春日山・不空院はその名が示す通り、春日山を背に不空羂索観音を本尊とする真言律宗の古刹でございます。奈良・高畑は春日大社の神職が住まい、多くの文化人に愛された地でもあります。 春日の杜から高円山へと続く門前の小道は、古き奈良の風情を残し、今日も古都を旅する人々が静かに往き交います。ここに足跡を残された弘法大師(空海)を偲ぶ土地の人たちの信仰により「福井之大師」(福井は 不空=福 に発する旧土地名)の別称で呼ばれ、「女人救済の寺」としも知られる所でございます。 「大乗院寺社雑事記」には、ここは鑑真和上の住居があった旧跡である上に、興福寺南円堂建立にあたっては弘法大師が入られ、南円堂の雛型として当山が建てられたと記されます。また境内に残る井上内親王の荒魂を祀った御霊塚は、高畑に内親王の邸があったからであろうなど、歴史上に残る由縁を今に伝えております。 南都(奈良)に戒律復興の機運が昂じた鎌倉時代には、不空院・円晴 西大寺・叡尊 唐招提寺・覚盛 西方院・有厳 の自誓受戒四律僧が、ここで戒律を講じ多くの衆生に戒を授けました。その頃には八角円堂を初め鎮守社や僧坊など複数の堂宇を有する寺観であったようです。特に弁財天女の信仰はさかんでした。 しかし後の戦乱で寺は衰退し、八角円堂以下の堂宇のほとんども、安政の大地震(1854)によって倒壊しました。再興果たせぬまま迎えた明治の神仏判然令(1868)、それに端を発する仏教排撃運動の昂りで、当山も無住職の荒廃した寺となりました。 再興を遂げたのは大正時代。橿原の久米寺より三谷弘厳和尚が当地に入られ、倒壊した八角円堂礎石の真上に現在の本堂を建立し寺域が整えられました。南市・元林院など奈良町の芸妓たちは、美と長寿・芸事精進の祈願に弁財天女を参り、不幸な身の上の女性が「縁切り・縁結び」の祠に手を合わせるなどの信仰を集めました。また妻からの離縁が難儀な時代でしたので、苦しむ女性が駆け込む「縁切り寺」の役も果たしてきました。昭和の初め、照葉という名の芸妓から出家し、嵯峨・祇王寺に入られる波乱の人生が有名な高岡智照尼が、悪縁を逃れて最初に駆け込んだのも当山でした。女人救済の寺として知られ、今日に至っております。 ◆不空羂索観音菩薩坐像(重要文化財) 「春日山」の山号が表すように、当山と春日大社には深い縁があります。当山本尊の不空羂索観音は春日第一神である武甕槌命変化のお姿であります。このために御前には鏡を配し白鹿が控えております。お身体に纏った衣が鹿皮であるところにも、春日大社を庇護した藤原氏との因縁が見て取れます。 当山本尊の坐像は東大寺・三月堂(法華堂)の立像 興福寺・南円堂の坐像とともに「三不空羂索観音」と称されております。 『不空羂索神呪心経』には「この観音様を念ずれば、人災天災の難を逃れ優れた利益を享受でき、臨終にあっては阿弥陀浄土へ往生する」と解かれています。 不空とは「空しからず」余すところなく人々に利益を施すという、この仏の本願の言葉です。羂索とは本来、鳥獣魚を捕る道具ですが、仏が手にすると人々を救済する象徴となります。 「一面三目八臂」お顔が一つ、眼が三つ、腕は八本のお姿で、額の第三の眼「仏眼」は一切を見通す悟りを開いた者の眼です。 正面の手は合掌し、他の四本に 羂索・払子・蓮華・錫杖 を持ち、外の二本は掌を空に向けて開いておられます。観音は悟りを求める修行の姿といわれますが、不空羂索観音は仏眼を持ち、手にする蓮華も開いております。今まさに悟りを開かれたお姿なのでしょう。 ◆宇賀弁財天女 室町時代に作られた本像は、元は当山の鎮守社・御祭神として人々に親しまれた弁財天女。現在は本堂の脇檀で厨子にお納めし、特別の折のみ扉が開かれる秘仏とされております。 豊穣福徳の宇賀神と、才智を掌る弁財天が、習合した日本独自の形である宇賀弁才天は、頭上に鳥居型宝冠と宇賀神「頭は老人で体は蛇」を乗せ、八臂(八本の腕)のそれぞれに武器と財宝の象徴を持つのが特徴です。弁財天信仰がさかんであった頃は、多くの人々が当山を参拝したので、「不空」転じて「福院」とも呼ばれたようです。女性の救済と庇護に力を尽くされる弁天様です。
