鎌倉五山第4位、臨済宗円覚寺派、金寶山浄智寺は、弘安4年(1281年)北条時頼の三男宗政が29歳で没後、間もなく、宗政夫人と幼少の師時(もろとき)を開基にして、宗政の菩提を弔うため創建されました。 中国、宋の名僧、兀菴普寧(ごったんふねい)と大休正念、及び日本僧南洲宏海の三人が開山になっています。これは、当初開山に招かれた宏海が、任重しと身をひき、師の大休正念を迎えて入仏供養をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀菴普寧を開山としたためです。 創建当初の伽藍は、外門、山門、行堂、仏殿、方丈、庫裏等を備え、塔頭は11院に及んだということです。 永い間には、ただずまいも変化し、現在は、看門寮、山門、鐘楼門、仏殿、書院、方丈、隠寮、庫裏等の堂宇が柏槙や杉木立ちの中に点在しています。 境内は、周囲を緑の山々にかこまれ、昔ながら、広大な寺域を残しており、地理的環境と鎌倉五山の伽藍遺構を後世に伝えるため、国の史跡として保護されています。 ◆寺史 浄智寺が創建された十三世紀の終わりごろの鎌倉は、北条氏の勢力がきわめて盛大で禅宗がもっとも栄えた時期である。 ◆開基 執権として有名な北条時頼の三男宗政が二十九才の若さで弘安四年(1281)に没しているが、間もなく宗政夫人が一族の助けをえて寺を起こし、亡夫と幼少の師時を開基にしたと思われる。 ◆開山 中国の名僧兀庵普寧と仏源禅師大休正念(請待開山)、およぴ日本僧の真応禅師南州宏海(準開山)の三人が名をつらねている。 はじめ、開山に招かれた南州宏海が、大任すぎるといって身をひき、師の大休正念を請じて入仏供養の儀式をおこない、すでに世を去っていた師僧の兀庵普寧を開山にたてたため、複雑な形になったらしい。南州宏海は嘉元元年(1303)に死去し、以後、高峰顕日・夢窓疎石・清拙正澄・竺仙梵僊・古先印元などの高僧がつぎつぎに住職に迎えられている。 延文元年(1356)の火災で、初期の伽藍をうしなうが室町時代ごろには、方丈・書院・法堂・五百羅漢像を安置した三門・外門・行堂・維那寮・僧堂などの主要な建物、あるいは蔵雲庵・正紹庵・正源庵・竜渕山真際精舎・楞伽院・正覚庵・大円庵・同証庵・正印庵・興福院・福正庵といった塔頭が建ちそろっていた。 戦国時代から江戸時代にはいると、鎌倉は農漁村になってさぴれ、寺院の多くもしだいにかつての繁栄ぷりをうしなう。江戸時代の後期ごろには、仏殿・方丈・鐘楼・外門・惣門そして塔頭の中の八院などがあったが、これらの建物は大正十二年の関東大震災でほとんど倒潰した。現在は三門・二階に鐘をさげた楼門や新しい仏殿の曇華殿・方丈・客殿などが伽藍を形造っている。 ◆環境 浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相ついで寺院を建てた北条氏の所領であつたので、今でも禅刹が多い。山を挾んだ隣りが駆込寺の東慶寺で、その向かいには円覚寺があり、建長寺も数分の場所にある。どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸と呼ぷ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのぴ、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の隧道をぬけると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている。全域が、昭和四十三年三月、史跡に指定された。 参道入口の石橋のほとりにある甘露の井は鎌倉十井の一つとして名高く、裏山天柱峰には名僧竺仙梵僊の供養塔や以前この地に住んだ英国の日本文化史研究家G・B・サンソムの記念碑がある。植物もゆたかで、梅・牡丹・シヤガ(著莪)・夏椿などのほか、庭の白雲木が、五月には美しい花を開く。 参道右横の大木タチヒガン(さくら)は、見事な美しさで神奈川県指定百選の一つになっている。また、仏殿横のコウヤマキは鎌倉第一の巨木で、鐘楼前のビャクシンとともに鎌倉市指定文化財である。 ◆文化財 ○木造三世仏坐像 神奈川県童要文化財 本尊として仏殿にまつる。