法華寺

法華寺は、聖武天皇御願の日本総国分寺である東大寺に対して、光明皇后御願に成る日本総国分尼寺として創められた法華滅罪之寺であります。寺地は平城宮の東北に位し、藤原不比等公の邸宅だつたのを、皇后が先帝ならびに考妣のおんために改めて伽藍となし給うたもので、以来星霜千二百五十年、おん慈しみ深かつた皇后の御精神を伝え、道心堅固に護られてきた女人道場「法華寺御所」であります。従って草創以来朝野の尊崇を集め、天平勝宝元年には詔して墾田一千町歩を施入せられ、大同年中には駿河、美濃、上野、武蔵、越後、伯耆、出雲その他に寺封五百五十戸を持つなど、天平の大伽藍にふさわしく堂宇もまた金堂、講堂、東西両塔、阿弥陀浄土院と荘厳のかぎりをつくしていたのであります。 しかしながら時勢とともに寺運ようやく哀え、中世の記録はさだかではありませんが、叡尊興正菩薩の再興、さらには豊臣秀頼公の外護、徳川氏の寺領二百二十石寄進などあつたとは申せ、ついにほとんど旧来の寺観を失うて今日に及びました。寺史を繙いて感慨を禁じ得ぬもの、ひとり当寺を護るもののみではありますまい。ただ、そのなかにあって、今なお世の名宝と仰がれる本尊をはじめ幾多の文化財を遺してきたことは、お互いにありがたいことと申さねばなりません。 貞明皇后様におかせられましては、大正十二年には本尊御宝前に菊御紋章入り御燈籠一対を御献納遊ばされ、大正十五年五月には祈願佛を当寺へ御遷座遊ばされましたが、以来門主は日夜、御祈願申しあげています。 ◆今日の寺観 いにしえの平城京左京一条、いま奈良市法華寺町の一廓に築地をめぐらして南大門を開いています。境内史跡指定建築物はこの南大門と本堂、鐘楼の三棟で、いずれも桃山時代に再建された重要文化財であります。本堂は慶長六年(西暦1601)豊臣秀頼公が淀君とともに片桐且元を奉行として再建した四注造・本瓦葺・桁行七間梁間四間の、もとの講堂であったらしく、その旨は勾欄の擬宝珠や本尊須弥壇の銘文によって明らかであり、向拝の蟇股・手挾の豪華な絵様彫刻に、桃山建築の精粋をうかがうことができます。 先年この堂の解体修理が行われた際、天平創建当時の礎石や古い柱根を発掘し、声なくして寺史の悠遠なことを偲ばせました。この古い礎石は、鐘楼の地下からも発見されております。 鐘楼の東北、別の廓内にある「から風呂」は、本願光明皇后が千人の垢をお流しあそばしたという由縁を伝えるもので、現在の遺構は慶長年間に修理されたものです。もって皇后のお徳をお慕いすることができましょう。なお南の築地外にあった横笛堂は、現在境内に移されたが、中世の当寺への信仰を物語るものであります。滝口入道との恋に破れてこの寺に入り、髪をおろして仏道修行に明け暮れた雑司横笛が住まった古跡と伝えています。 本堂の北に続く本坊書院は京都御所のお庭を移築したと伝えられる庭園で、史跡名勝になっています。奈良では数少ない遺構の一つで、これは皇室との関係深い当寺の近世における貴重な史料なのであります。 ◆霊像名宝のかずかず 本堂内陣、桃山様式の代表的な須弥壇上に、当寺本尊十一面観音立像を仰ぎます。印度健陀羅国王がつねづね観音さまを信仰しておられまして、その像を王宮に安置するため、観音菩薩生身のお姿と申す光明皇后をうつしまいらせようと、同国第一等の彫刻家問答師をわが国に遣わせられ、皇后のお許しを乞うて三躰の観音像を刻みました。うち一躰をわが皇宮にのこして帰国したのが、この本尊さまだという伝承が「興福寺濫觴記」に書かれてあります。古くから本像を光明皇后のお姿として崇めているゆえんであります。 本像は唐の檀像様式を受けついだ素木の一木彫成で、蓮葉の珍しい光背をおうて、謹直のうちにもやや寛がれたまうおん立ち姿の、あでやかにも美わしい印象は、拝む人々の心に深くしみわたる思いがいたします。なお、本尊御閉扉中は、御分身像を拝観していただきます。この御分身像は昭和四十年にインド政府に依頼し、最上の香木の白橿の一木作で日本では只ひとつの観音菩薩像であります。 天平時代にしばしば用いられた維摩居士像は、木心乾漆の手法により造顕されたもので、居士の面目躍如とした上代肖像彫刻の逸品とされています。ほかに天平末期の木造梵天・帝釈天頭、藤原時代の木造漆箔仏頭をはじめ、多くの御仏たちも堂内におまつり申していますが、滝口入道との間に交わされた文がらをもって自作したという横笛の坐像もともに供養のため安置しております。仏の道にいそしんだ佳人の心境が、このささやかな像から聞かれるようであります。 なお当寺では光明皇后御草創以来、護摩供を念じ、その清浄灰土をもってお作り申している犬守りを伝え、今日でも一山尼衆がその奉仕を続けていますが、さきに本堂解体修理のみぎり、はからずも礎石下から古様の犬御守一体を発掘いたしました。伝統の尊さ、ありがたいことであります。 当寺には別にわが国仏画の最高峯としてかくれない名宝絹本着色阿弥陀三尊及童子像を蔵しておりますが、香ぐわしさのかぎりといわれる傑作でありますが、保存の関係上、毎年一回十月二十五日から十一月十日まで当寺慈光殿にて公開し、一般有縁の方々に拝観して頂いて居ります。 ◆華樂園 内東側に約1000坪の平地に、東屋・蓮池を擁し、100本の椿をはじめ、めずらしい法華寺蓮・にんじん木等約750種の花木・草花があり、1年を通し四季おりおりの花々が鑑賞出来るようになっている。 ◆浴室(国指定重要有形民俗文化財) 法華寺本願光明皇后様が薬草を煎じその蒸気で多くの難病者を救済されたところで、建物は室町時代後期に改築されたが、敷石の―部は天平時代のものが残されている。 ◆光月亭(県文化財指定) 奈良県月ケ瀬村の民家を昭和46年当地に移築したもの。構造・手法から18世紀の建設と推定される。居室の天井は根太天井であるが、土間部では丸竹天井となる等東山地方の民家の発展形態を示す貴重な遺構である。

