新薬師寺

新薬師寺は聖武天皇眼病平癒祈願の為、天平十九年(747)勅願により光明皇后によって建立され、新薬師寺の「新」は「あたらしい」ではなく「あらたかな」薬師寺という意味であります。 当時東大寺と共に南都十大寺の一つに数えられ、四町四方の境内に七堂伽藍甍をならべ住する僧一千人と記録にあります。 三十三年後の宝亀十一年西塔に落雷、瞬時にして炎上、現本堂のみが焼け残ったわけです。当寺所蔵の重宝は建築、彫刻、絵画、工芸など各部門にわたって居り、時代も奈良時代より江戸時代に及んでいます。 ◆由緒 新薬師寺は、天平19年(747)、聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって創建されました。 聖武天皇は、天平15年(743)、動物植物ことごとく栄える盧舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽宮で行基菩薩をはじめ多くの人々とともに大仏造立に着手されました。ところが、天平17年(745) に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中断して平城宮の真東の山麓(現在の東大寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調をくずされました。そこで天皇の病気を治すため、都とその近郊の名高い山、きよらかな場所で薬師悔過(やくしけか)が行われ、都と諸国に薬師如来七躯を造立し、薬師経七巻を写経することが命じられました。   悔過とは過ちを悔いるという意味で、薬師悔過は、病苦を救う薬師如来の功徳を讃嘆し罪過を懺悔して、天下泰平万民快楽を祈る法要です。これは悪い事が起こるのは、貪(欲張り)、瞋(怒り)、癡(愚かさ)の三毒によって生じる罪業が、穢れとなって人々の心に蓄積されるからで、身を清め薬師如来の御前で罪を懺悔することによって、心の穢れを取り除いて悪いものを祓い、福を招くことができるという考えです。  平城京の東の春日山の香山堂でも、僧侶たちが精進潔斎してお籠りし、薬師悔過が勤修されたと考えられます。これをきっかけに、光明皇后によって春日山高円山の麓に新薬師寺(当初は香山薬師寺、香薬寺ともよばれた)が造営されました。天平勝寶3年(751)に、新薬師寺で聖武上皇のための続命法が行われ、天平勝寶4年(752)東大寺で大仏開眼供養法が営まれました。 新薬師寺の金堂には、七仏薬師(善名称吉祥王如来、宝月智厳光音自在王如来、金色宝光妙行成就如来、無憂最勝吉祥如来、法海雷音如来、法海勝慧遊戯神通如来、薬師瑠璃光如来)がまつられていました。金堂は平安時代応和2年(962)の大風により倒壊し現存しませんが、現在の本堂の西方約150メートルやや南寄りにあり、堂内に七仏薬師、脇侍の菩薩二軀ずつ、十二神将が並んだ東西に長いお堂(横幅約600メートル)だったことが、最近の発掘調査で確認されました。 その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園、東西の塔が存在したことが史料からわかります。 鎌倉時代までに、東門、南門、地蔵堂、鐘楼などが建てられ、本堂を中心とした現在の伽藍が整備され、修理を繰り返し今に至っています。 現在でも、毎年1月8日と4月8日には薬師悔過が行われます。 ◆本堂(国宝 奈良時代) 奈良時代の建物です。当初は本堂ではなく、修法を行うためのお堂だったと考えられます。本堂内には円形の土壇(高さ約90センチメートル、直径約9センチメートル)が築かれ、壇上に薬師如来坐像、十二神将立像が安置されています。柱は40本ありすべて円柱です。天井を張っていないので、内側から建物の骨組みをじかに見ることができます。 ◆薬師如来坐像(国宝) 新薬師寺の本尊です。 堂中央の円壇に、木彫の大きな薬師如来坐像が安置されています。 頭と胴体など体幹部分は一本のカヤの木から彫り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ木し、全体の木目を合わせ、一本の木から丸彫りした様に造られています。光背には宝相華樹が大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸び、鼻の上の六軀の小仏は本尊と併せて七仏薬師を示しています。薬師如来は東方浄瑠璃世界の仏さまです。菩薩として修業していたとき、体から光を出して世界を照らし出すこと、人々の不足を満たすこと、病気を癒すこと、正しい道に導くこと、災難を取り除くことなど、十二の願いことをたてました。右手は恐れを取り去る印相で、左手には薬壺を持っています。目は大きく開いています。穏やかで力強く、ふくよかな姿をされています。 ◆十二神将立像(国宝) 薬師如来を信仰する人を守る、夜叉(やしゃ インド神話で森林に住む精霊)の大将です。塑像は木の骨組みに縄を巻き付け、そこに藁を混ぜた粘土をつけて大まかな形を作り、紙の繊維と雲母をまぜた土で上塗りしたもので、眼球は紺、緑、褐色のガラスの吹き玉で表現されています。表面は、青、朱、緑、紫に繧繝彩色(うんげんさいしき 同系統の色ごとに濃淡をつけて立体感を生み出す彩色法)され、現在でも部分的に色が残っています。土壇の上で円陣に取り巻いてお薬師さまを護衛しています。 ◆地蔵堂(重要文化財) 本堂の前方むかって左側の、鎌倉時代の建物です。現在は十一面観音菩薩立像(鎌倉時代)、薬師如来立像(室町時代)、地蔵菩薩立像(南北朝時代)が安置されています。 ◆鐘楼(重要文化財) 南門を入って右側、袴腰(はかまごし 下層の末広がりの部分)が代漆喰塗りの建物です。 ◆梵鐘(重要文化財) 鐘楼の中にかかっています。現在は行事の時や除夜の鐘につきます。 ◆南門(重要文化財) 境内の正面にある、新薬師寺の表門です。鎌倉時代後期に建立されたと考えられています。 ◆東門(重要文化財) 南門より古く簡素な構造から、当初は四脚門ではなく二脚の棟門だったと推定されています。 ◆石仏 南門を入って左側に多くの石仏があります。小屋の中には地蔵菩薩三軀、阿弥陀如来一軀、薬師如来一軀、二面の阿弥陀名号石があります。一番小さな地蔵菩薩は、光背の上部に六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)の姿が刻まれ脇侍には冥界をつかさどる十王を配しています。