向かって左から阿弥陀・釈迦・弥勒の各如来で、過去・現在・未来の時を代表する。十五世紀半ぱごろに再興された像で、鎌倉地方に多い衣の裾を台座に長くたらした様式の典型的な作品。 ○木造達磨大師像 菩提達磨はインドの僧で、中国に禅をつたえ、六世紀はじめに歿したという。禅宗の祖師としてうやまわれ、その肖像はほとんどの禅刹でまつられている。十四、五世紀ごろの作品。 ○木造大休正念像 禅宗では、達磨など祖師方の関係深い僧の肖像を、絵画や彫刻でつくっているが、この種の肖像中、これは代表的な作品といえる。面部の写実はきわめて鋭く、衣文部の彫技もすぐれている。十四世紀ごろの作品であろう。 ○木造南州宏海像 大休正念像よりこがらで、十四、五世紀ごろの作品であろう。以前は兀庵普寧の像もあったというが、うしなわれた。 ○木造観音菩薩立像 もと三門の上に五百羅漢と一緒にまつられていた像である。南北朝時代の作。 ○木造地蔵坐像 重要文化財 鎌倉市指定文化財 鎌倉国宝館に出陳中。 右手に錫杖、左手に宝珠を持って安坐する像で、鎌倉時代後期の作品。 ○木造章駄天立像 鎌倉市指定文化財 鎌倉国宝館に出陳中。 韋駄天は寒建陀・建陀とも呼ぱれ、天軍の将で走力にすぐれ、邪神を消除して釈迦の遺法を護持するといわれる。甲冑を着け、合掌した腕の上に宝棒を横たえる。顔や両手などは江戸時代に補われたらしいが、胴部は古く十四世紀ごろの作品である。冑の模様には、土をねって型にいれ貼りつけて刺繍に似た効果をだす土紋が使われている。 ○西来庵修造勧進状 重要文化財 鎌倉国宝館に出陳中。 西来庵は建長寺開山大覚寺禅師蘭溪道隆の塔所である、同庵が荒廃したのを歎き、建長寺に住したことのある禅僧玉隠英が、修造の資材をあつめるため、英正十三年(1516)に書いたもの。
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薬王寺
円覚寺
わが国はおおよそ700年前、文永・弘安の二度にわたる蒙古軍の来襲という空前の国難を迎えた。 時の執権(しっけん)北条時宗公はかねてより深く禅に帰依し、弘安の役のさなかにも、中国から招いた無学祖元(むがくそげん)(仏光国師)を師として、日夜参禅に励んでいた。 国を挙げてこの難敵に当たり、蒙古の大軍を撃退した時宗は、文永・弘安両役に殉じた彼此(ひし)両軍死者の菩提を弔い、己の精神的支柱となった禅道を弘めたいと願い、且つその師仏光国師への報恩の念から円覚寺の建立を発願した。 「円覚」の寺号は寺地選定の後、この地から石櫃(せきひつ)に入った円覚経を掘り出したことによるといわれている。 開山の法灯は高峰顕日(こうほうけんにち)(那須雲巌寺)、夢窓疎石(むそうそせき)(天龍寺)と次第し、世に「仏光派」と称された。殊に夢窓は南北朝「七朝の帝師」といわれ、その門流は室町時代にわが国禅界の中心的勢力を形成した。 数度の大火に遭い、衰微したこともあったが、江戸末期に中興の誠拙和尚が出て、伽藍を復興し、現今の円覚寺の基礎を固め、修行者に対して峻厳をもってし、宗風の刷新を図った。 明治には今北洪川・釈宗演の師弟のもとに雲衲(うんのう)や居士が参禅し、関東禅界の中心となった。 居士林における学生坐禅会は古い歴史を誇り、秀れた人材を打ち出した。 首都圏各地からの交通の便に恵まれ、静かな境致と相俟って、各種の坐禅会・夏期講座など多くの人々に親しまれ。「心の寺・円覚寺」と呼ばれ、訪れる人々に深い心の安らぎを与えている。 山内に十八ケ寺の塔頭(支院)があり、近末には浄智寺・東経寺・瑞泉寺がある。 ◆由緒 当山は、臨済宗円覚寺派の大本山にして弘安五年(1282)の開創。開山は中国(宋)より渡来の仏光国師無学祖元。開基は鎌倉暮府の執権北条時宗公。国師は時宗公の熱心な招請に接し弘安二年来朝。初め建長寺に住し、時宗公はじめ鎌倉の武将を教化し、多くの門弟を育てた。 時宗公は弘安四年再度の蒙古の来襲を撃滅した後翌五年正法を興隆し、師恩に報じ、また文永・弘安の両役に戦死した敵味方両軍の菩提を弔うために当山を建立した。 国師の流派を世に仏光派と称し、弟子に仏国国師、孫弟子に夢窓国師が出て、室町時代には国師の法孫は天下に満ち、五山の学僧の主流となった。 