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帯解寺
当山は、勤操大徳の開基巌渕千坊の一院で霊松庵と申しました。 そして今から約千年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后 (藤原良房公の女)が永い間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、さっそく勅使を立てられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされ、間もなく御懐妊、月満ちて惟仁親王(清和天皇)を御安産になられました。 文徳天皇はお喜びのあまり天安2年(858)春、さらに伽藍を建立になり寺号を改められ、帯解寺と勅命せられました。帯解の名称はこれから始まりました。 ◆徳川時代 徳川2代将軍秀忠公にお世継ぎがなく、正室お江の方が 当本尊に御祈願になって、めでたく竹千代丸(3代将軍家光公)を御安産されました。そして、3代家光公もお世継ぎがなく、側室お楽の方が同様に祈願されて、4代家綱公をご安産され、家光公は、当寺に仏像、仏具等を寄進されております。寛文3年(1663) には4代家綱公より手水鉢の寄進があり、 元禄5年(1692)東山天皇の御時も当山に祈願されて亀の宮を御安産、また明和7年(1770)烏丸大納言の方、嘉永4年(1851)伏見邦家親王の御女伏見宮御息所等、いずれの御方も当地蔵尊にお祈りになって、御安産遊ばされています。 ◆近年の帯解寺 このように創建以来あまたの皇族・将軍はじめ大衆の安産・求子祈願霊場として人口に膾炙され、昭和34年美智子皇后(当時皇太子妃)御懐妊に際して東宮御所に伺候、安産岩田帯、御守を献納、その折「この度のおめでたに際して御所としては、全国200ヶ所の神社仏閣(安産霊場)の中 から御霊験のあらたかな、皇室と関係の深い帯解寺と香椎宮とを選びました。」とのお言葉あり、ついで平成3年秋篠宮妃紀子殿下そして平成13年皇太子妃雅子殿下御懐妊に際しでも同様安産岩田帯、御守を献納しております。 当山では千年来伝わる秘宝の祈祷を修し、安産御守を授与、また子宝なき方には門外不出の秘伝文書により住職自ら御守、護符をしつらえ、一週間祈祷を修して授与申し上げております。このご本尊帯解子安地蔵菩薩は至心に祈願すればたちどころに利益を賜る広大無辺の御仏です。 ◆本尊・地蔵菩薩像(国指定重要文化財) 帯解寺の本尊地蔵菩薩像である。左手に宝珠、右手に錫杖を執り、左足を踏み下げて岩座上に坐す。 地蔵菩薩がこのように半跏の姿勢をとるのは、一説に釈迦入滅後、弥勒仏がこの世に下生するまでの無仏の期間に現れて衆生済度につとめる地蔵菩薩を、兜率天で修行中の弥勒を表わす弥勒半跏思惟像と同じような姿勢で表わしたことによるといわれる。わが国では、平安時代後半期から流行するが、また腹前に 裳の上端の布や結び紐を表わすことが多く、それ故、「腹帯地蔵」として安産祈願の対象としても信仰をあつめた。この帯解子安地蔵菩薩は、そのなかにあって、現在に至るまで霊験あらたかなことでは、このうえない名像として広く信仰をあつめている。 檜材を用いた寄木造の像で、頭部は前後に矧いで挿首とし、躰幹部も前後に矧ぐものと思われる。