龍泉寺

龍泉寺(りゅうせんじ)は奈良県吉野郡天川村洞川(どろがわ)にある真言宗醍醐派の寺院で、同派の大本山である。山号は大峯山。吉野の竹林院、桜本坊、喜蔵院、東南院と共に山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の1つ。本尊は弥勒菩薩。近畿三十六不動尊霊場第31番札所。 龍泉寺の境内には、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水が流れていて、修験者たちから「清めの水」とされ、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として著名である[1]。 洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっている。 洞川地区の中心的寺院として龍王講社を組織し、多くの参詣講を組織しているなど、大峯山山上ヶ岳への登拝の出発点となっている。 毎年10月に、八大龍王堂大祭が行われる。

信貴山 朝護孫子寺

 今から、1400年余前、聖徳太子は、物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に至りました。太子が戦勝の祈願をするや、天空遥かに毘沙門天王が出現され、必勝の秘法を授かりました。その日は 奇しくも寅年、寅日、寅の刻でありました。太子はその御加護で勝利し、自ら天王の御尊像を刻まれ伽藍を創建、信ずべき貴ぶべき山「信貴山」と名付けられました。以来、信貴山の毘沙門天は寅に縁のある神として信仰されています。  醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちに癒えました。これにより天皇から朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました。また、朝護孫子寺は「信貴山寺」とも呼ばれ、多くの方に親しまれています。 大和国信貴山は毘沙門天王が日本で最初に御出現になった根本霊場です。今から千四百年前聖徳太子がこの地において仏敵物部守屋討伐を祈願されたおり虎をお供にされた毘沙門天王が出現され戦勝の秘法を授けられました。奇しくもその日が寅の年・寅の日・寅の刻でありました。そこで太子はこの山を「信ずべき、貴ぶべき山」として信貴山と名づけられ自ら毘沙門天王の尊像を彫み守護神としてお祀りになりました。      毘沙門天王のご尊体によろいかぶとを召されておられるのは、世の中のあらゆる邪魔者を退散してやるから心を強く持って、どんな苦しい困難に出会っても、がまん強い精神と慈悲の心を持って何事も行なえということを教えておられるのです。 又、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁盛させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です。 爾来 信貴山毘沙門天は七福神のなかでも商売繁昌、金運如意、開運招福、心願成就の霊験あらたかな福の神として広く信仰され、又ご出現の日時に因み聖徳太子にあやかって寅が三つそろうと三寅の福といい毘沙門さんのご利益が得られ縁起がよいとされています。 ◆由緒 今から1400余年前、日本国の平和を乱す朝敵物部守屋を討伐せんと、聖徳太子、此の山に来り戦勝の祈願をされるや、天空遥かに昆沙門天王が出現され、必勝の秘法を授けられた。 その日は奇しくも寅年、寅日、寅の刻であった。太子はその御加護で敵を滅ぼされ、世治まりて後、自ら天王の御尊像を刻まれ、伽藍を創建して、信ずべき山貴ぶべき山「信貴山」と名づけられ、以来信貴山の昆沙門天王は寅に縁りのある神として信仰されている。 御本尊毘沙門天王を安置し奉る本堂は大和平野を一望に見渡し、大和川の流れを眼下にする風光明眉な急崖に堂々と張り出した豪壮な堂宇である。 本堂正面扁額両側の首足(むかで)は昆沙門天王のお使い ◆福神 毘沙門天王 毘沙門天王は七福神のなかでも、商売繁昌、金運如意、開運招福、心願成就の徳を厚く授けて下さる福の神です。 信貴山毘沙門天王の、ご尊体によろい、かぶとを召されておられるのは、世の中のあらゆる、じゃま者を退散してやるというお姿で、見るからに恐ろしそうな尊顔は、心を強く持って、どんな苦しい困難に出合っても、がまん強い精神で何事も行えということを教えておられるのです。 又、右手に如意宝珠の棒を持っておられるのは、心ある者には、金銭財宝を意のままに授けて、商売繁昌させてやるぞとの思し召し、左手の宝塔は、この中に充満する福を、信ずる者の願いに任せて与えてやるとの福徳の御印です。 ◆信貴山頂 一願成就の空鉢護法(くうはつごほう) 当山中興の祖命蓮上人が竜王の教えを蒙り、信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)の如く、鉄鉢を飛ばして山崎長者の倉を飛翔させ、長者を懺悔させて福徳を授けた出来事に由来し、念願必授を得んと願う人々のために山頂に竜王の祠を建てて、その守り本尊として「空鉢護法の神」を祀って日夜勤行されました。 爾来、多くの参詣者から、「一願成就」の霊験あらたかな守護神として信仰されてきております。 俗に「みーさん」と呼ばれ蛇(巳)神と考えがちでありますが拝殿の額には「竜王」のふりがなを「みーさん」としており拝殿前には、とぐろを巻いた蛇(巳)の石造が並んでおります。 ※竜王=竜神の姿を蛇(巳)に対応させている。 ご縁日 毎月3日・巳の日 ◆信貴山と虎 今から1400余年前、日本の国の平和を乱す朝敵物部守屋を討伐するため、聖徳太子が此の山に来たり、戦勝の祈願をされると頭上に毘沙門天王が出現され必勝の秘法を授けられました。奇しくもその日は寅年、寅の日、寅の刻でありました。 太子はその御加護で敵を滅ぼされ、世治まりて後、自ら天王の御尊像を彫まれ、伽藍を創建して、信ずべき、貴ぶべき山「信貴山」と名づけられました。 以来、信貴山の毘沙門天王は虎に縁りのある福の神として、寅年、寅の日を縁日と定め大法要が行なわれます。

