓延し、これを鎮めるために始められた祭典で、平安時代より現在に至るまで絶えることなく奉仕され続けている、日本を代表するお祭の一つです。 このお祭は神様が本殿から御旅所にお遷りになり、再びお還りになる古代の祭を伝える遷幸・還幸の儀や華やかな時代絵巻が繰り広げられるお渡り式をはじめ、平安朝以来の貴重な芸能が数多く演じられる御旅所祭などが行われます。 ◆御祭神:天押雲根命 若宮様は平安の中頃、長保五年(1003)に大宮第四殿に神秘な御姿で出現された水を司る神様。当初は第四殿の内に、 その後獅子の前にお祀りされていましたが、保延元年(1135)に現在地に神殿を造営して遷宮が行われました。 毎年、十二月十五日から十八日にかけて行われる若宮神社の御例祭春日若宮おん祭は保延二年(1136)、折からの長雨のため全国に疫病や飢饉が蔓延したのを鎮めるために始まり、以来一度も途絶えることなく現在まで奉仕され、神様が本殿から御旅所にお遷りになり、再びお還りになるなど古来の祭を伝える貴重な祭事です。 また華やかな時代絵巻が繰り広げられる御渡り式や平安朝以来の貴重な神事芸能が数多く演じられる御旅所祭等があり、国の重要無形民俗文化財にも指定されている日本を代表するお祭の一つです。

不退寺

仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守加戯郡部朝臣の建立になる不退寺は大同4年(809)平城天皇御譲位の後、平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五子業平朝臣(825-880)相承してこゝに住した。 業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御神鏡を賜り「我れつねになんじを護る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和14年(847)詔を奉じて旧居を精舎とし、自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩薩を弔うと共に、衆生済度の為に『法輪を転じて退かず』と発願し、不退転法輪寺と号して、仁明天皇の勅願所となった。 略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一として、法燈盛んであった。その後時代の推移と共に衰頽したが慶長7年(1602)、寺領50石を得て、一時寺観を整え南都に特異な存在を示した。昭和5年(1930)4月久宮邦英殿下が御来山なされ、修理進捗の記念に、香炉1基を下賜されたことが、寺史に精彩を加えている。 ◆南門(重要文化財) 切妻造本瓦葺の四脚門で、方柱には大きな面を取り左右身柱の上に豪壮な板蟇股を載せ、中央冠木の上には束を中心に、笈形風にいろいろと飾り立てているのが特異である。鎌倉末期の建築で、昭和九年の修理により墨書銘を発見確認されている。笈形を盛んに用いた室町・桃山の建築様式の先駆をなしたともいえる最古のものである。 ◆本堂(重要文化財) 桁間五間、梁間四間、屋根単層、寄棟造本瓦葺、軒は二軒で二重繁?、斗拱は三斗の枠組、中備に間斗束を配している。軸部は円柱で正面の頭貫を虹梁の様態に扱っている。これが正面中央に虹梁を架けた最初のもので、この方法が鎌倉時代に入って一般となったもので注目すべき点である。内部の柱頭部に三斗を組み、木鼻をつけている特異な構造であって、中央に二条の大虹梁を架け、梁の上に太瓶束を立て・折上組入天井の廻縁を支えている。爾未、桃山・江戸・昭和と三回の修理を経て現在に至ったもので、その様式を完全に残している。 ◆多宝塔(重要文化財) 柱は方柱大面取、方一二間で中央の間に板扉を開き、左右には青鎖窓をはめている。斗拱は三斗出組とし、斗拱間には鎌倉時代特有の美しい蟇股を配し、柱頭部には頭貫を通じ、貫端に天竺様の木鼻を附けている。内部は二重折上げの小組格天井をはめ、彩絵を以て装飾している。その一部は修理に際し復原されたものである。この塔には最初上層があって檜皮葺であったことが寛政年間刊行の大和名所図絵によって明らかで、高さは十三メートル六〇、明治以降下軸部のみとなったとはいえ、鎌倉中期の特徴を具え当代の多宝塔としては出色のもので、池を隔てゝ見る姿はまことに優雅である。 ◆聖観世音菩薩立像(重要文化財) 1メートル90(平安初期)、本尊であって木彫一木造りで、全身胡粉地に極彩色の花文装飾を施した豊満端厳な像で、業平朝臣御自作の代表的な名作である。 ◆五大明王像(重要文化財)  木彫着彩、不動明王(中尊)降三世明王(四面八臂)1メートル50、軍茶利夜叉明王(一面八臂)1メートル58、金剛夜叉明王(三面六臂)1メートル46、大威徳明王(六面六臂牛騎)1メートル45の五躯であるが、五大明王がかく完備したのは珍らしいもので金剛夜叉明王は特に傑出している。藤原時代中期の作風をもつ貴重な遺作である。 ◆阿保親王坐像(県指定文化財) 1メートル、木彫、鎌倉時代のもので、肖像彫刻中の佳作で業平朝臣の父である。 ◆地蔵菩薩立像 70センチ、木彫一木造りで、弘仁時代の作で多宝塔に安置された千体地蔵の本尊とも言うべきものであろうと言われている。千体地蔵は現在数体残しており、墨書銘によると(御仏千躰地蔵菩薩安浪御作也…)安浪作の千体地蔵が安置されてあったことが判った安阿彌のかへ字で、名工快慶をいうのであろう。 ◆石棺(5世紀) 庫裡の庭にあって石材は春日砥(砂岩の一種)で、心ない草刈の人たちがこれで鎌を研いだと思われる痕が沢山残っている。附近には古墳が沢山あって、おそらくそこから運ばれたものであろうと言われている。