江戸時代やや衰微していたが、江戸末期に中興誠拙禅師が出、明治に至って今北洪川、釈宗演の二大禅師出世され再び関東禅界の中心となり、禅風を門外に宣揚した。 ◆山門 天明三年(1783年)当山中興の大用国師誠拙和尚が再建。楼上に観世音菩薩・羅漢が安置されている。「円覚興聖禅寺」の額は伏見上皇の勅筆。円覚の寺号はこの地中より「円覚経」が出たことに由来する。 ◆仏殿 本尊は宝冠釈迦如来。昭和三十九年に再建された。天井に前田青邨監修、守屋多々志揮毫の白龍の図がある。大光明宝殿。 ◆選仏場 仏を選び出す堂宇のことで、元の坐禅道場。1699年に建立。 ◆居士林 禅を志す在家のための坐禅道場、もと牛込にあった柳生流の剣道場を、昭和三年柳生徹心居士より寄進され移築した。 ◆方丈 「方丈」の名は、インドの維摩居士の居室が一丈四方であったことに由来する。本来は住職の居間であるが、多くの宗教行事がここで行われる。 ◆百観音 江戸時代、拙叟尊者が百体の観音石像を奉安し、洪川老師の明治時代に整備され、震災後も一山をあげて復興につとめた。元は塔頭松嶺院の地内にあったが、今回方丈の庭園に移された。 ◆舎利殿(国宝) 源実朝が宋の能仁寺から請来した仏牙舎利を奉安する堂宇。鎌倉時代に中国から伝えられた「唐(から)様式」を代表し、その最も美しい建造物として国宝に指定されている。 ◆開基廟 開基北条時宗のみたまや。堂内に時宗・貞時・高時の尊像が安置されている。 ◆白鹿洞 当山の落慶開堂の日、開山国師の法莚に列するために、この洞中より一群の白鹿が現れたという。この奇瑞によって当寺の山号を「瑞鹿山」という。 ◆黄梅院 時宗夫人の覚山尼が時宗の菩提のために建立した華厳塔の地に、後に足利氏が夢窓国師の塔所として建立した。室町時代に盛んであり、古文書なども多い。 ◆洪鐘(国宝) 1301年北条貞時が国家の安泰を祈って寄進。鎌倉時代の代表的な梵鐘である。
寿福寺
浄光明寺
当寺は鎌倉市扇ケ谷字泉ケ谷の谷間に位し、泉谷山と号し真言宗。本山は皇室御菩提所として知られる京都東山泉涌寺。創建は建長三年(1251)で開基は武蔵守北条長時(幕府第六代の執権)、開山は真阿和尚(勅謚真聖国師)です。第二世は、永仁四年(1296)真阿和尚より当寺長老職を譲りうけた真了房、第三世は月航和上性仙房道空で、この人は律に秀でた学僧でした。第四世は智庵和上如仙房高慧で、当寺はこの時代に大いに発展しました。 即ち元弘三年(1333)には後醍醐天皇の勅願所としての地位を獲得する一方、華厳、天台、三論、法相の四箇の勧学院を建立し、学問の道場としての当時の基礎を築いています。又智庵和尚に対する足利尊氏、直義兄弟の帰依も厚く、尊氏による寺領寄進、直義による仏舎利の寄進等が行なわれたことを書いた古文書が当寺に残っています。建武二年(1335)尊氏は、中先代の乱で鎌倉を追われた直義救援のため、勅許を得ずに東下し鎌倉に入りましたので、天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ関東へ下向させられました。苦悩に疲れた尊氏は近臣数名と共に、最も帰依していた智庵和尚のもとに参じ、箱根竹の下の戦に発向するまで、当寺にちつ居していました。第五世以後の住持については詳でありませんが、室町時代に入っても鎌倉御所の祈願所として、瑞泉寺殿(足利基氏)、永安寺殿(足利氏満)の分骨を納め、代々の鎌倉公方から寺領安堵を受け寺勢大いに振っていたようですが、鎌倉御所の滅亡と共に当寺も衰微し、その後文明、寛文の二回に亘って興隆されましたが、数度の天災、人災によって往時の栄華は殆んど失なわれました。諸堂の配置は、山門を入って右に不動堂、左は客殿、庫裡、石段を上って正面が本堂、その左に収蔵庫(重文阿弥陀三尊像県文矢拾地蔵菩薩像安置)、その奥が開山堂であります。本堂右手の山上に鎮守稲荷大明神の祠があります。 ◆浄光明寺仏殿(本堂)(市指定文化財) 浄光明寺仏殿は、鶴岡八幡宮寺元喬僧都が母の菩提を弔うために資金を提供し、寛文8年(1668)に再建されました。 元々は浄光明寺本尊である阿弥陀三尊像が安置されていましたが、本尊を収蔵庫に遷座されたことにともない、浄光明寺の本山である京都・泉涌寺仏殿に倣って三世仏を造像し、過去・現在・未来にわたる仏法の興隆を祈願しています。 