般若寺

奈艮北山の名刹、般若寺は飛烏時代に高句麗僧慧灌法師によって開創され、そののち天平18年(746)に至り、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の定額寺に定められた。 また平安時代は寛平7年(895)の頃、観賢僧正が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたっていたという。ところが源平の争乱に際しては、治承4年(1180)平重衡の南都焼討にあい伽藍は全て灰儘に帰し、礎石のみが草むらに散在する非運に見舞われた。 しかし鎌倉時代に入って般若寺は不死鳥の如く再生する。荒廃の中からまず十三重大石塔が、名も無き民衆の信仰の結晶として再建され(建長五年頃)、続いて良恵上人が本願となって十方勧進し、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかられた。 さらに文永4年(1267)には叡尊上人発願の文殊菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、かつての大般若寺の偉容がみごとに復興したのである。それは同時に、境内の一隅に病舎を設けて孤独な病人を助けたり、布施行の大法要を営んで人生苦にうちひしがれた苦悩の衆生を済度するなど興法利生(正しい教えを興隆して社会に奉仕する)の寺をめざす復興でもあった。 その後、般若寺は室町戦国期の戦乱による衰微、江戸期の復興、明治の排仏と幾多の栄枯盛衰を経ながらも、常に自利利他(己れを高め他を助ける)の菩薩道精神を法灯にかかげ現代の復興を俟つに至っている。 ◆般若寺の御本尊 八字文殊師利菩薩騎獅像。頭髪は八髻。右手に剣、左手に般若経をのせた青蓮華をとる。獅子の背の蓮華座に坐す。瓔珞、腕釧の飾り。経蔵の秘仏本尊であった。 昭和31年の調査により、菩薩の膝前に胎内銘文が発見され、元亨4年(1324)3月7日、文観上人殊音が後醍醐天皇の御願成就のために造立したことが判明。信心施主は前伊勢守藤原兼光、大仏師法眼康俊、小仏師康成などの名が記されていた。後醍醐天皇のことは「金輪聖主」と書かれている。インド以来、理想の国王は武力ではなく仏法の力により世界を平和に統治すると考えられ「転輪聖王」と呼ばれた。また、転輪聖王の中で最も徳の高い国王は「金輪世界の聖王」と尊称される。仏教とくに真言密教を信仰された天皇は自らを大日如来の化身、「金剛薩埵」であると意識され、後に吉野山で御所を構えられた寺の名を「金輪王寺」と命名された。

