和銅6年(713)行基(ぎょうぎ)菩薩の開基と伝え、古義真言宗(こぎしんごんしゅう)に属する。 もと葛井(くずい)寺と称したが、弘法大師の高弟の道昌僧正が貞観10年(868)堂塔をおこして法輪寺と改め、弘法大師の修行の遺跡として有名な境内の葛井(かどのい)に姿を現した虚空蔵菩薩を自ら彫って本尊としたと伝える。 奥州柳井津、伊勢朝熊(あさま)とともに日本三大虚空蔵といわれ、智福技芸の守護仏として信仰されている。 天慶年間(938~947)に空也上人が参籠し、勧進によって堂塔を修造した。 本尊は幼年期から成長期に移ろうとする人生の転換期を守護されるというので、毎年4月13日に13才になる男女が参詣する。 これを十三詣りという。 本堂は元治元年(1864)の兵火にかかって焼失したのを明治になって再建したもので、堂内には本尊の傍らに持国(じこく)天、多聞天立像二体(重要文化財)を安置する。
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車折神社
平安時代末期の学者で、明経(みょうぎょう)博士の清原頼業(きよはらよりなり)公(1122~89)を祀る。 社伝によれば、後嵯峨天皇が、牛車に乗ってこの社前を通ろうとした時、突然牛が動かなくなり、車の轅(ながえ)が折れたことから、車折神社と呼ばれるようになったといわれている。 昔から学問の向上、商売繁昌、売掛金回収に御利益があるといわれ、社務所で授与された小石に祈願を込め、家に持ち帰り、願いが成就したらお礼の石を一個添えて神前に返納するという慣しがある。 境内には、芸能道の祖神といわれる天宇受売命(あまのうずめのみこと)を祀った芸能神社や、当社の宮司でもあった富岡鉄斎の筆塚などがある。 毎年5月の第3日曜日に行われる三船祭は、新緑の嵐山大堰川に、御座船、龍頭船、鷁首(げきす)船をはじめ、扇流し船などの多くの芸能奉納の供奉の船を浮かべて、平安時代の優雅な風情を再現するものである。 ◆由緒 ご祭神・清原頼業公は平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の御子孫にあたり、一族の中には三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘、清少納言らの名も見られます。 頼業公は大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた程です。 頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、そこに車折神社の前身となる廟が設けられました。やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、神社に隣接して「宝寿院」という寺が営まれます。この寺は室町時代に至り、足利尊氏によって嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となり、神仏習合で神社と寺が一体となり、明治時代に至ります。 また、頼業公は生前、殊に桜を愛でられたのでその廟には多くの桜が植えられ、建立当初より「桜の宮」と呼ばれていましたが、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌、この社前において牛車の轅(ながえ)が折れたので、「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られます。これ以後、当社を「車折神社」と称することになりました。 ◆ご神徳 ご利益 ご祭神・清原頼業公のご学徳により学業成就や試験合格はもとより、特に、「約束を違えないこと」をお守り下さる霊験あらたかな神様として全国的に強い信仰があります。 例えば、商売をなさっている方においては、様々な約束事や契約が守られることにより、集金が滞りなく進み、経営が都合よく運ぶ御加護(商売繁昌)が頂けます。 同様に一般のご家庭においても、家計のやり繰りが都合よく運び、生活が豊かになり、お金に不自由しない御加護(金運向上)が頂けます。 更に恋愛や結婚においても、様々な約束事や誓いが守られ、順調に成就・進行する御加護(良縁成就)が頂け、ご社頭には遠近からお参りする人々が絶えません。 また境内は桜と紅葉の名所として知られ、特に桜は様々な種類が2月下旬から4月下旬までご覧になれます。 ◆祈念神石(きねんしんせき) 願い事のある方は、はじめに社務所にて祈念神石を授かり、ご神前において願い事を心中にて強く念じた後、持ち帰り、願い事が成就した折には自宅や海・川・山などで石を一個拾って洗い清め、その石に「お礼」の言葉や祈願内容を書き記し、授かった祈念神石と共にご神前に返納するならわしとなっています。