表面は彩色仕上げ。肩幅の狭いわりに頭部を大きく造るところが本像の一つの特徴といえ、膝にかかる衣の浅い彫りなどには前代の古様が見られる。寺伝によると、安政の地震で堂が転倒し本像も大破したといい、各部に修理の痕跡が認められる。なお錫杖の旧物の一部が、別に保存されている。 ◆本堂(江戸時代) 天安2年(858)文徳天皇の皇后(染殿皇后=藤原明子)が当寺に祈願し、清和天皇が誕生したことで地蔵堂を建立したが永禄10年(1567)に松永弾正の兵火にあい焼失した。その後江戸時代3代将軍家光の援助で再建されたが、安政の大地震で倒壊し、安政5年(1858)に再興されたのが現在の本堂である。最近本堂の後方に防火施設の整った収蔵庫兼内陣部を付設して、後顧の憂いをなくした。 ◆庫裡・書院(室町時代) 床、違棚、付書院を設け落ちついた間取りと成っている。東側の庫裡と一つづきの切妻造りだが庫裡は大改修されており、玄関の敷居から両側の部分に古い柱間が残っている。木組みから見て、永禄10年(1567)松永弾正に焼かれたあと、元亀元年(1570)頃再建された当時のものと考えられている。
庚申堂
海龍王寺
飛鳥時代に毘沙門天を安置して建立された寺院を、天平3年(731)遣唐使として中国に渡っていた初代住持の玄昉が、一切経五千余巻と新しい仏法との両方を無事に我が国にもたらすことを願ったのと、平城宮の東北(鬼門)の方角を護るため光明皇后により海龍王寺としてあらためられました。 玄昉が帰国の途中、東シナ海で暴風雨に襲われた際、乗船に収められていた海龍王経を一心に唱えたところ九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから遣唐使の航海安全祈願を営むようになり、現在も旅行や留学に赴かれる方々が参拝をされています。 また、写経も盛んに行われていたようで、光明皇后御筆とされる自在王菩薩経。般若心経の原本である弘法大師御筆とされる般若心経(隅寺心経)が伝えられています。 創建当時の建物は奈良時代の五重塔として唯一現存する五重小塔(国宝)と西金堂(重文)が残り、本堂(江戸時代・市文)には聖武天皇から賜った寺門勅額(重文)をはじめ、金泥のお姿に装身具と切金文様が美しい鎌倉時代に造立された十一面観音立像(重文)、文殊菩薩立像(重文)などが安置され、同時期に建立された経蔵(重文)とともに、趣き深いたたずまいを創り出しています。 ◆由緒 此の場所には、飛鳥時代より毘沙門天を祀った寺院が在り、藤原不比等が邸宅を造営した際にも取り壊されることなく屋敷の東北に取り込まれる形で存続していましたが、光明皇后の御願により天平三年(731)、新たに堂舎を建立して伽藍をあらためたことで、海龍王寺(隅寺)としての歴史を歩むこととなりました。 海龍王寺が建立されたのは、第八次遣唐使として唐に渡っていた玄昉が、一切経・五千余巻と一切経に基づく新しい仏法を無事に我が国にもたらすのを願ったことと、飛鳥時代から北の方角を護る毘沙門天が祀られていたところに海龍王寺を建立し毘沙門天を祀ることで、平城宮の東北(鬼門)を護るためでありました。 海龍王寺が建立されてから三年後の天平六年(734)十月、唐から帰国の途中、玄昉らが乗った四隻の船団は東シナ海で暴風雨に襲われ、玄昉が乗った船だけがかろうじて種子島に漂着することが出来、翌天平七年(735)三月、帰京を果たしました。 この時、玄昉が持ち帰った五千余巻の経典の中に、海龍王経(かいりゅうおうきょう)という経典が収められており、東シナ海の狂瀾怒涛に漂いながら一心に海龍王経を唱え、九死に一生を得て貴重な多数の経典をもたらした玄昉は、その功績により僧正に任ぜられると同時に海龍王寺初代住持にも任ぜられました。 