十輪院

優曇華や石龕きよく立つ佛 秋桜子 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置します。 奈良時代の僧で書道の大家、朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の開基といわれています。 本堂(国宝・鎌倉時代)は軒や床が低く、当時の住宅を偲ばせる建造物です。 十輪院の本堂の中には本尊である地蔵菩薩を中心にした石仏龕(せきぶつがん・重文・鎌倉時代)を祀ります。 そこには釈迦如来、弥勒菩薩の諸仏のほか、十王、仁王、四天王や北斗曼荼羅の諸尊などが刻まれ、非常に珍しい構成を見せています。 境内には、魚養塚、十三重石塔、興福寺曼陀羅石など多数の石仏が点在しています。 ◆由緒 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置し、静かな奈良町の中にあります。 寺伝によりますと、当山は元正天皇(715-724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれています。また、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の開基とも伝えられています。 沿革は明らかではありませんが、鎌倉時代「沙石集」(1283)には本尊石造地蔵菩薩を「霊験あらたなる地蔵」として取り上げられています。 室町時代には寺領三百石、境内1万坪の広さがあったようですが、兵乱等により、多くの寺宝が失われました。 その後江戸期には徳川幕府の庇護を受け、寺領も五拾石を賜り、諸堂の修理がなされまし た。 明治時代の廃仏毀釈でも大きな打撃を受けましたが、現在、当山の初期の様子を伝えるものとして、本尊の石仏籠、本堂、南門、十三重石塔、不動明王二童子立像、それに校倉造りの経蔵(国所有)などが残っています。 近年、昭和28年本堂の解体修理から、平成8年防災施設の完成により、諸堂宇が整備され、境内は寺観を整えることができました。 ◆本堂(国宝) 間口11.20m奥行8.47m高さ5.68m寄棟造瓦葺 後方の石仏龕を拝むための礼堂として建立されました。正面に一間通りの広縁を設け、垂木を用いず、厚板と特異な組物で軒を支えています。こじんまりした内部は一本の柱を外陣・内陣に使い分け、低い天井は簡素な棹縁天井となっています。蔀戸が用いられ、軒及び床を低くおさえ、屋根の反りを少なくするなど、当時の住宅をしのばせる要素が随所にみられます。蛙股や木鼻、正面の柱などは創建当時のものです。 ◆石仏龕(がん)(重要文化財) 間口2.68m奥行2.45m高さ2.42m花崗岩製 寺伝では、弘仁年間(810~823)に弘法大師が石造地蔵菩薩を造立された、とあります。龕中央の奥に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮き彫りで表わしています。そのほか、仁王、聖観音、不動明王、十王、四天王、五輪塔、あるいは観音・勢至菩薩の種子などが地蔵菩薩のまわりに巡らされ、極楽往生を願う地蔵世界を具現しています。龕前には死者の身骨や棺を安置するための引導石が置かれます。 また龕の上部、左右には北斗七星、九曜、十二宮、二十八宿の星座を梵字で陰刻し、天災消除、息災延命を願う現世利益の信仰も窺い知ることができます。引導石の左右には南都仏教に伝統的な「金光明最勝王経」「妙法蓮華経」の経幢が立てられています。この石仏龕は当時の南都仏教の教義を基盤に民間信仰の影響を受けて製作されたもので、非常にめずらしい構成を示しています。大陸的な印象を受ける技法で彫刻されていることも注目されます。