祇王寺
往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、この地は、平安時代に、法然上人の弟子、念仏房良鎮(りょうちん)が往生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。 平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、母刀自(とじ)、妹祇女と共に出家し、当地に移り住んだ。 後には、仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。 現在の本堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、堂内には、本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置している。 境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝筐印塔及び平清盛の供養塔などがある。 「平家物語」の遺跡。平清盛が愛した祇王、仏御前がのちに妹の祇女、母刀自とともに尼僧として余生を過ごした、と伝える。 真言宗。本尊大日如来のほか、清盛、祇王・祇女らの木像を安置。祇王・祇女の墓といわれる宝筐印塔、鎌倉時代の作とされる清盛の五輪の石塔がある紅葉の名所。 紙王寺は竹林と楓に閉まれたつつましやかな草庵で、『平家物税問』にも笠場し、平山市盛の飽愛を受けた内拍子の祇£が消肢の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られております。 紙王寺は北口の往生院の境内にあり、往生院は法然上人の門弟良鋲によって創建されたと伝わっています。山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は北廃し、ささやかな尼寺として残り、後に紙王寺と呼ばれるようになりました。 紙王寺墓地の入口にある碑には「妓王妓女仰刀自の旧跡明和八年半卯正当六百年己心往生院現住尼法専建之」とあって、 この碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八月十五日寂」と刻まれているのは紙王のことと思われます。 紙王寺は明治初年に廃寺となりましたが残された慕と仏像は旧地頭の大覚寺によって保管されました。大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ、再建を計画していた時に、元京都府知事北垣国道氏が祇王の話を聞き明治28年に嵯峨にあった別荘一棟を寄付されました。これが現在の紙王寺の建物です。これらの関係から祇王寺は真言宗大覚寺派の寺院で、旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院ともなっています。
宝厳院
臨済宗・天龍寺塔頭。 寛正2年(1461年)聖仲永光禅師を開山に迎え創建。 もとは上京区禅昌院町にあり、細川頼之の昭堂を寺としたという。 応仁の乱の兵火に会うなどしたが、豊臣秀吉の恩顧によって再建。 昭和47年より天龍寺塔頭弘源寺の境内にあったが、平成14年1月に現在地に移り再興した。 「都林泉名勝図会」にも掲載された、嵐山を借景とする回遊式庭園「獅子吼の庭」は紅葉と巨岩を配した庭園である。 本堂障壁画「風河燦燦三三自在」(田村能里子画伯筆)がある。特別公開時のみ。 平成15年に、庭園内に大正時代に建てられた茶室が修復を終え、「青嶂軒(せいしょうけん)」と名付けられ、茶会会場としても利用されるようになった。 ◆由緒 大亀山宝厳院は臨済宗大本山天龍寺の塔頭寺院で寛正二年(1461)室町幕府の管領細川頼之公により天龍寺開山夢窓国師の第三世法孫聖仲永光禅師を開山に迎え創建された。 創建時は、京都市上京区に有り広大な境内を有した寺院であった。応仁の乱により焼失したが再建され天正年間には、豊臣秀吉より御朱印料三十二石を付与、徳川幕府も明治に至るまで外護した由緒寺院である。その後、変遷を経て天龍寺塔頭弘源寺境内に移転の後、現在地(旧塔頭寺院跡)に移転再興された。 本堂には、本尊聖観世音菩薩、脇仏に三十三体の観世音菩薩、足利尊氏が信仰したと寺伝にある地蔵菩薩像が祀られており、西国三十三ケ所巡りに等しいと伝えられている。 ◆獅子吼の庭 この庭園は室町時代に中国に二度渡った禅僧策彦周良禅師によって作庭された名園で嵐山を巧みに取り入れた借景回遊式庭園である。「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴く事によって人生の真理、正道を肌で感じ心が大変癒される庭である。 庭園内には須弥山を現す築山、その前には人生を思わせる「苦海」(空池)が広がり対岸には「雲上三尊石」が有り海の中には、「此岸」より「彼岸」に渡る舟石、仏の元に渡る獣石が配置されている。また策彦禅師が命名された「獅子岩」、「碧岩」や「響岩」といった巨岩を身近に観る事が出来る。回遊路の途中には「破岩の松」が天に向かって真っすぐ生えているのを見ると「願心」の大切さを痛感する。 また、この庭園は江戸時代、京都の名所名園を収録した「都林泉名勝図会」(秋里籬島著)にも掲載された名園中の名園である。 春は新緑、秋は紅葉と一年を通して目を楽しませてくれる。 門前には、「嵐山羅漠」が祀られており、「羅漢」とは釈尊の弟子で崇高な修行者、「悟りを得た人」を意味する。「五百羅漢」を天下の景勝地・嵐山に建立する事により、人類の安心立命と嵐山の守護・景観保全を祈念するとともに、有縁無縁の菩提を弔うものである。 夢窓国師日く『山水ニハ得失ナシ、得失ハ人ノ心ニアリ』
神護寺
高雄山と号し、高野山真言宗の別格本山である。当寺の起原は、もと高雄山寺といい、天応元年(781)愛宕(あたご)五坊の一つとして建立されたといわれ、また和気清麿(わけのきよまろ)が河内(かわち)国(大阪府)に建てた神願寺を天長元年(824)この地に移し、空海(くうかい)(弘法(こうばう)大師)が住持となって、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改稱した。 その後寺運は次第に衰え、寿永三年(1184)文覚(もんかく)上人の中興もあったが、応仁の乱で再び衰え、豊臣・徳川氏などによって漸次修営され、現在に至っている。 大師堂(重要文化財)は桃山時代に再建されたもので納涼房といって、もと空海の住房であったと伝える。また鐘楼にかかる銅鐘(国宝)は貞観(じょうがん)一七年(875)の鋳造で橘広相(たちばなひろみ)の序詞・菅原是善(これよし)の撰銘・藤原敏行の書で古来三絶の鐘といい、著名である。金堂内の薬師如来立像・多宝塔内の五大虚空蔵(ごだいこくぞう)菩薩坐像(いずれも国宝)のほか、多くの重要文化財を有する。 境内の大師堂(重文)は桃山時代の再建であるが、そのほか平安時代初期より鎌倉時代初期にわたる多くの寺宝(国宝16点・重文2372点)を有している。 なお、境内西端、地蔵院前で行う土器(かわらけ)投げは、高尾名物として来山者の興趣をそそる。 ◆神護寺もうで 京の郊外の清遊地として古くから知られる、三尾の一つ高雄へは、都心から自動車でなら三十分を要せずして、錦織りなす清滝川のほとりに達します。 「もみじといえぱ高雄」のここ神護寺の、約20万平方メートル(60,400坪)の山内全域は、木々の緑と紅葉におおわれて、朱の金堂はカエデと色をきそい、大師堂は七世紀間の風雪に堪えてひっそりと静まり、多宝塔は緑をぬきん出て建ち、絵筆に描き尽くせぬ美しさです。 境内最西端の地蔵院の庭からながめる、清滝川の清流がつくる錦雲峡は、有名な「かわらけ投げ」のかわらけの、ゆくえを定めかねる、千仞の渓谷です。 春は桜が満山をかざり、夏は蝉しぐれに明け、河鹿、ひぐらしの声に暮れ、冬は雪に埋もれてこよなく美しい、当神護寺は、四季を通じて自然の美しさにつつまれて、しみじみと人の世のあり方を考えるのによい環境です。 ◆神護寺のはじまり 平安京造営(794~)の最高責任者(造宮大夫)であった和気清麿公が、いまの愛宕神社の前身、愛宕山白雲寺などとともに建てた愛宕五坊の一つで、「高雄山寺」とよばれたが、天長元年(824)、河内(大阪府)の神願寺(清麿公創立)の地が、よごれた所でふさわしくないという理由から高雄山寺に合併されて、「神護国柞真言寺」と称したのがはじまりでありますが、これより先、和気一族は、叡山の最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)をこの寺に招いて活躍の場とされたため、時の仏教界に新風を送ることとなり、平安仏教の発祥地となったところであります。 ことに弘法大師は唐(中国)より帰朝して、大同4年(809)に入山、いらい、14年間任持され、真言宗立教の基礎を築かれたところでありまして、のちの東寺や高野山金剛峰寺と並らぶ霊刹であり、弘法大師を初代としております。 ◆文覚上人の再輿 平安時代に二度の災害のため、堂塔のほとんどを焼失しましたが、一世の豪僧、文覚上人がその荒廃をなげいて、寿永三年(1184)後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあって往年以上の復興をみました。 ◆現在の盛観 応仁の乱では再び兵火をうけ、大師堂をのこして焼失しましたが、元和9年(1623)龍厳上人のとき、所司代板倉勝重の奉行によって楼門、金堂(いまの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、近くは去る昭和10年山口玄洞居士の寄進で、昭和の名作といわれる金堂、多宝塔などが新築されて、今日の美観を整えております。 ◆当山の宝物 その始まりと、中興の歴史が示しておりますように、寺宝には、平安時代前期(約1,100年前)と鎌倉時代(7~800年前)の二期にわたるものが大部分であり、しかも芸術的価値においては第一級品に目されるものを数多く所蔵しておりまして、国宝16点、重要文化財2,372点があります。 毎年5月初旬の「宝物虫払い」行事には、これらの主要なものを順次展観いたします。 ◆弘法大師の宗教 堕落した奈良仏教にあきたらず、入唐求法によって弘法大師が将来、開宗された真言宗は、従来の仏教、すなわち顕教からは、秘密仏教(密教)といわれますが、この真言密教の宗といたしますところは、 「真言陀羅尼には神秘の力があり、その一字一句には百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修することによって、災を退け、福を招くことなどができるし、凡夫の身でもすみやかに仏になることができる」 と、現世において利益をうけることができることを説いているものであります。 平安時代には、当時の権力者であった朝廷や公卿・貴族の信仰が厚かったため、世に貴族仏教のように言われておりますが、その本旨とするところはすべての人びとに通じる、最も普遍的な教義であります。
二尊院
大覚寺
嵯嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山である。 当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。 その後一時荒廃したが、徳治2年(1307)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。 以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳3年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。 宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。 その外、御影堂(みえどう)、霊明殿(れいめいでん)、五大堂、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。 ◆由緒 嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の総本山である。当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺と改められ、大覚寺と名付けられた。 その後、一時荒廃したが、徳治元年(1308)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興すると共に大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳三年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。宸殿は、後水尾天皇の中宮東福院の旧殿を移築したものと伝え、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅梅図」などの豪華な絵で飾られている。その外御影堂、霊明殿、五大堂、安井堂、正寝殿、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。 ◆五大堂 大覚寺の古文書の中に「嵯峨天皇の勅願により嵯峨離宮に嵯峨五台山明王院五大堂を建立し、弘法大師が入唐した折 大唐より伝わった。 五大明王(重要文化財につき宝物殿に安置)を奉祀し、弘仁2年(811)3月11日に利民安世、五大明王秘法を修し給う。