宝山寺(生駒聖天)

延宝6年(1678年)僧宝山湛海(たんかい)の開山。古くは都史陀山 大聖無動寺(としださん だいしょうむどうじ)という。本尊は不動明王(重要文化財)。奈良時代、役行者(えんのぎょうじゃ)が般若窟を行場したと伝えられる。秘仏 大聖歓喜自在天は「聖天さん」と呼ばれる。所蔵品:絹本著色弥勒菩薩像(重文・鎌倉)など。 生駒の聖天さん、又は単に生駒さんとよばれ、人気、商売の神さまとして全国的な信仰をあつめている当山の歓喜天尊は、約300年前開祖湛海律師によって勧請された霊天であり、正しくは大聖歓喜天と称えます。これを身近かに親しみを篭め、略して聖天さまとお呼びしているのであります。 聖天さまは、私たちが持つ様々な現世の願いを余すところなく叶えてくださる尊天で、その霊験のあらたかな事は人のよく知る所であります。この聖天さまを、はじめて此処に勧請した湛海津師は、行学を兼ね修めた江戸中期の傑憎で、寛永6年(1629)2月1日、三重県津市近在、一色村に生れ、壮年の頃から学問で人を救う事は出来か、行こそが人を救う道であるという信念のもとに、終生この行に励んだ方であります。 開祖はかねがね「あらたかな神、仏は有縁の霊地に奉祀しなければ、充分その御威徳を顕すことができない」と考えて、永年天尊奉伺の霊地を探し求めていましたが、計らずも不動明王の冥示を得て延宝6年(1678)此の地に入山したのであります。 開祖が初めて足跡を印したこの地は、霊峰生駒山の中腹、巨巌うしろに聳えて南面し、なだらかな矢田丘陵の彼方に三笠、高円の山々を見遙かす景勝の地であり、清水はこんこんとして尽きることなく、而もその昔、役行者及び弘法大師修練の旧跡でもあったので、此の地こそ開祖が求めて得られなかった仏法有縁の霊地である事を感得し、この山を永世修練の道場、霊尊歓喜天奉伺の根本霊場と定めたのであります。 ちなみに、この岩屋を般若窟と云うのは、役行者がこゝに梵本の般若経を納めたとの伝えがあるからで、惣門の扁額にその文字が見られます。また開祖はこの寺域が弥勒浄土(都史)の内院であるとの古説に基づき、天和2年(1682)仏師院達に弥勒菩薩像を造らせ、この岩屋の本尊としました。また岩山は不動(無動)明王の座所とされるところから、不動明王像を自作して当寺の本尊とし、都史陀山大聖無動寺と称しましたが、のち宝山寺と書かれた弘法大師の真蹟が見出され、これを当山永世不易の寺号に改めたのであります。 入山当初から、数々の困難にうちかって苦行を重ねた開祖は、2年の後山麓莱畑村民の助力を得て、仮本堂を営み、こゝで初めて8万枚の護摩供を修しました。このようにして年を重ねるうち、次第に朝野の信望もあつまり、元禄12年(1699)東山天皇から皇子誕生祈願の勅命を拝して法験を顕し、長宮、秀宮の二皇子が続いて誕生しました。この御礼として開祖が拝領した宝剣は天皇の諱である朝仁の一字を賜わって朝日宝剣と云い、当山の寺宝として今に伝持されております。 爾後代々の天皇から毎年撫物(天皇の身代りになる肌着の類)を預って、玉体安穏万民豊楽の長日祈願を修する習わしだったので、明治の初めまで勅願寺とされてきました。宮家や摂家もまたこの例にならい、幕府でも6代将軍家宣から嗣子誕生の祈願を請われ、このたびも祈りの験は忽ち顕れて、のちの七代将軍家継の誕生を見たのであります。 地元郡山藩の帰依も浅かろう筈はありません。境内諸堂舎の造営や諸尊像の造顕に助力を惜しまなかったのは勿論でありますが、とくに一山の根本中堂である本堂は、同藩家老梶金平父子の助成を得て、貞享5年(1688)に建立されたのであります。 開祖はまた彫刻、絵画にも秀でておって、厨子入五大明王像(重文)をはじめ数々の優作を遺しておりますが本堂の本尊不動明王もその一であります。その御宝前では毎年4月1日、8,000枚の大護摩会式が厳修されるほか、11月初め、過去現在未来3,000の仏名を唱えて懺悔する仏名会もまたこの御堂で行なわれるのであります。 