白毫寺

白毫寺は、奈良市東部の山並み、若草山・春日山に続き南に連なる高円山の西麓にある。高円と呼ばれたこの地に天智天皇の第七皇子、志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられが、当寺の草創については、他にも天智天皇の御願によるもの、勤操の岩淵寺の一院とするものなど諸説あり定かではない。「南都白毫寺一切経縁起」によれば、鎌倉中期に西大寺で真言律宗をおこし、多くの寺を復興し、またさまざまな社会事業に関わった興正菩薩叡尊が当寺を再興・整備したとされる。弘長元年(1261)、叡尊の弟子道照が宋より大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経転読の基を開いた。以来当寺は一切経寺と呼ばれ、現在も4月8日に一切経法要が営まれる。「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」の句が人々の口伝えに伝えられ、その法要の後、本当の春が奈良に訪れるとされた。明応6年(1497)、古市・筒井勢による戦乱で殆どの堂宇を焼かれるなど度重なる兵火・雷火で堂塔を失う憂き目を負っているが、江戸時代寛永年間に興福寺の学僧空慶上人が再興し、江戸幕府からご朱印寺として禄高五十石を扶持され繁栄した。なお白毫とは仏の眉間にあり光明を放つという白い毛のことであり、寺号はそれにちなむものと思われる。 現在、宝蔵に本尊阿弥陀如来坐像をはじめ閻魔大王坐像ほか重要文化財を、本堂(江戸時代)に勢至・観音菩薩像、聖徳太子二歳像他を安置する。また御影堂(江戸時代)には中興の祖空慶上人をおまつりしている。境内には不動、弥勒、地蔵などの石仏が点在し、西をのぞめば奈良市街を眼下に見渡せる。春には樹齢およそ400年の五色椿(県天然記念物)をはじめ数多くの椿が咲き、秋は参道を紅や白の萩の花が覆って、季節の風物を求めていにしえの人々が遊んだ往時をしのばせる。 ◆阿弥陀如来坐像(重文 平安時代~鎌倉時代)(像高138センチ) 定朝様式の阿弥陀像で当寺の御本尊。桧材の寄木造で漆箔を施す。伏し目のもの静かな温顔と、穏やかな肉取りの体部、浅い彫り口の衣文などをもち、やや力強さに欠けるが、いかにも品よく仕上げられている。 ◆地蔵菩薩立像(重文 鎌倉時代)(像高157センチ) 慈眼と温容に満ち、錫杖と宝珠をもって立つこの像は、当初の光背・台座まで完備する。桧材を用いた寄木造で、施された彩色は剥落も少く、切金もかなり残っている。鎌倉後期につくられた地蔵菩薩像の秀作である。 ◆伝・文殊菩薩坐像(重文 平安時代)(像高102センチ) 大きい宝髪、張りのある顔、肉取りの厚い体と膝ぐみをもち、平安初期彫刻の特質をよくそなえた菩薩像。桧の一材で頭.体部から脇にかかる天衣まで巧妙に彫刻している。もとの多宝塔の本尊で、この寺で最古の仏像。 ◆司命・司録像(重文 鎌倉時代)(像高132センチ) 閻魔王・太山王の春属。ともに虎の皮を敷いた椅子に腰をかける。司命は筆と木札をもち、上を見て口を固く閉じる。司録は書巻(欠失)を両手にもち、これを声高に読み上げるかのように口を大きく開く。両像とも寄木造で彩色と切金とが残っている。明応の火災には救出されたが、司録の首は後補されている。正元元年頃の康円一派の作としてその価値は高い。 ◆興正菩薩叡尊坐像(重文 鎌倉時代)(像高73.9センチ) 戒律復興や貧民救済に活躍した西大寺叡尊は、白毫寺の中興の祖でもある。寄木造彩色像で、眉の長い特徴ある風貌で端然と坐す姿は晩年の叡尊をみごとに捉えており、肖像彫刻の優品である。 ◆閻魔王坐像(重文 鎌倉時代)(像高118.5センチ) 元あった閻魔堂の本尊で、寄木造の彩色像。大きい冠と道服をつけ、笏を持って身構える。玉眼の目はことに鋭く、口をカッと開いて叱咤する。この迫真性に富んだ盆怒の形相は、礼拝者に畏怖の情を十分に与える。 ◆太山王坐像(重文 鎌倉時代)(像高129センチ) 閻魔王と一対の作だが、明応6年(1497)兵火に遇い頭・体部と膝ぐみの前面が大きく焼けこげた。翌七年の修理で現状にもどった。体内に造像当初の墨書があり、正元元年(1259)大仏師法眼康円の作とわかる貴重像である。

東大寺 二月堂修二会 (お水取り)

「お水取り」として知られている東大寺の修二会の本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきたが、今日では新暦の3月1日から14日までの2週間行われる。 二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰安、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事が主体である。 修二会と呼ばれるようになったのは平安時代で、奈良時代には十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)と呼ばれ、これが今も正式名称となっている。 関西では「お松明(おたいまつ)」と呼ばれることが多い。

東大寺法華堂(三月堂)

天平十二年(740)から十九年までの創建と考えられている東大寺最古の建物である。この辺り一帯に聖武天皇の皇太子基親王の菩提をとむらうために建てられた金鐘寺(金鐘寺)と呼ばれる寺院があり、それがやがて大和国国分寺、更には東大寺へと発展した。 4958

