中宮寺

当寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺であります。その旧地は、現在の東方500メートル程の所に土壇として残って居ります。昭和38年の発掘調査により、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置の伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えましょう。而も其の出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)と同系統のもので、法隆寺は僧寺、当等は尼寺として初めから計画されたと思われます。国宝菩薩半跏像(如意輸観世音菩薩)は其の金堂の本尊で、天寿国曼茶羅は、講堂の本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えております。 その後、平安時代には寺運衰退し、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して菩薩半蜘像のみ居ますと云った状態でありました。鎌倉時代に入って中興信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅を法隆寺宝蔵内に発見して取り戻すなど、いくらかの復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。室町時代のことは殆ど判りませんが、旧地よりその時代の古瓦が出土することから、その頃まで法燈が続いていたようであります。ところが、たびたび火災に遭い、法隆寺東院の山内子院に避難し、旧地への再建ならず、ここに後伏見天皇八世の皇孫尊智女王(慶長七年薨)が御住職遊ばされ、以来尼門跡斑鳩御所として次第に寺観を整えたのが今の伽藍であります。 宗派は、鎌倉時代頃は法相宗、その後真言宗泉涌寺派に属し、戦後は法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和三門跡尼寺の随一としてその伝統を伝えております。我国の尼寺の数は少なくありませんが、創建の飛鳥時代このかた千三百余年の永きに亘り、尼寺の法燈を続けているのは実に当寺だけであります。 ◆中宮寺本堂 高松宮妃殿下の御発願により吉田五十八先生が設計され、昭和43年5月落慶の御堂であります。当寺は伏見宮様より女王様御二方と後西天皇内親王様御一方を始め、有栖川宮より皇女御三方が門跡として法燈をお守り戴いております。又高松宮は有栖川宮祭祀をお継承になり、殊に高松宮妃殿下の御母君は有栖川宮の最後の皇女であらせられます。このような高松宮と当寺との浅からぬ御因縁から高松宮妃殿下は、寺に万一の事があったらと御心痛遊ばされ、耐震耐火の御堂の建立を念願されこの本堂が出来たのであります。以前の本堂は西向きでしたが、上代寺院の規則に従い南面にし、而も本堂と鞘堂と池とを組み合わせ、門跡寺院らしい優雅さ、尼寺らしいつつましやかさに昭和の新味を兼ね備えた御堂になったのであります。桝組、募股等の組物を一切使わない簡素なつくりの中に、高い格調を狙ったことが特徴であり、又池の廻りに黄金色の八重一重の山吹を植え、周囲に四季折々の花木を配し、斑鳩の里にふさわしい女性の寺院としての雰囲気にして戴いております。 ◆本尊菩薩半跏像(如意輸観世音菩薩)(国宝) 東洋美術における「考える像」として有名な思惟半跏のこの像は、飛鳥彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上欠かすことの出来ない作品であります。国際美術史学者間では、この像のお顔の優しさを数少ない「古典的微笑(アルカイックスマイル)」の典型として高く評価し、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれております。半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を左膝の上に置き、右手を曲げて、その指先をほのかに頬に触れる優美な造形は、人間の救いをいかにせんと思惟されるにふさわしい清純な気品をたたえています。斑鳩の里に千三百余年の法燈を継ぐ当寺のこの像は、御本尊として永遠に吾等を見守って下さるでしょう。 ◆天寿国曼荼羅繍帳(国宝)※展示繍帳は複製です 聖徳太子は推古天皇即位30年(622)御年48で箆去遊ばしました。御妃橘大郎女はいたくお嘆きになり、太子様を御慕いのあまり、宮中の釆女たちに命じ、太子様が往生なさっている天寿国という理想浄土のありさまを刺繍せしめられたのが、この天寿国曼荼羅であります。もとは繍帷二帳より成り、そこに四百字の銘文が刺繍されていて、その全文は『上宮聖徳法王帝説』という書の銘文に残っております。それによりますと、画者は東漢末賢・高麗加世溢・漢奴加巳利、監督は椋部秦久麻でした。その後、年の経つにつれて破損し、法隆寺の宝蔵に秘せられますが、鎌倉時代の当寺、中興信如比丘尼が発見し、修復されて、別に一帳の模本の繍帳をも製作されました。現在の繍帳は、飛鳥時代の原本と鎌倉時代の模本とが貼り合わされて、一帳にまとめられています。この中の赤衣の像が、当時の服制に照らして太子様ではないかといわれています。図中には亀甲型が四個残り、一個に四字ずつ「部間人公」「千時多至」「皇前日啓」「仏是真玩」の文字をあらわし、『上宮聖徳法王帝説」に伝える銘文に合致しております。