大安寺

弘法大師・空海やインド人の僧・菩提せんな(ぼだいせんな)などの幾多の名僧が住した官寺。ガン封じの寺としても知られる。 聖徳太子に起源を持つとされる大安寺は、平城遷都とともに現在の地に移転し、遷寺1300年の年を迎える。南都七大寺のひとつで、わが国の高名な学僧と共に奈良時代に海外から来日した僧侶の多くが居住した大安寺は、当時の国際交流の拠点でした。

十輪院

優曇華や石龕きよく立つ佛 秋桜子 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置します。 奈良時代の僧で書道の大家、朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の開基といわれています。 本堂(国宝・鎌倉時代)は軒や床が低く、当時の住宅を偲ばせる建造物です。 十輪院の本堂の中には本尊である地蔵菩薩を中心にした石仏龕(せきぶつがん・重文・鎌倉時代)を祀ります。 そこには釈迦如来、弥勒菩薩の諸仏のほか、十王、仁王、四天王や北斗曼荼羅の諸尊などが刻まれ、非常に珍しい構成を見せています。 境内には、魚養塚、十三重石塔、興福寺曼陀羅石など多数の石仏が点在しています。 ◆由緒 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置し、静かな奈良町の中にあります。 寺伝によりますと、当山は元正天皇(715-724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれています。また、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の開基とも伝えられています。 沿革は明らかではありませんが、鎌倉時代「沙石集」(1283)には本尊石造地蔵菩薩を「霊験あらたなる地蔵」として取り上げられています。 室町時代には寺領三百石、境内1万坪の広さがあったようですが、兵乱等により、多くの寺宝が失われました。 その後江戸期には徳川幕府の庇護を受け、寺領も五拾石を賜り、諸堂の修理がなされまし た。 明治時代の廃仏毀釈でも大きな打撃を受けましたが、現在、当山の初期の様子を伝えるものとして、本尊の石仏籠、本堂、南門、十三重石塔、不動明王二童子立像、それに校倉造りの経蔵(国所有)などが残っています。 近年、昭和28年本堂の解体修理から、平成8年防災施設の完成により、諸堂宇が整備され、境内は寺観を整えることができました。 ◆本堂(国宝) 間口11.20m奥行8.47m高さ5.68m寄棟造瓦葺 後方の石仏龕を拝むための礼堂として建立されました。正面に一間通りの広縁を設け、垂木を用いず、厚板と特異な組物で軒を支えています。こじんまりした内部は一本の柱を外陣・内陣に使い分け、低い天井は簡素な棹縁天井となっています。蔀戸が用いられ、軒及び床を低くおさえ、屋根の反りを少なくするなど、当時の住宅をしのばせる要素が随所にみられます。蛙股や木鼻、正面の柱などは創建当時のものです。 ◆石仏龕(がん)(重要文化財) 間口2.68m奥行2.45m高さ2.42m花崗岩製 寺伝では、弘仁年間(810~823)に弘法大師が石造地蔵菩薩を造立された、とあります。龕中央の奥に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮き彫りで表わしています。そのほか、仁王、聖観音、不動明王、十王、四天王、五輪塔、あるいは観音・勢至菩薩の種子などが地蔵菩薩のまわりに巡らされ、極楽往生を願う地蔵世界を具現しています。龕前には死者の身骨や棺を安置するための引導石が置かれます。 また龕の上部、左右には北斗七星、九曜、十二宮、二十八宿の星座を梵字で陰刻し、天災消除、息災延命を願う現世利益の信仰も窺い知ることができます。引導石の左右には南都仏教に伝統的な「金光明最勝王経」「妙法蓮華経」の経幢が立てられています。この石仏龕は当時の南都仏教の教義を基盤に民間信仰の影響を受けて製作されたもので、非常にめずらしい構成を示しています。大陸的な印象を受ける技法で彫刻されていることも注目されます。