海龍王経を唱え、九死に一生を得て無事に帰国を果たしたことから、玄昉が起居した海龍王寺において海龍王経を用い、遣唐使の渡海安全の祈願を営んだことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ勅額を賜りました。 この時期、海龍王寺では写経も盛んに行われていたようで、光明皇后が般若心経および自在王菩薩経を一千巻書写され、後の時代には弘法大師空海も自身の渡唐の安全祈願のために一千日間参籠して般若心経一千巻を書写されており、大師の遺巻とされる般若心経の写経(隅寺心経)が残されています。 その後の沿革は余り明らかではありませんが、鎌倉時代の嘉禎二年(1236)、西大寺を中興した興正菩薩叡尊が当寺に起居したことで叡尊との関係が深くなり、正応元年(1288)三月に殿堂坊舎を修造と経蔵の建立、七月には舎利塔を造顕しており、同時代に製作された仏像仏画も多く伝えられています。 これらのことから、真言律宗の筆頭格寺院となった海龍王寺が律法中興の道場として栄えていたことは、西金堂内の五重小塔を戒壇とした受戒の儀式の次第を詳細に記した指図からうかがい知ることができ、また、鎌倉幕府から関東御祈願三十四ヶ寺の一ヶ寺に選ばれ真言宗の特徴である加持や祈祷も盛んに行われていました。 鎌倉時代に隆盛を迎えましたが、京都で応仁の乱が起こると、大和に攻め込んできた軍勢により打ち壊しや略奪に遭い、また、慶長の地震が重なったことで壊滅的な打撃を受けました。江戸時代になると、徳川幕府より知行として百石を安堵されたことで伽藍の修復や維持・管理が行えるようになり、本堂の解体修理や仏画の修復がなされ、「御役所代行所」としての役割も果たしましたが、明治時代になると廃仏毀釈の嵐に呑み込まれ、東金堂や多数の什器を失い荒廃にまかされていましたが、昭和40年から42年にかけて西金堂と経蔵の解体修理が行われ、以降、境内の整備や修復が進められています。 ◆五重小塔(国宝 天平時代前期) 創建当時から西金堂内に安置され細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて造られている 天平時代の建築技法を現在に伝え建築様式の発展をたどる上にも重要である事と建造物としての天平時代の五重塔はこれ一基しか現存していないのでこの点でもこの小塔の価値が高く国宝に指定されている 屋内で安置する事を目的とした為、近くから見た時の工芸的な性格を考え小塔の外部は細部にいたるまで忠実に作られている またこの事は寸法取りにもあらわれ上層部にいくにしたがって塔身が細くなっている事から上層部と下層部の均整を重視した寸法取りを行っている事がうかがい知れる
不退寺
仁明天皇の勅願により近衛中将兼美濃権守加戯郡部朝臣の建立になる不退寺は大同4年(809)平城天皇御譲位の後、平城京の北東の地に萱葺きの御殿を造営、入御あらせられ「萱の御所」と呼称せられた。その後皇子阿保親王及びその第五子業平朝臣(825-880)相承してこゝに住した。 業平朝臣伊勢参宮のみぎり天照大神より御神鏡を賜り「我れつねになんじを護る。なんじ我が身を見んと欲せばこの神鏡を見るべし、御が身すなわち神鏡なり。」との御神勅を得て霊宝となし、承和14年(847)詔を奉じて旧居を精舎とし、自ら聖観音像を作り本尊として安置し、父親王の菩薩を弔うと共に、衆生済度の為に『法輪を転じて退かず』と発願し、不退転法輪寺と号して、仁明天皇の勅願所となった。 略して不退寺(業平寺)と呼び、南都十五大寺の一として、法燈盛んであった。