長谷寺には次のような伝説がある。養老5年(721)徳道上人が一本の楠の大木で二体の十一面観音を造った。木の本で造った尊像を大和の長谷寺にお祀りし、木の末で造った尊像は縁のある地に出現し、人々を救ってくださいと祈って海に流された。その16年後、天平8年(736)6月18日夜、相模国三浦の長井に流れ着き、海上に光明を放っていたという。その後、尊像は御本尊として鎌倉のこの地に移され、徳道上人を招いて寺を開いたのが、長谷寺の始まりといわれている。 また、康永元年(1342)に足利尊氏が金箔を施し、明徳3年(1392)には足利義満が光背を造って納めたといわれる。現存する資料(宝物舘に展示中)から13世紀半ば(鎌倉時代)には長谷寺が栄えていたことを伺い知ることができる。 ◆観音堂(かんのんどう) 御本尊は十一面観世音菩薩。高さ9.18メートルで、歴史のある木造彫刻の観音像としては日本最大で「長谷観音」の名で知られている。十一面観音は頭上に十一の面をもち、前・左・右各三面、後・項上の各一面でそれぞれ表情がちがい、いろいろな人の願いを聞き救うことを表わしている。長谷観音は、一般の十一面観音と異なり、右手に錫杖、左手に蓮華を差した華瓶を持つ独特な姿で、長谷寺系と呼ばれている。地蔵菩薩と観音菩薩の力を兼ね備えた仏さまとして熱心な信仰者が多く、坂東三十三ヶ所観音霊場の第4番札所として古くから知られている。 【御詠歌】 長谷寺へまいりて 沖をながむれば 由比のみぎはに立つは白波 ◆阿弥陀堂(あみだどう) 御本尊は阿弥陀如来。高さ2.8メートル。源頼朝が42歳の厄除けのために建立し、もとは長谷村の誓願寺に安置されていたが、元禄初年ごろ長谷寺へ移されたと伝えられる。俗に「厄除け阿弥陀」といわれ、鎌倉六阿弥陀の一つとなっている。 ◆地蔵堂(じぞうどう) 地蔵菩薩は、大地の恵みのように偉大な力を持つ仏さまといわれる。地蔵堂の両側には不幸にしてこの世に生まれるこができなかった子供達の供養のために、小さなお地蔵様がそなえられている。 ◆大黒堂(だいこくどう) 御本尊の大黒天は応永19年(1412)室町時代の作で、神祭川県最古の大黒天像であるが、現在は宝物館に安置されている。代わっで「出世開運授け大黒天」が祀られており、江の島・鎌倉七福神巡りの一つとなっている。 ◆弁天堂(べんてんどう) 長谷寺の弁財天は、八臂の小さい像で、放生池のそばの弁天堂に祀られている。言い伝えによれば弘法大師が霊感によりおこもりし自ら刻んだといわれており、弁天堂の裏には大師がおこもりした弁天窟がある。 ◆経蔵(きょうぞう) 経蔵には輪蔵と呼ばれる回転式書架があり、寺院にとって大切な経典が納められている。この輪蔵を一回転することにより経典を読むのと同じ功徳があるといわれる。
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上行寺
皮膚病、出来物、癌他にご利益があるといわれる瘡守稲荷があります。 瘡守稲荷のお堂に入ると、すべての病、特に癌に効があるとされる瘡守稲荷と身がわり鬼子母神が祀られている。瘡守稲荷の前に座ると、「薬王経石(やくおうきょうせき)」という大きな黒い石が置かれています。この薬石で患部をさすることで痛みや苦しみが楽になり、心の安らぎを得られるご利益があるそうです。(特に癌患部にご利益があるそう)。北条政子が源頼朝の「おでき」を治すため参拝したという話も伝えられています。
成就院
弘法大師さまが全国を巡り修行された折、この地で護摩行・虚空蔵求聞持法等を修められたと伝えられる。 その後、この霊地に承久元年(1219)執権北条泰時が深願を込め高僧を招き本尊に不動明王きまをまつり普明山法立寺成就院(フミョウサン・ホウリュウジ・ジョウジュイン)と名付け建立した。 元弘三年(1333)新田義貞鎌倉攻めの時に堂宇は焼失し近くの西ガ谷に移っていたが、元禄年中に祐尊僧正が旧地に復興し現在に至っている。 本尊は縁結び不動明王さまであり境内のご分身前で「添え護摩木」を焚き清め願意成就を加持祈念する添え護摩供養を修している。 六月には、由比ガ浜を望む108段の階段両側に般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが咲く。
極楽寺
光則寺
「立正安国論」などによって日蓮聖人が佐渡へ流された時、弟子の日朗上人も、北条時頼の家臣であった宿谷光則の屋敷に捕えられました。やがて、光則は、日蓮聖人に帰依し、屋敷を光則寺としたと伝えられています。 境内の裏山には、日朗上人が捕えられていたといわれる土牢が残っています。 境内には法華経の信者だった宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑があり、樹齢200年といわれるカイドウの古木をはじめ、四季折々さまざまな花が見られる鎌倉有数の花の寺です。
高徳院
鎌倉大仏の名で親しまれている高徳院の本尊、国宝銅造阿弥陀如来坐像は、1252(建長4)年から10年前後の歳月をかけて造立されたとみられる。 制作には、僧浄光が勧進した浄財があてられたという。鋳工として丹治久友、大野五郎右衛門の名を記す史料もあるが、原型作者も含め、創建に関わる事情の多くは謎に包まれている。尊像を収めていた仏殿は、1334(建武元)年と1369(応安2)年に大風で損壊したらしい。15世紀以後、同仏殿が再建された形跡は認められない。 国宝鎌倉大仏 この大仏像は阿弥陀仏である。源頼朝の侍女であったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進(資金集め)して造った。零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない。初めは木造で暦仁元年(1238)に着工し六年間で完成したが、宝治元年(1247)大風で倒れたので、再び資金を集め、建長四年(1252)に至って現在の青銅の像を鋳造し、大仏殿を造って安置した。原型作者は不明であるが、鋳工として大野五郎右ェ門や丹治久友の名が伝へられる。大仏殿は建武元年(1334)と慶安二年(1369)とに大風に倒れ、その都度復興したが、明應七年(1498)の海潮に流失以来は復興せず、露像として知られるに至った。大正12年(1923)の大震災には台座が崩れ 仏像は前に傾いたが倒れなかった。大正14年(1925)台座を補強し仏像を台座に固定せしめる耐震構造の修復がなされた。昭和35年、36年(1960~61)の修理では、前傾している頭部を支える頚部の力を、強化プラスチックで補強し、大正修理でなされた耐震構造を改め、大地震の際は、台座と佛体が離れる免震構造が施された。この強化プラスチックの利用と台座の免震構造は、日本の文化財としては最初のものである。
収玄寺
延命寺
虚空蔵堂
アジサイ参道を下ると左手に鎌倉十井星月ノ井と当山所有の虚空蔵堂がある。 正・五・九月十三日には本尊を開扉し護摩供養を行う。(午前11時・午後2時)虚空蔵菩薩さまの功徳は智慧を授けて下さり、丑・寅歳の方の守り本尊である。
教恩寺