たちまち、五風十雨節序にしたがい百穀豊饒し、万民其澤に潤う」と、その由来が伝えられています。 現在の建物は、江戸時代の天明年間(1781~89)に再建されたもので、大覚寺の本堂です。本来は境内中央、勅使門の正面(現在の石舞台)の位置にありましたが、大正14年(1925)大正天皇即位式の饗応殿が下賜され御影堂(心経前殿)として建築されたため、現在地に移築されました。 また、現在お祀りされている本尊は、大覚寺創建1100年を記念して昭和50年(1975)に京都の大仏師松久朋琳と人間国宝松久宗琳の手で新しく造像されたものです。 近畿三十六不動尊第十三番の霊場として多くの人々に親しまれております。 ◆嵯峨菊の由来 嵯峨菊は旧嵯峨御所大覚寺境内の大沢池にある菊ヶ島に源を発し嵯峨帝がこの菊を親しくお挿しになった故事がある。 また、平安朝の歌人 紀友則は、「一本と思ひし菊を大沢の池の底にも誰か植ゑけん」と詠んでいる。 この嵯峨独特の野菊を、永年に亘り王朝の感覚を以って育成し、一つの型に仕立て上げた、風情のある洗練された格調高い菊が嵯峨菊である。この菊の仕立ては一鉢に三本立とし、長さは二メートルにする。 これは殿上から鑑賞されるに便利なよう高く育てる為である。 花は先端に三輪、中に五輪、下に七輪で七・五・三とし、葉は下を黄色に、中程は緑、上の方は淡緑になるようにする。花弁は平弁で五十四弁、長さは約十センチが理想の嵯峨菊の型であり、淡色の花が色とりどりに妍を競い高い香をただよわせる。 ◆大沢池 庭湖ともいい日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています 池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(こせのかなおか)が配置したといわれる庭湖石(ていこせき)があります この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています 遠くの山並みは東山連峰で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前は朝原山(遍照寺山)です この観月台からの中秋の名月は有名で 松尾芭蕉の 名月や 池をめぐりて 夜もすがら と句にも詠まれています。 また、左手奥には多宝塔や藤原公任が詠んだ 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ の名古曽の滝の石組み跡があります。 また 平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられ名勝に指定されています ◆霊明殿(れいめいでん) 昭和十一年の二・二六事件の凶弾に倒れた斎藤実第三十一代内閣総理大臣は昭和恐慌の折、国民の自力更正を願って昭和五年に東京都沼袋に自費で日仏寺を建立しました。その本堂を、大覚寺第五十二世草繋全宜(くさなぎぜんぎ)門跡が昭和三十三年に当地に移築し、霊明殿としたものです。正面には御本尊の阿弥陀如来を、右側には草繋門跡をお祀りしています。平成十一年、東京・招福不動住職斑目(まだらめ)日光僧正の寄進により修復され、移築当時の鮮やかな漆・丹塗がよみがえりました。 ◆貴賓館(きひんかん)・秩父宮御殿(ちちぶのみやごてん) 大正十二年、当時東宮仮御所であった霞ヶ関離宮に建てられたもの。昭和四十六年 大覚寺にご下賜されました。昭和四十八年移築復元され、現在は大覚寺の貴賓館です。竣工式には秩父宮妃殿下のご来臨をいただき、ご見分を賜りました。 ◆庭湖館(ていこかん) 江戸中期に建てられた大沢池畔にあった休憩所で、明治元年、現在地に移築されました。上段の間には、江戸時代の名僧慈雲(じうん)尊者の大幅掛軸「六大無礙(むげ)ニシテ常ニ瑜伽(ゆが)ナリ」が掛かっており「六大の間」と呼ばれています。 ◆心経殿(勅封心経殿) 大正十四年(一九二五年)の建立で法隆寺の夢殿を模した八角形で高床式のコンクリート造りの建物です。殿内には嵯峨天皇をはじめ後光巌、後花園、後奈良、正親町(おおぎまち)、光格天皇の般若心経の御写経が納められ薬師如来立像が奉伺されています。この勅封写経は天皇の命により封印をした経典として奉られ六十年に一度開封されています。 この建物は平成十年(一九九八年)に文化庁から「登録有形文化財」に指定されました。
天龍寺
龍安寺