その後時代の推移と共に衰頽したが慶長7年(1602)、寺領50石を得て、一時寺観を整え南都に特異な存在を示した。昭和5年(1930)4月久宮邦英殿下が御来山なされ、修理進捗の記念に、香炉1基を下賜されたことが、寺史に精彩を加えている。 ◆南門(重要文化財) 切妻造本瓦葺の四脚門で、方柱には大きな面を取り左右身柱の上に豪壮な板蟇股を載せ、中央冠木の上には束を中心に、笈形風にいろいろと飾り立てているのが特異である。鎌倉末期の建築で、昭和九年の修理により墨書銘を発見確認されている。笈形を盛んに用いた室町・桃山の建築様式の先駆をなしたともいえる最古のものである。 ◆本堂(重要文化財) 桁間五間、梁間四間、屋根単層、寄棟造本瓦葺、軒は二軒で二重繁?、斗拱は三斗の枠組、中備に間斗束を配している。軸部は円柱で正面の頭貫を虹梁の様態に扱っている。これが正面中央に虹梁を架けた最初のもので、この方法が鎌倉時代に入って一般となったもので注目すべき点である。内部の柱頭部に三斗を組み、木鼻をつけている特異な構造であって、中央に二条の大虹梁を架け、梁の上に太瓶束を立て・折上組入天井の廻縁を支えている。爾未、桃山・江戸・昭和と三回の修理を経て現在に至ったもので、その様式を完全に残している。 ◆多宝塔(重要文化財) 柱は方柱大面取、方一二間で中央の間に板扉を開き、左右には青鎖窓をはめている。斗拱は三斗出組とし、斗拱間には鎌倉時代特有の美しい蟇股を配し、柱頭部には頭貫を通じ、貫端に天竺様の木鼻を附けている。内部は二重折上げの小組格天井をはめ、彩絵を以て装飾している。その一部は修理に際し復原されたものである。この塔には最初上層があって檜皮葺であったことが寛政年間刊行の大和名所図絵によって明らかで、高さは十三メートル六〇、明治以降下軸部のみとなったとはいえ、鎌倉中期の特徴を具え当代の多宝塔としては出色のもので、池を隔てゝ見る姿はまことに優雅である。 ◆聖観世音菩薩立像(重要文化財) 1メートル90(平安初期)、本尊であって木彫一木造りで、全身胡粉地に極彩色の花文装飾を施した豊満端厳な像で、業平朝臣御自作の代表的な名作である。 ◆五大明王像(重要文化財) 木彫着彩、不動明王(中尊)降三世明王(四面八臂)1メートル50、軍茶利夜叉明王(一面八臂)1メートル58、金剛夜叉明王(三面六臂)1メートル46、大威徳明王(六面六臂牛騎)1メートル45の五躯であるが、五大明王がかく完備したのは珍らしいもので金剛夜叉明王は特に傑出している。藤原時代中期の作風をもつ貴重な遺作である。 ◆阿保親王坐像(県指定文化財) 1メートル、木彫、鎌倉時代のもので、肖像彫刻中の佳作で業平朝臣の父である。 ◆地蔵菩薩立像 70センチ、木彫一木造りで、弘仁時代の作で多宝塔に安置された千体地蔵の本尊とも言うべきものであろうと言われている。千体地蔵は現在数体残しており、墨書銘によると(御仏千躰地蔵菩薩安浪御作也…)安浪作の千体地蔵が安置されてあったことが判った安阿彌のかへ字で、名工快慶をいうのであろう。 ◆石棺(5世紀) 庫裡の庭にあって石材は春日砥(砂岩の一種)で、心ない草刈の人たちがこれで鎌を研いだと思われる痕が沢山残っている。附近には古墳が沢山あって、おそらくそこから運ばれたものであろうと言われている。
霊山寺
正暦寺
大安寺
十輪院