開山はかねてからの天尊との約束に従って貞享3年(1686)本堂の後に聖天堂を建て、浴油、華水の秘供を始めましたが、爾来法燈300年、開山の遺規を守つて毎早朝午前2時からこの堂内で浴油供祈祷が行われております。なお毎年5月1日から10日間は、大般若会式が行われ、その期間特に聖天さまのおそば近く、内陣参拝が出来ますが、薫香たゞようほの暗い御宝前に進めば、累代秘供のあともそのまゝに、自ずと頭が下がり云い知れない歓喜の法悦を感ずるのであります。 のち文化2年(1805)第八世義山和尚の時、天堂を西の山手に移し、唐破風付きの割拝殿をその前に設け、信者の便宜を計りました。現在の八棟造りに改増築されましたのは明治10年(1877)の事であります。その中拝段は、大般若経転読等天尊への御法楽を捧げる所であり、外拝段は信者が四六時中自由に出入し参拝できる所となっております。 十一面観世音菩薩が聖天さまの御本地仏であるところから、天堂の建立に先立ち、天和4年(1684)郡山藩梶氏の助縁を得て観音堂を造営しましたが、天保15年(1844)第十三世法慶和尚がこれを増改築し、大阪、堺の篤信者から寄せられた西国、坂東、秩父各霊場の小観音像百体をこゝに併祠して今日に至っておるのであります。 開祖入山当初の居所であった奥の院には、貞享2年(1685)光明院が、宝永2年(1705)には惣持院が、それぞれ自作の不動明王を本尊とする、開祖自身の修練道場として建てられました。これらが現奥の院本堂の前身建物であります。  正徳6年(1716)1月16日、戒行を一世に謳われた湛海律師は、常楽庵に閉居、弥勒浄土への上生を念じて岩屋の本尊に対座しながら88才の生涯を閉じたのであります。その年奥の院に大慈三昧塔が営まれ、開祖の霊は永くこゝに鎮まることゝなりましたが、開祖はその命終に先立ち「我が影は永く生駒の山に留って、衆生を済度せん」と誓われたのであります。のち明和6年(1769)開山堂が建てられ、律師の座像がこゝに安置されました。爾後代々の法主はよく開祖の遺誡を体し、1日として供養を怠ることなく、奉仕の誠を捧げて今日に至っております。 想えば稀世の律僧によってこの霊域に勧請された天尊が、歴代法主による護持の誠を納受され、その御威徳益々熾んに、寺門の隆昌を見るに至ったのも偶然ではありません。さきには第十四世乗空和尚によって明治17年(1884)に建てられた擬洋風建築獅子閣(重文)があり、ちかくは100万信徒の助縁を得て、当十八世実道和尚によって、開祖予定の場所に自作の愛染明王を本尊として、昭和32年(1957)建立された多宝塔があります。更には昭和42年(1967)在大阪の篤信者青山氏の一建立になった大師堂があって、当山信者並びに縁者の回向の場となっております。こゝを経て奥の院に至る参道に立並ぶ弐百数十体の地蔵、観音等の石仏及び水掛子安地蔵尊は、子達の無魔成育を祈り、亡き子の菩提を願う等、信者たちが色々は願を篭めて建てたもので、供花、名香の薫は終日絶えることがありません。 昭和53年開祖入山300年法要に当り、その記念事業として信徒会館和光殿が惣門内に新設され、又学童の成績向上、入試合格を祈願する文殊堂が境内正面にその華麗な姿を現しました。 たまたまこの地に詣でられたのも御縁あっての事でありましょう。どうぞこれを機として、あらたかな聖天さまの卸本誓である現世の御利益を充分に頂かれ、その御縁によってまことの信にいたられますよう念じてやみません。 まことに信仰の有難さは、身をもってその道を歩みえた者のみが知る喜びと、そして安らかさなのであります。

長弓寺

長弓寺は奈良県生駒市上町にある真言律宗の寺院である。山号は真弓山、本尊は十一面観音、開基は行基と伝える。国宝の本堂は鎌倉時代の密教仏堂の代表作として知られる。