法界寺(日野薬師)

東光山と号し、日野薬師ともいう。永承6年(1051)日野資業(ひのすけなり)の本願によって創建された。 もと天台宗であったが、いまは真言宗醍醐派に属する。 代々日野家の一族門葉が資材をなげうって堂塔を整えたので荘厳美麗をきわめていたが、応仁の兵火にかかって焼失し、いまに残るものは本堂(重要文化財)と阿弥陀堂(国宝)の二宇である。 本堂は康正2年(1455)の古建築で、重要文化財指定の本尊薬師如来像(伝・伝教大師作)と脇士日光月光十二神将(伝・運慶作)を安置する。この本尊に祈願すると、授乳の霊験があらたかであるという。 阿弥陀堂は永承年間(1046~1053)に建造され、国宝で定朝式の阿弥陀如来座像を安置している。 これらの仏像は我国美術史上稀世の作として有名である。 ◆由緒 この寺は、藤原氏の北家にあたる日野家の菩提寺で、弘仁十三年(822)、藤原家宗が慈覚大師円仁より贈られた、伝教大師最澄自刻の薬師如来の小像をお祀りし、その後永承六年(1051)、日野資業が薬師如来像を造って、その小像を胎内に収め、薬師堂を建立して寺とした。  当時は観音堂、五大堂等多くの堂塔が立ち並んでいたが、今では本堂と阿弥陀堂を残すのみとなった。一般には日野薬師、乳薬師として知られている。 ◆阿弥陀堂(国宝) 藤原時代に起こった浄土教の流行や、末法思想等の影響で、極楽浄土の具象化として各地に建てられた典型的な阿弥陀堂建築の一つで、平等院鳳凰堂と相前後して建立された。 五間五面の檜皮葺、宝形造で、周囲一間の廂を付し、一見方七間の重曹建築の感がある。屋根には宝珠露盤を置き、屋根の勾配もゆるやかで、外観は、軽妙温雅である。 内部の天井は内陣が折上組入格天井、外陣は化粧屋根裏天井で垂木が感覚的で美しい。須弥壇の昇勾欄、組勾欄の反り具合、擬宝珠の穏やかな線など当時の特徴をよく遺している。 ◆阿弥陀如来坐像(国宝) 平等院鳳凰堂の本尊に最も近い定朝様式の典型的なすぐれた仏像で、寄木造り、漆箔、八角九重の蓮華座の上に飛天光背を背にして坐る。 丈六、上品上生印(弥陀定印)の像で、穏やかな慈容に流れるような衣文をたたんで薄い衣をまとい、弘仁、貞観期の神秘的な表情とは異なった円満豊麗な藤原時代阿弥陀仏を代表するものである。 光背は透彫の飛天光、天蓋も簡素ながら当初のものと思われる。 ◆壁画(重文) 内陣には、阿弥陀如来を取り巻く長押の上の漆喰の壁間に天井壁画が描かれ、法隆寺金堂壁画焼失後、完全なものとしては最古のものとなり、日本絵画史上貴重な存在となった。やさしい眼差し、さわやかな表情の飛天が空中より散華して本尊に供養する姿が軽快なタッチで自由奔放に描かれている。外壁には弥陀の坐像、四天柱には金剛界曼荼羅の諸尊六十四像と宝相華唐草が交互に彩色され、支輪、格天井にも宝相華が描かれている。 ◆薬師堂(重文) 法界寺の本堂で、当初のものは早く消失し、現在のものは、明治三十七年奈良県竜田の伝燈寺本堂を移築したもので、棟木に康正二年(1456)の銘がある。五間四面、単層、屋根は寄棟造、本瓦葺。内部は格子によって内外陣に区切られ、密教道場にふさわしい重厚な建物である。 ◆薬師如来(重文・秘文) 内陣厨子の中に安置されている高さ約80センチ、白木の檀像で、衣文に素晴らしい截金模様(きりがねもよう)がある。西国薬師第38番霊場の本尊で、胎内に伝教大師作と伝えられる胎内仏が蔵さめられている。胎児を宿す婦人の姿として、安産、授乳のご利益があり、特に若い女性の厚い信仰を集め、賓者が絶えない。 ◆十二神将像(重文・非公開) 堂内両脇の厨子に祀られ、小像ながら刀法はきびきびとして見るからに勇壮な姿態を表した鎌倉彫刻の傑作の一つである。 ◆親鸞聖人と日野家 浄土真宗の開祖見真大師親鸞聖人は、この法界寺を創った日野資業から四代後に、今を去る八百余年の昔、承安三年四月一日(陽暦五月二十一日)、皇太后宮大進正五位日野有範を父とし、吉光女を母としてここ法界寺でご誕生になりました。ご両親と早くお別れになりました聖人は、九歳の時に伯父範綱につれられて粟田青蓮院において慈円僧正を戒師としてご得度になりますが、得度された九歳までこの日野でお過ごしになり、ご幼少の頃お父君に手をひかれお母上に抱かれ、初めてみ仏さまのご縁を結ばれたのが、この法界寺の阿弥陀如来です。小さい両手を合わせて日夜合掌礼拝される聖人のお姿が今も堂内に浮かんでくる思いがいたします。比叡山でのご修学、さらに北陸、関東でのご巡化など、ひたすら念仏弘通のため、九十年のご一生をご苦労された親鸞聖人の全生涯は、この日野の里からはじまったわけであり、当時の姿をそのまま今に遺す阿弥陀堂ならびに阿弥陀如来のご尊像こそは、聖人と最も因縁の深い有り難いお堂と言わねばなりません。 また、日本史を彩った女達の一人、室町幕府八代将軍足利義政の正室日野富子も日野家の一族であります。 ◆日野家墓所 日野家一族のご廟所で、玉垣の奥深く苔むした大きい五輪塔姿が聖人の父有範の墓、その他母吉光女、伯父範綱、覚信尼等の廟所となっている。 ◆法界寺裸踊り(京都市登録民俗無形文化財) 元旦より十四日間本堂薬師堂において、五穀豊穣、万民快楽、諸願成就を祈る修正会法会が厳修され、結願日にあたる一月十四日の夜、精進潔斎した少年、青壮年の信徒が二組に分かれ、褌一つの裸形となり、水垢離をとったのち、阿弥陀堂広縁で、裸体をもみ合い、すり合い、両手を頭上高く拍ち合わせ「頂礼(ちょうらい)頂礼」と連呼し、寒夜の空もとどけとばかりに踊りつつ祈願をこめる荘重な祭典が繰り広げられる。 踊りに用いられた下帯の晒を、妊婦の腹帯として使用すると安産するというご利益があり、厚い信仰を集めている。