優曇華や石龕きよく立つ佛 秋桜子 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置します。 奈良時代の僧で書道の大家、朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の開基といわれています。 本堂(国宝・鎌倉時代)は軒や床が低く、当時の住宅を偲ばせる建造物です。 十輪院の本堂の中には本尊である地蔵菩薩を中心にした石仏龕(せきぶつがん・重文・鎌倉時代)を祀ります。 そこには釈迦如来、弥勒菩薩の諸仏のほか、十王、仁王、四天王や北斗曼荼羅の諸尊などが刻まれ、非常に珍しい構成を見せています。 境内には、魚養塚、十三重石塔、興福寺曼陀羅石など多数の石仏が点在しています。 ◆由緒 十輪院は元興寺旧境内の南東隅に位置し、静かな奈良町の中にあります。 寺伝によりますと、当山は元正天皇(715-724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれています。また、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくねなかい)の開基とも伝えられています。 沿革は明らかではありませんが、鎌倉時代「沙石集」(1283)には本尊石造地蔵菩薩を「霊験あらたなる地蔵」として取り上げられています。 室町時代には寺領三百石、境内1万坪の広さがあったようですが、兵乱等により、多くの寺宝が失われました。 その後江戸期には徳川幕府の庇護を受け、寺領も五拾石を賜り、諸堂の修理がなされまし た。 明治時代の廃仏毀釈でも大きな打撃を受けましたが、現在、当山の初期の様子を伝えるものとして、本尊の石仏籠、本堂、南門、十三重石塔、不動明王二童子立像、それに校倉造りの経蔵(国所有)などが残っています。 近年、昭和28年本堂の解体修理から、平成8年防災施設の完成により、諸堂宇が整備され、境内は寺観を整えることができました。 ◆本堂(国宝) 間口11.20m奥行8.47m高さ5.68m寄棟造瓦葺 後方の石仏龕を拝むための礼堂として建立されました。正面に一間通りの広縁を設け、垂木を用いず、厚板と特異な組物で軒を支えています。こじんまりした内部は一本の柱を外陣・内陣に使い分け、低い天井は簡素な棹縁天井となっています。蔀戸が用いられ、軒及び床を低くおさえ、屋根の反りを少なくするなど、当時の住宅をしのばせる要素が随所にみられます。蛙股や木鼻、正面の柱などは創建当時のものです。 ◆石仏龕(がん)(重要文化財) 間口2.68m奥行2.45m高さ2.42m花崗岩製 寺伝では、弘仁年間(810~823)に弘法大師が石造地蔵菩薩を造立された、とあります。龕中央の奥に本尊地蔵菩薩、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮き彫りで表わしています。そのほか、仁王、聖観音、不動明王、十王、四天王、五輪塔、あるいは観音・勢至菩薩の種子などが地蔵菩薩のまわりに巡らされ、極楽往生を願う地蔵世界を具現しています。龕前には死者の身骨や棺を安置するための引導石が置かれます。 また龕の上部、左右には北斗七星、九曜、十二宮、二十八宿の星座を梵字で陰刻し、天災消除、息災延命を願う現世利益の信仰も窺い知ることができます。引導石の左右には南都仏教に伝統的な「金光明最勝王経」「妙法蓮華経」の経幢が立てられています。この石仏龕は当時の南都仏教の教義を基盤に民間信仰の影響を受けて製作されたもので、非常にめずらしい構成を示しています。大陸的な印象を受ける技法で彫刻されていることも注目されます。
白毫寺