堂内奥には室町時代頃の作と考えられる開基・北条長時の坐像(向かって右)と開山・真阿和尚(真聖国師)の坐像(向かって左)を安置し、堂内右手前には境内の経塚遺跡から出土した常滑窯の大甕(鎌倉時代)を置いています。 ちなみに、仏殿右横の石囲い内に建つ大五輪塔は、仏殿再建に資金を提供した元喬僧都の墓で、傍らにはその母親の墓も建てられています。 ◆(重要文化財)阿弥陀三尊像(中央阿弥陀如来、右観世音菩薩、左勢至菩薩) 正安元年(1299)頃の作。中世鎌倉地方彫刻の代表的作例で、中尊の依文に施された大形の土紋や、長く伸ばした爪、脇侍の姿勢、写実的な衣文のひだ、高く結いあげた宝髻等に宋朝美術の強い影響をうけたその特徴をあらわしています。 ◆(重要文化財)浄光明寺五輪塔(鎌倉時代) 寺の東方、多宝寺址の最奥にあり、多宝寺長老覚賢和尚の墓塔で、極楽寺の忍性塔、順忍塔とならぶ鎌倉の大型五輪塔の一つ。 ◆(県文化財)地蔵菩薩像(通称矢拾地蔵) 南北朝期の作で、小像ながら衣文に施されたきり金文様や細部彫法に精巧な手法がうかがえます。足利直義の守本尊との伝説を持ち、右手に矢柄の錫杖を持っています。 ◆(史蹟)冷泉為相墓 背後の山上にあって宝筐印塔。為相は藤原定家の孫で、父為家の死後遺領細川庄の相続について異母兄為氏と争い、その訴訟のために関東へ下向した母阿仏尼のあとをしたって鎌倉に下り、藤ヶ谷(墓の西北の谷)に住み、鎌倉歌壇の指導者として活躍しました。 ◆(市文化財)石造地蔵菩薩像 山上「やぐら」内に安置され正和二年(1313)の作、供養導師は三世性仙和尚。鎌倉の製作年代のはっきりした石仏として貴重なものです。 ◆(市文化財)愛染明王像 願行上人の作と伝えられ、元寇に際しての敵国降伏の大祈祷会の本尊といわれています。 ◆不動明王像(通称八阪不動) むかし京都八阪寺の五重塔が皇居の方に向って傾いたとき浄蔵貴所がこの像に祈って元にもどしたことから八阪不動明王と呼ばれていますが、室町時代の作。 ◆開山真聖国師像 禅宗の頂相彫刻の流れをくむ像で室町時代の作。 ◆開基北条長時像 開山像と同じく室町時代の作で、法体武人像として、鎌倉肖像彫刻の中で貴重な遺品。 ◆(市文化財)僧形八幡神画象 南北朝時代の作。弘法大師画像(室町時代)と二幅対をなしていて「互の御影」と称され、むかし両者対面の時、互にその姿を描いたものとの伝説があり、本地垂述思想に基いた仏画として高く評価されています。この地方では他に金沢称名寺のものがあります。 ◆三千仏画像 たて二米八十糎、よこ約二米一五糎の大幅で、中央に宋朝の三世仏を描き、周囲には二千数百体の小仏像を描く。南北朝時代の作。 ◆開山真聖国師画像 法衣をまとって、曲汞に腰をかけた通常の頂相画。室町時代。他に江戸時代の絵画が十数点あるが、中では仏涅槃図、冷泉為相画像等が見るべきものです。古文書は、尊氏、直義、持氏、義満等足利氏のものを初めとして、中世、近世のものなど数十通を伝えています。
海蔵寺
鎌倉時代、七堂伽藍を持つ規模の大きい寺があったと伝えられますが、鎌倉幕府滅亡時に焼失し、その後、応永元年(1394)に鎌倉公方足利氏満の命で、上杉氏定が心昭空外を招いて再建され、扇ヶ谷上杉氏の保護を受けて栄えました。 この寺には多くの言い伝えがあります。空外は「那須の殺生石」の話で有名です。仏殿の薬師如来坐像は「啼薬師」、「児護薬師」といわれ、胎内には仏面を収めており、啼薬師伝説があります。 門前には、「千代能が いただく桶の 底脱けて 水たまらねば 月もやどらじ」と歌われたと伝えられる「底脱の井」や、鎌倉時代の遺跡である「十六の井」もあり、水の寺といわれています。 ◆底脱の井 この井戸は、鎌倉十井の一つです。 中世の武将の安達泰盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、 「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば 月もやどらず」 とうたったことから、この名がついたといわれています。井戸の底ではなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。