弘願寺

吉野山の黒門をくぐって最初に有るお寺。本尊は阿弥陀如来立像(県指定文化財)で鎌倉時代の正元2(1260)年の作です。 歯痛に霊験があるといわれる関屋地蔵を祀っており、毎年6月4日には歯がため地蔵祭が行われます。

金峯山寺銅鳥居

銅鳥居(重文)-銅鳥居と書いて「かねのとりい」と読む。 聖地への入口、俗界と聖地の境界を象徴する建造物である。吉野から大峯山(山上ヶ岳)までの修行道には発心門、修行門、等覚門、妙覚門という、悟りへの4つの段階を象徴した門が設定されているが、そのうちの「発心門」にあたるのがこの鳥居である。 鳥居の柱が蓮台の上に立っているのは、神仏習合の名残りである。東大寺大仏を鋳造した際の余りの銅で造ったという伝承があるが、現存するものは室町時代の再興である。

喜蔵院

喜蔵院(きぞういん)は、奈良県吉野郡吉野町にある大峰山の護持院。本山修験宗別格本山。役行者霊蹟札所。山号は吉野山。開山は円珍(智証大師)。 桜の名所として知られる吉野山の中腹に位置する。平安時代に京都聖護院の一院として創建された。 江戸時代には儒学者熊沢蕃山が滞在したとされ、境内にはその際の句碑が残されている。 現在は宿坊も営み、本山修験宗の大峯奥駈修行の重要寺院としても知られている。

東南院

東南院(とうなんいん)は、奈良県吉野郡吉野町にある大峰山の持護院。金峯山修験本宗別格本山。役行者霊蹟札所。山号は大峯山。開山は役行者。 霊地霊山は、霊地を開くときに中心になる伽藍を建て、そこから巽(東南)の方角に当たる所に寺を建て、一山の安泰と興隆を祈願した。金峯山寺より東南に位置する。現在は宿坊も営む。

桜本坊(櫻本坊)

桜本坊(さくらもとぼう)は奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗別格本山。大峯山寺の護持院5箇院の1つでもある。本尊は神変大菩薩(役行者)。山伏文化の殿堂と言えるほど多くの文化財が残されている。役行者霊蹟札所。正式な表記は櫻本坊。 伝承によれば、天智天皇から逃れた弟の大海人皇子(後の天武天皇)は、「桜本坊」の前身である日雄(ひのお)離宮にとどまっていた。ある冬の日に桜が咲き誇っている夢を見た皇子が役行者の高弟・日雄角乗(ひのおのかくじょう)に訊ねたところ、「桜の花は花の王と云われ,近々皇位に着くよい知らせです」と答えた。その後、壬申の乱に勝利し,皇位に着いた天武天皇は、夢で見た桜の木の場所(日雄離宮)に寺を建立したとされる。 文禄3年(1594年)に行われた豊臣秀吉の花見の際には、関白・秀次の宿舎となった。もとは金峯山寺の蔵王堂の前に在って密乗院と称していたが、明治初年の神仏分離の際に「桜本坊」と改称された。現在は宿坊も営む。

脳天大神 龍王院

金峯山寺の蔵王堂から西側へ急な坂を下りた川沿いにある、金峯山寺の塔頭のひとつ。 頭を割られた大蛇(金剛蔵王大権現の変化身)を祀っており、「吉野の脳天さん」と親しまれています。 首から上の病気に霊験あらたかと言われており、入学試験合格、病気全癒、商売繁盛祈願の参拝参詣者が多く訪れます。

如意輪寺

如意輪寺(にょいりんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある浄土宗の寺である。山号は塔尾山(とうのおさん)。本尊は如意輪観音。本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵・塔尾陵(とうのおのみささぎ)、世泰親王墓がある。 平安時代の延喜年間(901年 - 922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂裏山に葬られた。以来寺運は衰えたが、慶安3年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗した。 正平2年(1346年)12月、楠木正成の長男・楠木正行が四條畷の戦いに出陣するに際し、一族郎党とともに当寺にある後醍醐天皇陵に詣で、辞世の歌「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」を詠んだという。正行は当寺本堂の扉に鏃(矢じり)で辞世の句を刻んだとされ、その扉とされるものが今も寺に伝わる。 芭蕉は、ここに立ち寄った折、「御廟年を経てしのぶは何をしのぶ草」などの句を残している。