白毫寺は、奈良市東部の山並み、若草山・春日山に続き南に連なる高円山の西麓にある。高円と呼ばれたこの地に天智天皇の第七皇子、志貴皇子の離宮があり、その山荘を寺としたと伝えられが、当寺の草創については、他にも天智天皇の御願によるもの、勤操の岩淵寺の一院とするものなど諸説あり定かではない。「南都白毫寺一切経縁起」によれば、鎌倉中期に西大寺で真言律宗をおこし、多くの寺を復興し、またさまざまな社会事業に関わった興正菩薩叡尊が当寺を再興・整備したとされる。弘長元年(1261)、叡尊の弟子道照が宋より大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経転読の基を開いた。以来当寺は一切経寺と呼ばれ、現在も4月8日に一切経法要が営まれる。「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」の句が人々の口伝えに伝えられ、その法要の後、本当の春が奈良に訪れるとされた。明応6年(1497)、古市・筒井勢による戦乱で殆どの堂宇を焼かれるなど度重なる兵火・雷火で堂塔を失う憂き目を負っているが、江戸時代寛永年間に興福寺の学僧空慶上人が再興し、江戸幕府からご朱印寺として禄高五十石を扶持され繁栄した。なお白毫とは仏の眉間にあり光明を放つという白い毛のことであり、寺号はそれにちなむものと思われる。 現在、宝蔵に本尊阿弥陀如来坐像をはじめ閻魔大王坐像ほか重要文化財を、本堂(江戸時代)に勢至・観音菩薩像、聖徳太子二歳像他を安置する。また御影堂(江戸時代)には中興の祖空慶上人をおまつりしている。境内には不動、弥勒、地蔵などの石仏が点在し、西をのぞめば奈良市街を眼下に見渡せる。春には樹齢およそ400年の五色椿(県天然記念物)をはじめ数多くの椿が咲き、秋は参道を紅や白の萩の花が覆って、季節の風物を求めていにしえの人々が遊んだ往時をしのばせる。 ◆阿弥陀如来坐像(重文 平安時代~鎌倉時代)(像高138センチ) 定朝様式の阿弥陀像で当寺の御本尊。桧材の寄木造で漆箔を施す。伏し目のもの静かな温顔と、穏やかな肉取りの体部、浅い彫り口の衣文などをもち、やや力強さに欠けるが、いかにも品よく仕上げられている。 ◆地蔵菩薩立像(重文 鎌倉時代)(像高157センチ) 慈眼と温容に満ち、錫杖と宝珠をもって立つこの像は、当初の光背・台座まで完備する。桧材を用いた寄木造で、施された彩色は剥落も少く、切金もかなり残っている。鎌倉後期につくられた地蔵菩薩像の秀作である。 ◆伝・文殊菩薩坐像(重文 平安時代)(像高102センチ) 大きい宝髪、張りのある顔、肉取りの厚い体と膝ぐみをもち、平安初期彫刻の特質をよくそなえた菩薩像。桧の一材で頭.体部から脇にかかる天衣まで巧妙に彫刻している。もとの多宝塔の本尊で、この寺で最古の仏像。 ◆司命・司録像(重文 鎌倉時代)(像高132センチ) 閻魔王・太山王の春属。ともに虎の皮を敷いた椅子に腰をかける。司命は筆と木札をもち、上を見て口を固く閉じる。司録は書巻(欠失)を両手にもち、これを声高に読み上げるかのように口を大きく開く。両像とも寄木造で彩色と切金とが残っている。明応の火災には救出されたが、司録の首は後補されている。正元元年頃の康円一派の作としてその価値は高い。 ◆興正菩薩叡尊坐像(重文 鎌倉時代)(像高73.9センチ) 戒律復興や貧民救済に活躍した西大寺叡尊は、白毫寺の中興の祖でもある。寄木造彩色像で、眉の長い特徴ある風貌で端然と坐す姿は晩年の叡尊をみごとに捉えており、肖像彫刻の優品である。 ◆閻魔王坐像(重文 鎌倉時代)(像高118.5センチ) 元あった閻魔堂の本尊で、寄木造の彩色像。大きい冠と道服をつけ、笏を持って身構える。玉眼の目はことに鋭く、口をカッと開いて叱咤する。この迫真性に富んだ盆怒の形相は、礼拝者に畏怖の情を十分に与える。 ◆太山王坐像(重文 鎌倉時代)(像高129センチ) 閻魔王と一対の作だが、明応6年(1497)兵火に遇い頭・体部と膝ぐみの前面が大きく焼けこげた。翌七年の修理で現状にもどった。体内に造像当初の墨書があり、正元元年(1259)大仏師法眼康円の作とわかる貴重像である。