氷室神社

8世紀、吉城(よしき)川上流御蓋山麓の春日野に造られた氷室(氷の貯蔵庫)や氷池(製氷施設)に、氷の神を祀ったのが始まり。 のちに現在地に移築された。冷蔵・製氷業者の信仰が篤く、毎年5月1日には献氷祭が催される。 その際、神前には重さ135kg、高さ1mの氷柱や花氷が奉納される。春は境内を彩るしだれ桜が印象的。

正倉院

東大寺を創建した聖武天皇の御遺愛品をはじめとする宝物や東大寺の年中行事用の仏具を納めた倉で、世界的に知られた古美術の宝庫です。 これらの宝物には、中国や朝鮮半島だけでなく、シルクロードを介した、ペルシアやローマの影響も見られる。 校倉造の正倉はあまりに有名で国宝に指定。また宝物の一部は毎年秋、奈良国立博物館で正倉院展として公開されている。

東大寺金堂(大仏殿)

世界遺産。741年、仏教中心の国づくりを進めた聖武天皇の勅願により建立。国力を注いだ事業である大仏鋳造は3年をかけて行われ、752年、開眼供養会が盛大に営まれた。1180年、焼き討ちによって大半の堂塔が焼失したが、重源の勧進で復興。 4949

元興寺

「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが平安時代に焼失してしまいました。 本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も同じ止利仏師の作です。 現在、元興寺が「奈良町」の一角に存在しておりますが天平時代、奈良町は元興寺の境内という広大な寺域を持つ大寺院でした。 伽藍地は南北に細長く、南北四町、東西二町を擁しており、敷地面積は約九萬六千八百平方メートル(約29333坪)という巨大 寺院だったのです。なお、奈良町は歴史を刻んだ地名ですが通称で行政地名ではありません。 天平時代きっての学僧「智光」が住まいとしていた僧房の一室を、念仏道場として使い極楽坊と称されておりました。時の庶民にとって極楽とは未知への憧れであり庶民信仰を集めるには適したネーミングといえましょう。元興寺の一部だった僧房が極楽坊と変わりましたことは国家鎮護の官寺から庶民の信仰寺院へと変革したことであります。結果、極楽坊は元興寺から離脱して独立の別寺となっていきました。 元興寺は室町時代の土一揆で伽藍の殆どを失い、智光曼荼羅を祀る「元興寺極楽坊」、五重塔を祀る「元興寺観音堂」、「元興寺小塔院」の三寺院に分かれました。それと残念なことに当時、智光曼荼羅は別院で保管されていて建物とともに焼失いたしました。 元興寺極楽坊は江戸時代に西大寺の末寺・真言律宗のお寺となり、現在、国宝指定の本堂、禅室、五重小塔の建造物が存在いたします。 元興寺観音堂は東大寺の末寺で、宗派は当然華厳宗です。土一揆で焼失を免れた五重塔も江戸時代に焼失して塔跡となっております。 元興寺小塔院にいたっては見るも無残な姿です。奈良には文化財が多くて整備に手が回らないのでしょう。   元興寺極楽坊の門標には「元興寺極楽房僧坊」となっております。一方の塔跡のある寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。元興寺 極楽坊も昭和52年には元興寺と称することにされたらしいのですが通称元興寺極楽坊です。   「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよということでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから国家鎮護の寺院から庶民信仰の寺院へと刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。 鐘楼の鐘は金閣寺でお馴染みの足利義満によって京都の相国寺に持って行かれるという厳しい試練にも遭遇いたしました。 昔、南都七大寺では「東大寺」に続く大寺であったという元興寺の面影はなく苦難の歴史が想像されます。 明治、大正、昭和18年までは無住の寺となり、「お化け寺」と呼ばれるくらい荒廃しておりました。 元興寺は寂れるにしたがって寺域内に住宅が建ち並び宅地化が進みました。民家の中にひっそりと元興寺があります。気をつけていないと見過ごしそうです。 元興寺極楽坊をお参りした後、元興寺の境内だった古都の風情を今に伝える奈良町をぶらりと散策されれば古き良き奈良にタイムスリップすることが出来ます。

春日大社

春日大社は奈良に都が遷された今から1300年前、平城京鎮護のため、国譲りを達成された最強の武神である武甕槌命様(たけみかづちのみこと・鹿島神宮の御祭神)を神山御蓋山(みかさやま)の浮雲峰(うきぐものみね)に奉遷したのが始まりです。そして神護景雲2年(768)に御蓋山の中腹、現在御本殿が建つ場所に四棟の神殿が造営され、第一殿に武甕槌命様、第二殿に建国を支えた大功のある武神の経津主命様(ふつぬしのみこと香取神宮の御祭神)、第三殿に天照大神様が天岩戸にお隠れになった際、祝詞を奏してお出ましを願った司祭神で、最高の知恵を持つ天児屋根命様(あめのこやねのみこと・枚岡神社の御祭神)、第四殿に天児屋根命様の后神で愛に満ち、平安時代から江戸時代末まで天照大神様としても信仰されていた比売神様(ひめがみ)がお鎮まりになり春日大社は創建されました。 4937

興福寺

天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するために、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた「山階寺」を始まりとする。その後飛鳥廐坂の地に移し「廐坂(うまやさか)寺」と称した。 4938