秋篠寺

奈良時代末期宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により地を平城宮大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる。当寺造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とほゞ時を同じくしてその完成を見、爾来、殊に承和初年常暁律師により大元帥御修法の伝来されて以後、大元帥明王影現の霊地たる由緒を以って歴朝の尊願を重ね真言密教道場として隆盛を極めるも、保延元年(1135)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、そのおもかげは現今もなお林中に点在する数多の礎石及ぴ境内各処より出土する古瓦等に偲ぷ外なく、更に鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補、南大門の再興等室町桃山各時代に亘る復興造堂の甲斐も空しく、明治初年廃仏棄釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のまゝに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っている。 当寺草創に関しては一面、宝亀以前当時秋篠朝臣の所領であったと思われる当地に既に秋篠氏の氏寺として営まれていた一寺院があり、後に光仁天皇が善珠僧正を招じて勅願寺に変えられたと見る説もあり、詳しくは今後の研究を待つ外ないが、当寺の名称の起りを解明する一見解として留意すべきである。 なお宗派は当初の法相宗より平安時代以後真言宗に転じ、明治初年浄土宗に属するも、昭和二十四年以降単立宗教法人として既成の如何なる宗派宗旨にも偏することなく仏教二千五百年の伝統に立脚して新時代に在るべき人間の姿を築かんとするものである。 ◆本堂 当寺創建当初講堂として建立されたが金堂の焼失以後鎌倉時代に大修理を受け、以来本堂と呼ばれてきたもの。事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが様式的に奈良時代建築の伝統を生かし単純素朴の中にも均整と落ちつきを見せる純和様建築として注目される。桁行17.45米(五間)、梁間12.12米(四間)、軒高3.78米、軒出2.29米。 ◆愛染明王 寄木造坐像赤色、推定鎌倉時代末期。瑜祇経愛染王品の所説によって造顕され、一面真言宗の要典理趣経を具象化した明王とも考えられる。大愛欲大貪染三昧に住する尊で、人間の煩悩を以って菩提心たらしめる法力を加備したまうと説かれる。 ◆帝釈天(重要文化財) 普通梵天と一対を成し仏法の守護神として崇められるが、もとはインド教に於ける軍神で、古くより様々の形でインド神話に現われる大神。衣紋の彫の強さ、上半身に見える引き締った厳しさ等に鎌倉彫刻の特性が感じられる。 ◆不動明王 寄木造立像、極彩色、推定鎌倉時代末期。大日如来の使者として真言行者を守護し忿怒の御姿を以って悪魔煩悩を滅除したまうと説かれ、平安時代以降広く信仰される。 ◆薬師如来(薬師瑠璃光如来)(重要文化財) 寄木造坐像素色、推定鎌倉時代後期。当寺本尊。左手に薬壷を持し、右手は施無畏印を成して衆生の病苦を除き安楽をもたらす慈悲尊と説かれ我国仏教の初期より薬師信仰は極めて盛んである。御面相等に貞観風の厳しさも感じられるが技法上かなり後世の作と思われる面が多い。 ◆日光菩薩・月光菩薩(重要文化財) 共に一木造立像、平安時代初期、当初は極彩色であったと思われる。薬師如来本願経により、薬師如来の両脇侍として造顕され、如来の大陽の光の如く温かい慈悲と、月の光の如く清らかな知慧を表すべく夫々の御手に鏡を持して各日輪及び月輪を示すもので、上代の作例としては珍らしい像形である。 ◆十二神将 寄木造立像、極彩色、鎌倉時代末期。薬師如来の眷属として薬師如来の浄土、衆生を護る十二の夜叉。経典には更に各々七千の眷属を従えて護法の任に当ると説かれる。子・丑・寅等十二支の動物形を夫々冠に戴く表現は概して鎌倉時代以降のものに多く見られ、十二の時間及ぴ方位の呼称に結びついた後世の思想に基くものと考えられる。 ◆地蔵菩薩(重要文化財) 一木造立像、素色、平安時代中期。