石峰寺

百丈山(ひゃくじょうざん)と号し、黄檗宗に属する。 宝永年間(1704~1711)、万福寺の千呆(せんがい)和尚の創建と伝えられ、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の本堂は、昭和60年に再建されたものである。 本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。 これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。 なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。 また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶椀子(ちゃわんこ)の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。 ◆百丈山五百羅漢 石峰寺 百丈山石峰寺は、宝永年間(1704~1711)黄檗宗第六世賜紫千呆(せんがい)禅師により建立された禅道場である。 以後寛政年間に画家伊藤若冲が当寺に草庵を結び、禅境を好み仏世の霊境を化度利益する事を願い、七代密山和尚の協賛を得て安永の半ばより天明初年まで前後十年余をかけて裏山に五百羅漢を造ったのである。 羅漢とは釈迦の説法を聞き世人より供養される者を言うのであるが、釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者を賛嘆する意味で宗・元時代より五百羅漢の作成が見られる。 我国に於ても室町時代以後この五百羅漢の作成が見られ、その表現は、虚飾のない表情の中に豊かな人間性と美を秘めている。当寺の五百羅漢は若冲が磊落な筆法にて下絵を描き、石工に掘らせたもので釈迦誕生より涅槃に至るものを中心とし諸菩薩、羅漢を一山に安置したものである。永年の風雨を得て丸み、苔寂びその風化に伴う表情や姿態に一段と趣を深めている。 明治以後荒廃していた羅漢山は龍潭和尚の篤志により、草を払い径を開き個々の石仏の趣きをみるによく整理されたものである。 ◆伊藤若冲(いとうじゃくちゅう 1716年~1800年) 江戸時代中期の画家。光琳派より宋・元の古画を学び、後写生を基礎として専ら動植物を描き特に鶏画家として有名である。 京都の青物問屋に生まれた彼は、仏教とくに禅への並々ならぬ傾倒を示し、三十歳代半ばより相国寺の大典禅師に参禅、若冲居士の号をえてから、ひたすら禁欲憎のような生活を守り生涯独身を貫き、子を残さなかった。 晩年隠棲者として石峰寺の古庵に住み、米一斗に一画を報い、斗米翁として、寛政十二年九月十日八十五歳の生涯を閉じた。 当山本堂南に若冲の墓と書家貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文の筆塚が立っている。