臨済宗妙心寺派に属する。 もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、義天玄承(ぎてんげんしょう)を請じて禅院とし、義天はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を奉じて開山として、自らは2世となった。 一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)、細川政元が再興、その後名僧が相ついで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭(たっちゅう)23を数えるほど寺運は栄えた。 しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興しなかった。 方丈庭園(特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の名園として有名である。 長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず、象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。 あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。 その他、寺宝には、太平記12冊(重要文化財)などがある。 ◆由緒 臨済宗妙心寺派の寺院で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 もと徳大寺家の別荘であったが、宝徳2年(1450)に細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天玄承(ぎてんげんしょう)を招いて禅院とし、玄承はその師日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)を開山として、自らは創建開山となった。一時、応仁の乱により焼失したが、明応8年(1499)に細川政元が再興し、その後、名僧が相次いで住し、豊臣秀吉や徳川氏も寺領を寄付するなどして、最盛時には塔頭(たっちゅう)23を数えるほど寺運は栄えた。しかし、寛政9年(1797)に火災に遭い、その後次第に再建されたが、盛時の寺観は復興していない。 方丈庭園(国の史跡及び特別名勝)は、室町時代末期の作と伝えられ、枯山水の名庭として有名である。長方形の敷地の中に白砂を敷き、15個の石を配し、一木一草も用いず、象徴的に自然を映し出しており、枯山水庭園の極致を示したものといえる。あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているようにも見えるため、「虎の子渡し」とも呼ばれる。 方丈の東には、水戸光圀の寄進と伝えられる「吾唯足知」と刻まれた石造りの手水鉢がある。そのほか、寺宝として、太平記12冊(重要文化財)などを所蔵している。 現在の方丈は、そのとき西源院の方丈を移築したものである。方丈の前庭は枯山水の石庭として著名で、臨済宗妙心寺派に属し、大雲山と号し禅苑の名刹である。 ◆石群の鑑賞 石の象(かたち)、石群、その集合、離散、遠近、起伏、禅的、哲学的に見る人の思想、 信条によって多岐に解されている。 ◆庫裡 石段の正面の建物が庫裡で、禅宗寺院建築の簡素にして重厚、特に木組と白壁の調和がま た静寂の内に構成美をかもしだしている。 ◆鏡容池 この池は徳大寺家によって築かれたもので、かってはおしどりが群れ遊んだところからお しどり池と呼ばれた。石庭鑑賞後のひとめぐりも、何がなしぽっと心が和むのを覚えるの は、水の効果というものだろう。池の堤防からは龍安寺全景の山々が古来の姿そのままに 眺望され、四季それぞれの美しさは又格別である。 ◆つくばいと佗助椿 方丈の北東に据えてある銭形のつくばいは、一見“五、隹、止、矢"の文字に読まれるが、 中心の口を共用すれば、“吾唯足知“(ワレタダタルヲシル)と成り、禅の格言を謎解き に図案化された無言の悟道である。徳川光圀の寄進といわれている。秀吉が賞讃したと今 も伝えられる佗助の老樹が枯淡で景趣をそえている。 ◆茶室蔵六庵(非公開) 方丈から東庭を隔てた東北隅の茶室を蔵六庵という。蔵六という語は亀の別名で、頭・尾 ・四肢の六つを甲羅の中に隠すのでこの名がつけられた。江戸初期の茶人不遠庵僖首座の
仁和寺