地蔵菩薩本願経によれば、釈尊入滅の後五十六億七千万年を経てこの世の一切衆生を済度するため弥勒菩薩が出現せられるまでの無仏五濁の世にあって、六道衆生に光明を授け衆中を巡導し救済したまう菩薩と説かれ、平安時代初期より盛んに信仰される。単純さの内にも優雅にして清楚の感深く典型的な藤原時代の作風を見せている。 ◆伎芸天(ぎげいてん)(重要文化財) 頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像。密教経典「摩醯首羅大自在天王神通化生伎芸天女念誦法」等によって造顕され経意によれば大自在天の髪際から化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主宰し諸技諸芸の祈願を納受したまうと説かれている。古くは各地に於ても信仰されたと思われるが現在では他に全くその遺例を兄ず我国唯一の伎芸天像である。前記帝釈天像及び梵天像(現在奈良国立博物館に出陳中)、救脱菩薩像(同)の三体と同様最初天平時代に造顕され、後災禍のため御胴体以下を破損し鎌倉時代に至って体部が木彫で補われたものと考えられ、これら四体の像はいづれも頭部のみ当初のままの乾漆造で体部は寄木造である。現在鬘部の宝冠及ぴ両肩より垂れる天衣の一部が欠失し単純な形であるが、時代を隔てゝなお保たれる調和と写実的作風は限り無い人間味を湛え古くより美術家文芸家等の間にも広く讃仰者を集めている。 ◆五大カ菩薩 五体共に寄木造、推定平安時代末期。極彩色。旧訳仁王経に於て、王者がこの菩薩を供養すれば国土安泰と説かれる。台座は本来の岩座を欠失し目下仮座である。 ◆別尊大元帥明王御縁起 大元帥明王(たいげんみょうおう)とは詳には大聖無辺自在元帥明王と称し、仁明天皇承和6年12月常寧殿にて勅修以来、宮中に於てのみ修せられるべく御治定の鎮護国家の大法大元帥御修法(たいげんのみしほ)の本尊として重んぜられ、何地に於ても勅許を得ざる修法は勿論、尊像の造顕奉置も禁ぜられ、その結果我国唯一の像として当寺に伝わるものであるが、その因縁には、かつて常暁律師当寺の閼伽井に於て水底に落る自らの影を眺めるうち更にその背後に長大なる忿怒の形影の重なるを観、甚だ奇特の思いを為してその形を図絵し此を身に帯び、後日渡海入唐の時、折あって此の尊法に遭うを得、先ず本尊を拝するところ正しく本国秋篠寺に化現の像と同じく、これを以って奇しくも明王常暁律師の求法に先立って当寺香水閣閼伽井に示現せられたると知るべきを示す伝説があり、更にその機縁の故に永く禁裏御香水所として明治四年まで例年1月7日の御修法に際し献泉の儀を務めたる歴史を有つ。 なお、阿?薄倶元帥大将上仏陀羅尼経修行儀軌(唐善無畏訳)の本文を取抄すれば左の如くである。 我信じ我礼し我帰し奉る元帥大明王、此れは此れ大毘盧遮那の化、釈迦と諸仏の変、如来の肝心衆生の父母にして不動愛染等の諸々の威徳身、観音無尽意虚空蔵等の諸々の菩薩身、聖天十二天等諸々の功徳心等一切を摂して衆徳荘厳せり。或は金剛忿怒の相を現じ、或は菩薩大慈悲相を現じて類に随って擁護したまう。今願力の故に以って大元帥明王となし、諸尊の中、最尊最上第一の威徳身を顕現す。若し一切世間有情の類、宝呪を持し宝号を称せんに、内外諸障を除きて、必ず世間出世間の願にこたえん。菩提心を成ぜんと願じ、乃至金剛心無畏心に住せん等の出世間の大願を発せんに正法護持の故に悉く願成就せん。又衆生あって、正因縁に住し、災を息めんものは即ち願成就し、栄福を求めんものは即ち願成就し、勝利を為さんものは即ち願成就し、横病を離れんものは即ち願成就せん。明王の名を聞いて一度讃嘆せんものは、世間の宝果悉く円成す。かかるが故に一切世間悉く当に大元帥に皈依すべし。

東大寺南大門

◆東大寺南大門(国宝)五間三戸二重門入母屋造、木造、本瓦葺、鎌倉時代 東大寺の正門で、東大寺伽藍の大半が治承4年(1180)の平重衝の兵火に罹って、焼失した。後に行われた復興造営の一つとして建てられた。 大勧進の職に就いて復興造営の総指揮を執った俊乗房重源上人が、宋朝建築の特色を採り入れて編み出した大仏様の建物で正治元年(1199)6月に上棟されており、その後数年を経ずして落成したと考えられる。 門内に安置されている木像金剛力士(仁王)像は運慶、快慶、定覚、湛慶等20名の慶派の仏師たちが建仁3年(1203)に僅か69日間で造り上げたものである。北向に安置されている一対の獅子像は鎌倉復興造営に参画した宋人の石工達が建久七年(1196)に作ったものである。