辨財天 長建寺

東光山と号し、真言宗醍醐派に属する。 八臂弁才天(鎌倉時代後期作)を本尊とし、一般に「島の弁天さん」の名で知られている。 元禄12年(1699)、伏見奉行建部内匠頭政宇(たてべたくみのかみまさいえ)が、中書島を開拓するに当り、深草大亀谷即成就院(そくじょうじゅいん)の塔頭多聞院(たもんいん)を当地に移し、弁才天を祀ったのが当寺の起りで、寺名は、建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた。 弁才天は、音楽をもって衆生を救う神で、福徳・智恵・財宝をもたらす七福神の一つとして多くの人々の信仰を集めている。 当寺で毎年7月23日に行われる「弁天祭」は、かつては、淀川に御輿(みこし)や篝船(かがりぶね)がくり出す舟渡御が盛大に行われていたが、淀川の河流が変ったことなどにより、昭和26年を最後に途絶えている。 現在は、弁天祭と2月節分祭には、醍醐派修験道の最高の神髄として柴燈(さいとう)大護摩修行が行われている。 また、正月には、現世利益を授かるため多くの参拝者で賑う。 ◆閼伽水(あかすい) 長建寺の本尊は、財宝福徳・出世開運・息災延命・諸芸上達などの福益をもたらす。江戸時代には淀川を往来する廻船の守護神として信仰を集めました。 辧財天は河川が神格化したものといわれ、昔、インドでは水の神として尊崇されていました。 「閼伽水」とは仏に供える水のことをさし、当寺に湧く井戸は酒どころ伏見に湧き出る良質の地下水と同じ水脈です。辧財天に供えられるほか、庭の桜などの銘木を潤すこの水を寺では大切にしており、密教十二天のひとつで、水の神・水天尊も祀られています。

雙林寺

唐から持ち帰った天台密教疏500巻などを献上した最澄のために桓武天皇が左大史尾張定鑑に命じ伽藍を建立させたのが始まり。 1384年(至徳1)時宗国阿上人が再興。国阿派の本山となったが、明治初年、天台宗に復した。 本尊薬師如来(重文)は平安初期の作。

醍醐寺

真言宗醍醐派の総本山である。 貞観16年(874)聖宝(しょうぼう)が、笠取山(上醍醐)に登って如意輪堂(にょいりんどう)、准胝堂(じゅんていどう)、五大堂を建立したのが当寺の起りで、延喜7年(907)醍醐天皇はこの寺を勅願寺とし、下醍醐に伽藍(がらん)を造営し、その興隆をみるにいたった。 4551

光雲寺

霊芝山(れいしざん)と号し、臨済宗南禅寺派に属する。 南禅寺北ノ坊とも呼ばれる。 もと摂津(大阪府)にあったが、寛文年間(1661年頃)後水尾天皇及び中宮東福門院(徳川家康の孫娘和子)が南禅寺の英中禅師に深く帰依され、当寺をこの地に移して再興された。 本尊には、東福門院(とうふくもんいん)の釈迦如来と観音菩薩を賜って安置した。 歴代皇室の尊崇あつく、元久邇(くにの)宮家の菩提所となっている。 もと境内は広大であったが、火災に遭い、また明治の初めの変革により縮小された。 本堂には、本尊のほか左右に阿難(あなん)、迦葉(かしょう)の二尊者東福門院の坐像を安置する。 書院南の庭園は、昭和の初め造園家小川治兵衛が作庭した。 疏水の水を引き、背景の山を借景とした池泉廻遊式の名園となった。 朝鮮伝来の碼碯(めのう)の手洗鉢が庭の東北隅にあって有名である。 寺の背後には後水尾天皇々女顕子内親王の墓、門前北には久邇宮家の墓がある。