真言宗御室派総本山。 886年(仁和2)、光孝天皇の勅願により創建、888年(仁和4)に完成。 年号を寺名とした。宇多天皇が落髪入寺し寺内に御室(御座所)を設け、御室御所とも呼ばれた。 以後、明治維新まで代々皇子皇孫が門跡となり門跡寺院の筆頭にあった。 堂塔伽藍は応仁の乱(1467-77)で多くを焼失、寛永年間(1624-44)に再興した。 金堂(国宝)は御所紫宸殿を移築。御影堂(重文)も旧清涼殿の材を用いて建立した。 霊宝館には、阿弥陀三尊像(国宝)、孔雀明王像(国宝)、三十帖冊子(国宝)など多くの寺宝を所蔵。 遅咲きの‘御室桜’は有名で名勝。 旧御室御所御殿の御所風たたずまい、豪華な襖絵が見事。 1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。 ※孔雀明王像と弘法大師の真筆三十帖冊子については展示予定無し 真言宗御室派の総本山で、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。 平安時代前期に光孝天皇が創建に着手した後、仁和4年(888)に宇多天皇が完成させ、仁和寺と名付けた。宇多天皇は退位の後、出家して、仁和寺内に僧坊を営み、30余年間修行に専心したため、法皇が御座する室(僧坊)ということから「御室」が後に仁和寺周辺の地名となった。 以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈を伝えたが、その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡西麓に仮御所をもうけた時期もあった。 現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川家光の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸殿を移して金堂(国宝)をはじめ、御影(みえ)堂・観音堂・鐘楼・五重塔・経蔵・二王門(いずれも重要文化財)などは当時の建物である。仁和寺境内は仁和寺御所跡として史跡に指定されている。 西門から成就山の麓にかけて、四国八十八ヶ所霊場を縮小した「御室八十八ヶ所巡りの霊場」があり、中門の左手には、遅咲きの桜の名所として有名な「御室(おむろ)の桜」(名勝)が見られる。 ◆名勝御室桜 中門を入ると左手に、湧き上がる雲のような御室桜が目に飛び込んできます。 御室桜の特徴は樹高が低く、根元より単弁の香りの高い白花を咲かせることです。 開花は4月20日前後と遅く、京都の春の終わりを飾ります。品種は大半が有明で、他には車返し、欝金(うこん)など十数種類の里桜があり、境内に二百余株植えられています。起源は古く、平安時代にまでさかのぼりますが、現在のものは江戸時代初期に植えられたもので、大正13年に名勝に指定されています。 ◆由緒 仁和2年(886)第58代光孝天皇は、都の西北大内山の麓に「西山御願寺」という一寺の建立を発願された。 天皇は翌年崩御されたが、次の宇多天皇が先帝の意志をつがれ、仁和4年(888)にこの寺が創建され、年号をとって「仁和寺」と命名された。宇多天皇は在位10年、寛平9年(897)醍醐天皇に譲位、2年後に出家得度され、わが国最初の「法皇」となられた。さらに延喜4年(904)には、仁和寺の中に法皇の御所である「御室(おむろ)」を建立され、承平元年(931)崩御されるまで、27年の間ここに住まわれたのである。 仁和寺の住職は「門跡(もんぜき)」と呼ばれている。「門」とは天皇を指し、宇多法皇から、慶応3年(1867)勅命によって退任された小松宮まで30代、およそ千年の間、仁和寺は皇室の寺院として知られるところとなった。 応仁2年(1468)兵火により全てが焼失、その後、双が丘の西麓に仮御所を設け法灯を護持していた。 仁和寺第21世覚深法親王(1588~1648)が三代将軍徳川家光に、仁和寺再興の申し入れを行い、約180年後再建されることとなった。 この時、御所から紫宸殿、清涼殿、常御殿、などが仁和寺へ移され、山門、中門、五重塔、観音堂などは新築された。仁和寺再建は、正保3年(1646)に完了した。 ところが、明治20年(1887)5月、火災により、仁和寺御殿を構成する大部分を焼失した。 明治23年(1890)に、現在の白書院などが建てられ、明治42年(1909)から本格的な再建が開始され、京都府技師亀岡末吉氏の全く新しい構想によって大正3年(1914)に完成をみた。 今日、金堂をはじめとする多くの建物は、国宝や重要文化財に指定されている。また、仁和寺の伽藍と御殿は、昭和12年(1937)史蹟名勝記念物保存法により、「史蹟仁和寺御所址」に、境内の桜は「名勝御室桜」にそれぞれ指定されている。さらに、平成6年に国連の「世界文化遺産」に登録された。 なお、仁和寺は、真言宗御室派の総本山として、また、御室流華道家元としても知られている。










